昭和30年代!!
宅ふぁいる便 ご存知?

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ピンクの女王で名を馳せた女優 松井康子

松井 康子(まつい やすこ、1939年10月3日- )は日本の女優。本名同じ。芸名は牧和子(まき かずこ)。

1939年、松井久・宏子の娘として東京府東京市世田谷区に生まれる。
母の宏子は旧唐津藩主子爵小笠原氏第六代当主小笠原長生(小笠原賢之進・元海軍中将・元宮中顧問官・元学習院御用掛)の四女。映画監督の小笠原明峰(長生の長男、本名小笠原長隆)と俳優の小笠原章二郎(長生の次男、本名小笠原長英。当初の芸名は楠英二郎)は伯父。
母方の祖母秀子は元前橋藩主伯爵松平直方の長女。
学習院初等科・学習院女子中等科・学習院女子高等科を経て、1958年4月、学習院大学文学部に入学。

芸能界入り
1958年の秋、通院していたかかりつけの歯科医が松竹の嘱託医であったことが縁で、松竹社長城戸四郎にスカウトされる。大学を中退し松竹に入社。
1959年、内川清一郎監督の映画「パイナップル部隊」でデビュー。当初は大部屋女優で、デビュー作となった同作品でも端役であった。
その後も松竹の脇役女優として活動。1960年には「江戸の顔役」・「流転」、1961年には「背徳のメス」・「風来先生」・1963年には「港に消えたあいつ」等にいずれも脇役として出演した。

ピンク映画の女王
1963年、若松孝二が助監督を務めたテレビドラマに出演した後、若松に国映映画への出演を請われる。同年「牧和子」の芸名を名乗り、若松監督作品「おいろけ作戦 第一部 プレイガール」でピンク映画にデビュー、初主演を果たした。
翌1964年には小川欽也(小川和久)監督の「妾」に「牧和子」名義で出演。同作品は大ヒットとなる。
たて続けに国映映画に出演しヒット作を得て、山本富士子似と言われた純和風の美貌と豊満な肉体が評判になる。一方当時松井は松竹に所属していたことから、五社協定による規制の下、松竹側がこれを問題視。結局松井は松竹を退社した。
以後フリーで活動。国映には「牧和子」名義で、他社作品には松井康子の本名で出演するようになった。
150本以上のピンク映画に出演し、ピンク映画女優のパイオニア的存在となる。「ピンク映画の女王」と称され人気女優となった。

演技力への高い評価
ピンク映画以外の一般作品にも各社をまたにかけて多数出演。迫力ある濃厚な演技で映画ファンを唸らせた。
1968年、今村昌平監督に請われ、同監督作品「神々の深き欲望」に出演。兄と近親相姦する妹役を兄役の三国連太郎とともに熱演し、話題となった。
1970年代に入ると徐々に肥満となり、一時の美貌は失われたものの、一方で体型の変化から存在感を増し、1972年の「鏡の中の野心」等ではその演技力に対して高い評価が与えられるようになった。また自らピンク映画の監督を務めることもあった。
1976年には大島渚監督の日仏合作映画「愛のコリーダ」に「『田川』のおかみ」役で出演。独特の存在感のある演技が海外でも評判となる。
1977年、「肉体の悪魔」では娼婦役を演じた。名演・怪演と称えられ、メイクアップの工夫とともに高い評価を得た。

自然引退
その後はテレビドラマや日活ロマンポルノなどに出演したが、加齢と過度の肥満が重なり、次第に芸能活動を縮小していった。
1980年代以降は公の場に姿を見せることもなくなり、芸能界を自然引退した形となっている。

その他の活動
1966年の秋、東京都墨田区錦糸町にスナックを開店した。
1970年前後にブームとなったボウリングを趣味とし、選手権大会に出場するほどの腕前であった。
ピンク映画監督の小林悟との熱愛も話題となった。
風俗雑誌・お色気雑誌誌上にも多数登場した。

出演作品

映画
パイナップル部隊 1959年 松竹
晴れ姿勢揃い 剣侠五人男 1959年 松竹
江戸の顔役 1960年 松竹
流転 1960年 松竹
背徳のメス 1961年 松竹
風来先生 1961年 松竹
港に消えたあいつ 1963年 松竹
おいろけ作戦 第一部 プレイガール 1963年 国映
妾 1964年 国映
白日夢 1964年 松竹
続・妾 1964年 国映
くノ一化粧 1964年 東映
黒い雪 1965年 日活
源氏物語 1966年 日活
神々の深き欲望 1968年 日活
やくざ渡り鳥 悪党稼業 1969年 日活
夜をひらく 女の市場 1969年 日活
温泉こんにゃく芸者 1970年 東映
色暦大奥秘話 1971年 日活
温泉みみず芸者 1971年 東映
GOOD-BYE 1971年 日活
恐怖女子高校 女暴力教室 1972年 東映
エロ将軍と二十一人の愛妾 1972年 東映
鏡の中の野心 1972年 松竹
やくざと抗争 実録安藤組 1973年 東映
色魔狼 1973年  東映
実録・私設銀座警察 1973年 東映
暴力街 1974年 東映
直撃地獄変 大逆転 1974年 東映
新・団地妻 夫婦交換 1975年 日活
喜劇 特出しヒモ天国 1975年 東映
愛のコリーダ 1976年 東宝東和
キンキンのルンペン大将 1976年 東映
狂った野獣 1976年 東映
はだしのゲン 1976年 共同映画
肉体の悪魔 1977年 日活
若妻日記 悶える 1977年 日活
性と愛のコリーダ 1977年 日活
高校エロトピア 赤い制服 1979年 日活
宇能鴻一郎の濡れて開く 1979年 日活
ほか多数

テレビドラマ
痛快!河内山宗俊 1975年 フジテレビ  
本陣殺人事件(横溝正史シリーズ) 1977年 毎日放送
青春の門(第2部第13話) 1978年 毎日放送  

以上、フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より転載。

余談だが、私は昭和47年ごろ半年ばかり松井さんのマネージャーをしたことがある。女優さんと身近に接したのは松井さんだけだ。優しい思いやりのある女性だったと記憶している。

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存在感のある女優 松尾嘉代

松尾 嘉代(まつお かよ、1943年3月17日 - )は東京都出身の女優。

出演作品

映画
にあんちゃん(1959)
青い山脈(1963)
肉体の門(1964)
潮騒(1964)
けんかえれじい(1966)
眠狂四郎悪女狩り(1969)
子連れ狼 三途の川の乳母車 (1972/三隅研次監督、明石柳生の女当主・柳生鞘香)
必殺仕掛人 梅安蟻地獄(1973)
その後の仁義なき戦い(1979)
日本の黒幕(1979)
二百三高地(1980)
地震列島(1980)
夏の秘密(1982)
鍵(1983)
幻想のParis(1992)
釣りバカ日誌スペシャル(1994)
鍵〈デレクターズ・カット完全版〉(1997)

テレビ
東芝日曜劇場 - 多数出演
君は心の妻だから(1969年、朝日放送)
兄貴の恋人(1970年、フジテレビ)
お嫁にいきたい(1970年、フジテレビ)
パパと呼ばないで(1972年、日本テレビ)
ジキルとハイド(1973年、東宝・フジテレビ)
大盗賊(1974年、フジテレビ)
赤い激流(1977年、TBS)
横溝正史シリーズ2 八つ墓村(1978年、角川春樹事務所・毎日放送)
赤い激突(1978年、TBS)
柳生一族の陰謀(1979年、フジテレビ)
新・座頭市 第3シリーズ(1979年、フジテレビ) - 5話「ふたおもて蝶の道行」
警視-K(1980年、日本テレビ)
新五捕物帳(1981年 日本テレビ) - 第137話「恋心炎の舞い」 おたき役
眠狂四郎円月殺法(1982年、テレビ東京)
ひと夏の復讐(1983年、TBS)
三匹が斬る!(1987年、テレビ朝日)
イキのいい奴(1987年、NHK)
はぐれ刑事純情派(1988年、テレビ朝日)第1シリーズ第1回目出演
続・イキのいい奴(1988年、NHK)
土曜ワイド劇場 密会の宿シリーズ
火曜スーパーワイド 『三毛猫ホームズの結婚披露宴』(1989年、テレビ朝日)
火曜サスペンス劇場 『六月の花嫁1 殺人ダイアリー』(1989年6月6日、日本テレビ)
火曜ミステリー劇場 『切り裂かれた花嫁衣裳』(1991年4月30日、テレビ朝日)

その他

写真集
黄金郷(1991)
陽炎(1991)
SENSUAL(1992)

プロモーション・ビデオ
待ちかねて(1991)
SENSUAL官能の幻(1992)
焔のように(オムニバスビデオ)

以上、フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より転載。





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独特の喋り方をする女優 桃井かおり

桃井 かおり(ももい かおり、1952年4月8日 - )は、日本の女優。

東京都世田谷区出身。称号はフランス共和国のボージョレーワイン委員会とフランス食品振興会認定コンパニヨン・デュ・ボージョレー騎士。血液型O型。愛煙家。

清水ミチコ、内村光良や椿鬼奴などがパロディーをしている。

2005年公開のハリウッド映画『SAYURI』出演を期に、2006年には全米最大の俳優組織SAG(映画俳優組合)に加入、活躍の場をハリウッドにも広げる。

国際政治学者の桃井真の子供として生まれる。兄は脚本家の桃井章。中学生の時、イギリスのロイヤルバレエアカデミーに単身留学。

帰国後、女子美術大学付属高等学校・中学校へ入学。同校在学中は東京バレエ団に所属。同校卒業と同時にバレエを辞め、演劇を目指し文学座付属演劇研究所(養成所)第11期生に研究生として入る。映画『愛ふたたび』(市川崑監督)にて浅丘ルリ子の妹役でデビュー。1971年ATG映画『あらかじめ失われた恋人たちよ』(監督・田原総一朗)にてヒロインを演じ、本格的に映画デビュー。翌年、文学座を離れる。

『エロスは甘き香り』では、唯一のロマンポルノ映画として、大胆なヌードシーンを披露した。

アンニュイな感じの独特な喋り方である。

過去に出演したエーザイチョコラBBのCMで「世の中、バカが多くて疲れません?」というセリフに多数のクレームがついたことがある。この問題の後、「バカ」の部分は「お利口」に差し替えられて放送された(予め両方のパターンを撮っていたとの説もある)。

松任谷由実は親友


出演

テレビドラマ
それぞれの秋(1973年9月6日 - 12月13日、TBS)
天下堂々(1973年10月5日 - 1974年9月27日、NHK)
高校教師(1974年4月2日、4月23日、東京12チャンネル)1話と4話に出演、エリ役
傷だらけの天使(1974年10月5日 - 1975年3月29日、日本テレビ)
必殺必中仕事屋稼業(1975年1月18日、ABC)3話に出演、おはつ役
俺たちの旅(1975年10月5日 - 76年10月10日、日本テレビ)
前略おふくろ様(1975年10月17日 - 76年4月9日、日本テレビ)
男たちの旅路(1976年2月28日 - 3月31日・1977年2月5日 - 19日・11月21日 - 12月3日・1979年11月10日、NHK)
さよならの夏(1976年4月1日 - 6月24日、日本テレビ)
さくらの唄(1976年5月19日 - 11月10日、TBS)
ちょっとマイウェイ(1979年10月13日 - 1980年3月29日、日本テレビ)
小児病棟(1980年12月3日、日本テレビ)
ダウンタウン物語(1981年1月13日 - 4月21日、日本テレビ)
人間万事塞翁が丙午(1982年4月28日 - 7月21日、TBS)
ホームスイートホーム(1982年8月27日 - 11月5日、日本テレビ)
妻たちの熱い午後(1984年1月12日 - 2月23日、テレビ朝日)
名門私立女子高校(1984年11月2日 - 85年1月25日、日本テレビ)
殿様ごっこ(1988年10月31日 - 11月18日、NHK)
火の用心(1990年7月7日 - 9月29日、日本テレビ)
ルージュの伝言「中央フリーウェイ」(1991年5月15日、TBS)
コラ!なんばしよっと(1992年6月15日 - 7月8日、NHK)
コラ!なんばしよっとII(1993年6月14日 - 7月15日、NHK)
幸福の条件(1994年5月7日・14日、NHK)
警部補・古畑任三郎(1994年6月22日、フジテレビ)第1シーズン 第11話、中浦たか子役
新・花へんろ(1997年5月14日 - 6月18日、NHK)
コラ!なんばしよっとIII(1997年10月6日 - 11月6日、NHK)
ギフト(1997年5月7日、フジテレビ)第4話、橘川梨江役
ランデヴー(1998年7月3日 - 9月11日、TBS)
女医(1999年7月5日 - 9月13日、よみうりテレビ)
夜逃げ屋本舗スペシャル(1999年12月30日、日本テレビ)
R-17(2001年4月12日 - 6月21日、テレビ朝日)松崎桜子役
ビューティ7(2001年7月4日 - 9月12日、日本テレビ)
伝説のマダム(2003年4月14日 - 6月23日、日本テレビ)
他多数


その他のテレビ番組
ネイチャリングスペシャル 大砂漠サハラ縦断幻想行(1987年5月4日、テレビ朝日)
桃井かおり感動ユーラシア大陸横断1万キロ1500円大紀行!(1999年1月24日、フジテレビ)
桃井かおりのモスクワ音楽紀行(2002年12月15日、フジテレビ)
夢・音楽館(2003年4月3日 - 2005年3月11日、NHK)司会

ラジオドラマ
多砲塔の出番(1996年1月7日・14日)

ラジオ
若いこだま(1978年4月 - 11月、NHKラジオ)
すてきな午後6時(1978年10月 - 、FM東京)
ひとり身ポッチ(1979年4月 - 1982年10月、TBSラジオ)

映画
愛ふたたび(1971年)
あらかじめ失われた恋人たちよ(1971年)
赤い鳥逃げた?(1973年)
エロスは甘き香り(1973年)
青春の蹉跌(1974年)
竜馬暗殺(1974年)
櫛の火(1975年)
アフリカの光(1975年)
青春の殺人者(1976年)
幸福の黄色いハンカチ(1977年)
夜が崩れた(1978年)
男はつらいよ 翔んでる寅次郎(1979年)
もう頬づえはつかない(1979年)
神様のくれた赤ん坊(1979年)
影武者(1980年)
夕暮まで(1980年)
ええじゃないか(1981年)
青春の門(自立篇)(1982年)
疑惑(1982年)
キッドナップ・ブルース(1982年)
シングルガール(1983年)
メイン・テーマ(1984年)
生きてみたいもう一度 新宿バス放火事件(1985年)
コミック雑誌なんかいらない!(1986年)
キネマの天地(1986年)
おニャン子ザ・ムービー 危機イッパツ!(1986年)
自由な女神たち(1987年)
ハワイアン・ドリーム(1987年)
木村家の人びと(1988年)
噛む女(1988年)
TOMORROW/明日(1988年)
READY!LADY(1989年)
ドンマイ(1990年)
われに撃つ用意あり(1990年)
女がいちばん似合う職業(1990年)
僕は天使ぢゃないよ(1991年)
NOW IT'S THE BEST MOMEN0T IN OUR LIFE!! オムニバス映画 ご挨拶(1991年)
第2回欽ちゃんのシネマジャック なんかヘン? PART2(1994年)
棒の哀しみ(1994年)
ファザーファッカー(1995年)
トキワ荘の青春(1996年)
夏少女(1996年)
スワロウテイル(1996年)
東京夜曲(1997年)
ドリーム・スタジアム(1997年)
バウンス Ko GALS(1997年)
ラヂオの時間(1997年)
てなもんや商社(1998年)
大怪獣東京に現わる(1998年)
たどんとちくわ(1998年)
クロスファイア(2000年)
異邦人たち(2001年)
阿修羅のごとく(2003年)
IZO -以蔵-(2004年)
リバイバル・ブルース(2004年)
またの日の知華(2005年)
SAYURI(2005年、アメリカ)
太陽(2005年、ロシア)
無花果の顔(2006年) - 原案、脚本、監督(初監督)、母 役
武士の一分(2006年)
スキヤキ・ウエスタン ジャンゴ(2007年)

舞台
イッセー尾形・桃井かおりの二人芝居
桃井かおりの一人芝居
若き日のゴッホ (2003年)

CM
ヤマハ発動機 ソフトバイク(1979年)
新潮文庫(1980年)
エーザイ
ネスレ日本
モビット
マックスファクター SK-II
三貴 カメリア(2003年)
ハウス食品 ウコンの力(2006年)

書籍

著書
しあわせづくり(1981年、角川書店)
うつむきかげん(1982年、角川書店)
ひとり身ポッチ(1985年、角川書店)
卵を抱えて(1986年、中央公論社)
まどわく(1993年、読売新聞社)
賢いオッパイ(1999年、集英社)
夢チャンネル(2004年、新潮社)

雑誌
時刊MOMOIKAORI(2004年、学研研究社)
ディスコグラフィ

アルバム
ONE(1977年10月5日)
TWO(1978年7月5日)
KAORI MOMOI LIVE-恋・女ひとり-(1978年10月25日)
WATASHI(1979年6月25日)
しーんと淋しいネ・・・(1979年10月5日)
KAORI MOMOI CONCERT(1979年11月25日)
FOUR(1980年11月25日)
FIVE(1981年7月5日)
おもしろ遊戯(1982年2月25日)
SHOW?(1982年11月1日)
愛のエッセイ(1984年10月1日)
KAORI SINGS THE LADY(1986年7月)
More Standard(1993年10月21日)
モダンダード(1994年6月21日)

シングル
六本木心中 / やさしい女(1973年)
ついてはいけません / 蜃気楼のように(1977年10月5日)
嫌なこと言われたの / 昔のことなんか(1978年7月5日)
ブスの唄(ブルース) / 傷心-こいごころ-(1978年9月25日)
お喋りやめて / 夢(1978年9月25日)
かげろうの夜-1 / かげろうの夜-2(1978年9月25日)
少女時代 / 街(1978年11月5日)
尻軽女(アバズレ)ブルース / 忘れたいことは(1979年6月25日)
バイバイ子守唄(ララバイ) / POKER GAME BLUES(1981年1月5日)
メイク23秒 / 東京慕情(1981年8月25日)
口説いてくれて / ○あぬきいじょう物語(1982年1月21日)
ねじれたハートで / シングル・ナイト(桃井かおり・来生たかお)(1982年7月21日)
RENAISSANCE・再生 / You Are My 美人(Shan) Shine(桃井かおり・西田敏行)(1984年)
星港(シンガポール)ローズ / きまぐれ(1985年)
DAY BY DAY 女・美しく生きて下さい / 友情・美しく生きて下さい(1991年9月24日)
横浜 Lady Blues / ジュリアに傷心(ハートブレイク)(1993年11月21日)
予感 / 恋のバッドチューニング(1994年5月21日)

受賞
日本アカデミー賞主演女優賞 (1979年、神様のくれた赤ん坊 / もう頬づえはつかない)
日本アカデミー賞助演女優賞 (1978年、幸福の黄色いハンカチ)
ブルーリボン賞主演女優賞 (1979、1988、1997年)
ブルーリボン賞助演女優賞 (1977年)
キネマ旬報賞主演女優賞 (1979、1988、1997年)
キネマ旬報賞助演女優賞 (1977年)

以上、フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より転載。







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最高の喜劇役者 森繁久彌 

森繁 久彌(もりしげ ひさや、本名:同じ(旧姓:菅沼久彌)、1913年5月4日 - )は、日本の俳優。大阪府枚方蔵の谷(現・枚方市)出身。森繁事務所所属。森繁久弥と表記されることもある。通称:爺、爺や、モリシゲ、シゲさん。血液型はB型。身長171cm、体重78kg。

旧制第二高校教員、日本銀行、大阪市庁(現・大阪市役所)、大阪電燈株式會社等の重役職を経て、後に実業家となった父・菅沼達吉(1858?−1915?)と、大きな海産物問屋の娘であった母との間にできた3人兄弟の末っ子。しかし、久彌が2歳の時、父が死去。母方の実家も、いろいろと子細、経緯等があって、馬詰姓から森繁姓となった。長男は馬詰家を継ぎ、次男はそのまま菅沼家を継ぎ、3男・久彌は森繁家を継ぐ事となり、名字も森繁となる。

堂島尋常高等小学校、旧制北野中学校(現・大阪府立北野高等学校)、早稲田第一高等学院(現・早稲田大学高等学院)を経て、早稲田大学商学部へ進学。在学中は演劇部にて活躍、この頃に萬壽子夫人(当時、東京女子大学の学生)と知り合う。当時、必修とされていた軍事教練を拒否して大学を中退。東京宝塚(現・東宝)新劇団へ入団。その後舞台俳優、NHKアナウンサー等を経て、本格的な俳優活動に入る。
NHKアナウンサー時代には満州電信電話株式會社の放送局に勤務。満洲映画協会の映画のナレーションなどを手がけ、甘粕正彦とも交流があった。
また、満州巡業に来た5代目古今亭志ん生や6代目三遊亭圓生らとも親交を結んだ。アナウンサーになったきっかけは「徴兵制度を避ける為に、海外へ赴任できる当時としては数少ない仕事であったから」と、後の著書に記している。その一方で、川一本を隔てたソ連軍に対する謀略放送を行ったり(見つかれば確実に生きて帰れないほど接近したこともあったという)、蘭花特別攻撃隊(B29に体当たり攻撃を行う航空隊。本土での「震天隊」に相当)のための歌「空に咲く」の作詞も行っている。
向田邦子が本格的な放送作家となるきっかけを作った人物でもある。
『知床旅情』でシンガーソングライターとしてもデビューしている。『森繁自伝』で日本文芸家協会の推薦を受け、会員となった。
泉酒造の商品パッケージに使われている文字にも達筆ぶりが伺える。
日本俳優連合名誉会長。社団法人「あゆみの箱」会長。
岐阜県海津市にある「水と緑の館」の名誉館長でもあり、同館へ寄贈した文章は達筆過ぎて判読に時間がかかるらしい。
老年に入ってからは、整えられた白い口ひげと顎ひげを蓄えている。
近年は年齢/体力的なこともあり、2004年正月放送の「向田邦子の恋文」を最後に俳優活動を行っていない。また90年代以降、恒例であった芸能関係者の葬式での弔辞も、2004年1月の坂本朝一元・NHK会長での弔辞を最後に行っていない。これは加齢の為、声が聞き取り難くなっていることからだと思われる(元々クセのある聞き取りづらい声である)。
2007年2月23日に「最後の作品」と銘打った朗読DVD「霜夜狸(しもよだぬき)」が発売された。これは1991年に舞台用に録音されながらも、お蔵入りになった作品を元に新たに編集したものである。他に、現代社会への憂いを込めた「久弥の独り言」も収録されている(これは元々森繁自身が録音する予定だったが、声が弱っていることから、親交の深い竹脇無我が代読したものである。この作品を以って、戦前からの俳優生活に事実上ピリオドが打たれることになった。とはいえ、今も天気の良い日は散歩や観劇に出かけ、食欲も旺盛でフォアグラやステーキを平らげ、ホットブランデーを愛飲するなど元気な日々を送っている(関係者談)。また、「体は思うように動きませんが、心は現役」というコメントも発表された。
1986年、早稲田大学の卒業式に記念講演の講師として招かれた際、大学から卒業証書を受け、正式に卒業を認められた。

エピソード
久彌という名前は、父が大実業家・岩崎久彌と深い親交を持っていた事に由来する。
幕末の奥儒者・成島柳北は大叔父にあたる。
記念すべき「徹子の部屋」第1回放送分のゲスト(1976年2月)であるが、放送中に突然徹子の胸を触り(台本だとは思われるが)、ちょっとしたハプニングシーンとなった。この時の映像は、バラエティー番組で「徹子の部屋」第1回放送シーンが流れる度に使われる。
黒柳徹子によると、会う度に「1回どう?」と聞かれるらしい。
NHKで放映された、過去の落語家・漫才師・芸人などを独断と偏見で評価しまくる番組内で、7代目立川談志が「最高の喜劇役者は森繁久彌ですよ!」と珍しく絶賛していた。
竹脇無我の父、竹脇昌作とはアナウンサー時代からの親友で、竹脇無我は、森繁と自殺した父の姿がだぶることから彼を「オヤジ」と呼び慕っている。

受賞・受章歴
1991年、伝統芸能以外の俳優では初の文化勲章を受章している。

1963年2月2日:紺綬褒章
1963年6月19日:紺綬褒章飾版
1975年11月8日:紫綬褒章
1984年11月3日:文化功労者
1987年11月3日:勲二等瑞宝章
1991年11月3日:文化勲章

主な出演作品

ラジオ
日曜名作座(NHK第1放送、1957年〜継続中):2003年からは再放送。共演は加藤道子(故人)。
森繁ゴールデン劇場(文化放送、1961年〜62年)
今晩は森繁久彌です(文化放送、1964年〜67年)

映画
死に花(2004年東映)青木六三郎
ラストダンス 離婚式(2001年東宝)古川満吉
新サラリーマン専科(1997年松竹)
マグニチュード(1997年東宝)ナレーション
忠臣蔵 四十七人の刺客(1994年東宝)千坂兵部
流転の海(1990年東宝)松坂熊吾(主演)
ラッコ物語(1987年東宝)長老
風が吹くとき(1986年日本ヘラルド)ジム
さよならジュピター(1984年東宝)世界連邦大統領
小説吉田学校(1983年東宝)吉田茂(主演)
不思議な國・日本(1983年松竹)細田
連合艦隊(1981年東宝)本郷直樹
二百三高地(1980年東映)伊藤博文
夢・一族 ザ・らいばる(1979年東映)雨傘治平(主演)
二人のイーダ(1976年)須川利一郎
喜劇 百点満点(1976年東宝)北上大三(主演)
街の灯(1974松竹)栗田会長
喜劇 黄綬褒章(1973年東宝)山崎竜夫(主演)
恍惚の人(1973年東宝)立花茂造(主演)
座頭市御用旅(1972年東宝)藤兵衛
湯けむり110番 イルカの大将(1972年東宝)八十島仙吉(主演)
喜劇 女売り出します(1972松竹)金沢(主演)
女生きてます 盛り場渡り鳥(1972松竹)金沢(主演)
人生劇場 青春・愛欲・残侠篇(1972松竹)青成瓢太郎
男はつらいよ 純情篇(1971松竹)千造
喜劇 女は男のふるさとヨ(1971年松竹)金沢(主演)
喜劇 女生きてます(1971年松竹)金沢(主演)
続社長学ABC(1970年東宝)網野参太郎(主演)
社長学ABC(1970年東宝)網野参太郎(主演)
水戸黄門漫遊記(1969年東宝)水戸黄門(主演)
続社長えんま帖(1969年東宝)大高長太郎(主演)
社長えんま帖(1969年東宝)大高長太郎(主演)
喜劇 駅前桟橋(1969年東宝)森田徳之助(主演)
続社長繁盛記(1968年東宝)高山圭太郎(主演)
社長繁盛記(1968年東宝)高山圭太郎(主演)
喜劇 駅前火山(1968年東宝)森田徳之助(主演)
喜劇 駅前開運(1968年東宝)森田徳之助(主演)
続社長千一夜(1967年東宝)庄司啓太郎(主演)
社長千一夜(1967年東宝)庄司啓太郎(主演)
喜劇 駅前満貫(1967年東宝)森田徳之助(主演)
喜劇 駅前探検(1967年東宝)森田徳之助(主演)
喜劇 駅前百年(1967年東宝)森田徳之助(主演)
仰げば尊し(1966年東宝)浜口丈太郎(主演)
社長行状記(1966年東宝)栗原弥一郎(主演)
喜劇 駅前漫画(1966年東宝)森田徳之助(主演)
喜劇 駅前弁天(1966年東宝)森田徳之助(主演)
喜劇 駅前競馬(1966年東宝)森田徳之助(主演)
喜劇 駅前番頭(1966年東宝)森田徳之助(主演)
大工太平記(1965年東宝)太田三治(主演)
社長忍法帖(1965年東宝)岩戸久太郎(主演)
喜劇 各駅停車(1965年東宝)寺山源吉(主演)
喜劇 駅前大学(1965年東宝)森田徳之助(主演)
喜劇 駅前医院(1965年東宝)森田徳之助(主演)
喜劇 駅前金融(1965年東宝)森田徳之助(主演)
沙羅の門(1964年東宝)承海
天才詐欺師物語(1964年東宝)赤井紋太
続社長紳士録(1964年東宝)小泉礼太郎(主演)
社長紳士録(1964年東宝)小泉礼太郎(主演)
裸の重役(1964年東宝)日高孝四郎(主演)
喜劇 駅前女将(1964年東宝)森田徳之助(主演)
喜劇 駅前怪談(1964年東宝)森田徳之助(主演)
喜劇 駅前音頭(1964年東宝)森田徳之助(主演)
喜劇 駅前天神(1964年東宝)森田徳之助(主演)
喜劇 とんかつ一代記(1963年東宝)五井久作(主演)
台所太平記(1963年東宝)千合磊吉(主演)
続社長外遊記(1963年東宝)風間圭之助(主演)
社長外遊記(1963年東宝)風間圭之助(主演)
喜劇 駅前茶釜(1963年東宝)森田徳之助(主演)
新・夫婦善哉(1963年東宝)維康柳吉(主演)
続社長漫遊記(1963年東宝)堂本平太郎(主演)
社長漫遊記(1963年東宝)堂本平太郎(主演)
憂愁平野分(1963年東宝)納所賢行(主演)
喜劇 団地親分(1962年東宝)相原竹夫
如何なる星の下に(1962年東宝)但馬
喜劇 駅前飯店(1962年東宝)徳清波(主演)
喜劇 駅前温泉(1962年東宝)吉田徳之助(主演)
続社長洋行記(1962年東宝)本田英之助(主演)
社長洋行記(1962年東宝)本田英之助(主演)
青べか物語(1962年東宝)先生(主演)
続サラリーマン清水港(1962年東宝)山本長五郎(主演)
サラリーマン清水港(1962年東宝)山本長五郎(主演)
社長道中記(1961年東宝)三沢英之助(主演)
駅前団地(1961年東宝)戸倉金太郎(主演)
伴淳・森繁のおったまげ村物語(1961年松竹)熊坂長吉
喜劇 駅前弁当(1961年東宝)柳田金太郎(主演)
南の島に雪が降る(1961年東宝)森大尉
猫と鰹節(1961年東宝)白神善六(主演)
縞の背広の親分衆(1961年東宝)守野圭助(主演)
河内風土記 おいろけ説法(1961年東宝)今野東吾(主演)
小早川家の秋(1961年東宝)磯村英一郎
サラリーマン忠臣蔵(1960年東宝)大石良雄(主演)
ふんどし医者(1960年東宝)小山慶斎(主演)
珍品堂主人(1960年東宝)加納夏麿(主演)
路傍の石(1960年東宝)愛川庄吾
がめつい奴(1960年東宝)彦八
地の果てに生きる(1960年東宝)村田彦市(主演)
天下の大泥棒 白波五人男(1960年東宝)竜太/日本駄右衛門(主演)
飛びっちょ勘太郎(1959年東宝)素っ飛び勘太郎(主演)
男性飼育法(1959年東宝)佐谷伸吉(主演)
社長太平記(1959年東宝)牧田正太郎(主演)
グラマ島の誘惑(1959年東宝)香椎宮為久(主演)
花のれん(1959年東宝)河島吉三郎
新・三等重役(1959年東宝)沢村四郎(主演)
白蛇伝(1958年東映)(アニメーション)
駅前旅館(1958年東宝)生野次平(主演)
人生劇場 青春編(1958年東宝)吉良常
野良猫(1958年東宝)村上兵太郎(主演)
暖簾(1958年東宝)八田吾平(主演)
恋は異なもの味なもの(1958年東宝)繁三(主演)
社長三代記(1958年東宝)浅川啓太郎
負ケラレマセン勝ツマデハ(1958年東宝)岡見久吉(主演)
みみずく説法(1958年東宝)今野東吾(主演)
欲(1958年松竹)古巻大五郎
口から出まかせ(1958年東宝)宮本小次郎(主演)
森繁の僕は美容師(1957年東宝)川田貫一(主演)
山鳩(1957年東宝)多木弁造(主演)
伴淳・森繁の糞尿譚(1957年東宝)阿部丑之助
おしゃべり社長(1957年東宝)早乙女修(主演)
雨情(1957年東宝)野口雨情(主演)
裸の街(1957年東宝)増山金作
神阪四郎の犯罪(1956年日活)神阪四郎(主演)
世にも面白い男の一生(1956年東宝)桂春団治(主演)
はりきり社長(1956年東宝)大神田平太郎(主演)
花嫁募集中(1956年東宝)川本金太郎(主演)
鬼の居ぬ間(1956年東宝)丹木南平(主演)
森繁の新婚旅行(1956年東宝)森文吾(主演)
力道山 男の魂(1956年東宝)吾助
猫と庄三と二人のおんな(1956年東宝)庄三(主演)
へそくり社長(1956年東宝)田代善之助(主演)
森繁よ何処へ行く(1956年東宝)森繁太郎(主演)
森繁のやりくり社員(1955年東宝)森岡繁(主演)
いらっしゃいませ(1955年東宝)区々均平(主演)
我が名はペテン師(1955年東宝)ペテン師堀川(主演)
スラバヤ殿下(1955年日活)長曾我部久太郎、長曾我部永二(主演)
警察日記(1955年日活)吉井巡査
陽気な天国(1955年日活)久森繁也
森繁の新入社員(1955年東宝)豊臣三太郎(主演)
番場の忠太郎(1955年東宝)青木一作
森繁のデマカセ紳士(1955年東宝)ペテン師堀川(主演)
夫婦善哉(1955年東宝)維康柳吉(主演)
人生とんぼ返り(1955年日活)段平(主演)
土曜日の天使(1954年東宝)片岡敬吉(主演)
重盛君上京す(1954年東宝)重盛重夫(主演)
一等社員(1953年東宝)天栗太郎(主演)
亭主の祭典(1953年東宝)天野修作(主演)
権九郎旅日記(1953年東宝)杉本権九郎(主演)
喧嘩篭(1953年東宝)鼠小僧
安五郎出世(1953年東宝)中山安五郎(主演)
坊っちゃん(1953年東宝)赤シャツ
凸凹太閤記(1953年東宝)木下藤吉郎(主演)
明日は日曜日(1952年大映)宮田課長
腰抜け巌流島(1952年大映)宮本武蔵(主演)
ちょび髭漫遊記(1952年東映)無敵尊者
三等重役(1952年東宝)浦島人事課長
息子の花嫁(1952年東宝)千造
上海帰りのリル(1952年東宝)岡村一郎
浮雲日記(1952年東宝)王手の仙吉
チャッカリ夫人とウッカリ夫人(1952年東宝)茂さん
極楽六花撰(1951年東宝)暗闇の丑松
遊侠往来(1951年東宝)留吉
ブンガワンソロ(1951年東宝)武一等平
有頂天時代(1951年東宝)片倉
新遊侠伝説(1951年東宝)留吉

テレビドラマ
向田邦子の恋文 (2004年、TBS) 庄野羊吉
裸の大将(園長先生)
おやじのヒゲ(TBS)
永遠のアトム 手塚治虫物語(1999年、テレビ東京)
五稜郭(1988年、日本テレビ)佐藤泰然
田原坂(1987年、日本テレビ)
白虎隊(1986年、日本テレビ、井上丘隅)
忠臣蔵(1985年、日本テレビ、吉良上野介)
関ヶ原(1981年、TBS、徳川家康)
元禄太平記(1975年、NHK大河ドラマ、徳川光圀)
七人の孫(1964年、TBS)
水戸黄門(TBS・C.A.L.)当初は光圀役を演じる予定だった。
第5部 第24話「二人の御老公・佐賀」鍋島光茂役
第14部 第19話「悪を懲らした喧嘩友達・会津」松平正容役
第15部 第12話「偽黄門様は喧嘩医者・小倉」医師 玄磧役
第22部 第23話「悪計暴いた備前焼・岡山」備前遊山役
第23部 第22話「白いお髭の意地比べ・萩」毛利綱広役
1000回記念3時間スペシャル 紀伊国屋文左衛門役
江戸を斬る(TBS・C.A.L.)徳川斉昭
翔んでる!平賀源内(TBS・C.A.L.)
南町奉行捕物帖 怒れ!求馬(1997年、TBS・C.A.L.)(第1話と第2話のみ)田安幽斉
大往生(1996年、NHK)
太陽の丘(1966年〜67年、NHK)
だいこんの花
どてかぼちゃ
大岡越前(TBS)見雲遊山

アニメ(声の出演)
ドラえもん のび太と翼の勇者たち(2001年、東宝)鳥野博士の声
もののけ姫(1997年、東宝)エミシの長老、乙事主の声

CM
興和 キャベジンコーワ
三井不動産 レッツ

その他
徹子の部屋(1976年2月第1回ほかゲスト)
ミュージカル屋根の上のヴァイオリン弾き(1967〜86年テビィエ役)

以上、フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より転載。







ま行

世界的な名俳優はこの人 三船敏郎

三船 敏郎(みふね としろう、1920年4月1日 - 1997年12月24日)は世界の映画史に残る日本の俳優。

ベネチア国際映画祭主演男優賞を2度受賞するなど海外での評価も高く、「世界のクロサワ」の黒澤明と共に「世界のミフネ」と呼ばれた。米映画「グラン・プリ」、70mm「太平洋の地獄 Hell in the Pacigic」フランス映画「レッド・サン」など海外作品出演も多数。稼ぎも歴代の日本のスターの中で別格であり、経営する三船プロダクションは東京世田谷に大手の映画会社に次ぐ規模のスタジオを所有し、大勢のスタッフを常時雇用していた。

元俳優で映画プロデューサーの三船史郎、女優の三船美佳は内縁の妻との間にできた子供。

中国・山東省青島で貿易商、写真業を営む三船徳造の長男として生まれる。父は秋田県鳥海町出身。若い頃から、良い意味でも悪い意味でもワルだったと言う。その後大連に移り住み、大連中学卒業後、甲種合格で兵役につく。満州陸軍第七航空隊に入隊。写真の経験・知識があるということから写真部に配属され航空写真を扱う。後年もカメラに対するこだわりは深かったという。この時期に知り合った鷺巣富雄とは、その後生涯にわたる交友関係となる。熊本の特攻隊基地で終戦を迎える。日本の敗戦を耳にし、「ざまあみろ」と思った話は有名。

東京の東宝撮影所撮影部にいる先輩である大山年治から「戦後、仕事に困ったら尋ねてきなさい」と言われていた為、カメラマン助手の仕事を依頼。履歴書を提出したところ、「何かの手違いで」東宝第一期ニューフェイス募集に回されていたため、面接を受けることになった。人を食ったような態度(笑ってみて、と審査員に言われた時「面白くもないのに笑えませんよ」と答えたという)で不合格になりかけたが、山本嘉次郎監督が審査員をしていた中、山本の弟子ともいえる黒澤明がたまたまそれを目撃した。黒澤は「彼を採用してくれ。駄目だったら俺が全て責任をとる」とまで直訴。太々しさの中に見える大器の可能性も買われて補欠採用され、思わぬ形で役者の世界に入った。

1947年に黒澤が脚本、黒澤の盟友・谷口千吉が監督をつとめた映画「銀嶺の果て」でデビュー。雪山で遭難する三人の内の一人を演ずるが、二人目は志村喬だった。翌1948年にはデビュー三作目として黒澤監督「酔いどれ天使」に、破滅的な生き方をするチンピラ役で登場した。主演は医師役の志村だったが、ぎらぎらした野性味あふれる演技で圧倒、一躍人気が上昇する。

その後黒澤作品には欠かせぬ存在となり「酔いどれ天使」から「赤ひげ」までの16年間、出演しなかった黒澤映画は「生きる」一作のみである。現代劇、時代劇問わぬ黒澤映画の顔であったが、黒澤との確執も伝えらた。三船の死後、黒澤は「会って、三船君、本当によくやったなあ、と褒めてあげたかった。あんな素晴らしい俳優はもういません」と悔やんでいる。ちなみに三船がこの世を去った半年後に黒澤もこの世を去っている。

黒澤作品以外にも稲垣浩監督の「戦国無頼」 (1952) 、「宮本武蔵」 (1954) 、「無法松の一生」 (1958) 、岡本喜八監督の「侍」 (1965) 、「赤毛」 (1969) 、熊井啓監督の「千利休 本覺坊遺文」 (1989) など数多くの作品に主演。初期のころは「七人の侍」の影響か豪放な役が多かったがその後、戦国武将や東郷平八郎・山本五十六といった軍人・偉人の役が多くなった。

晩年は山田洋次監督「男はつらいよ知床慕情」 (1987) の頑固者の老獣医師や、市川崑監督の「竹取物語」 (1987) の竹の造翁など渋い演技を見せた。撮影に入る前に台詞・演技を全て体に覚えさせ、撮影に台本を持参しないことも多い、という高いプロ意識でも知られた。

私生活では、1950年に、東宝第一期ニューフェイスで同期だった女優・吉峰幸子と結婚。その後、女優・喜多川美佳との交際が発覚して幸子夫人と別居。実態は家庭内暴力に悩まされた幸子夫人により、三船が追い出された形だったが、本心は三船の改心を望んでいたという。しかし、三船側より離婚訴訟が起こされるに及んで、家庭内の振る舞いが暴露されることになり、そのイメージが大きく低下した。この間、内縁関係にあった喜多川との間にもうけた娘が、現在の三船美佳である。その後1992年に心筋梗塞で倒れたのをきっかけに、三船は正妻のもとに戻った。

1962年には三船プロダクションを設立し映画「五十万人の遺産」で自ら初監督。映画「黒部の太陽」(石原プロモーションと合同で制作)のほか、「桃太郎侍」「荒野の素浪人」「大忠臣蔵」などテレビドラマを制作した。しかし、1979年に内紛で分裂し、その後は振るわなかった。

1986年春の叙勲で紫綬褒章を、1993年春の叙勲で勲三等瑞宝章を受章。1997年12月24日全機能不全のため死去。享年77。晩年は軽度の認知症を発症していたといわれる。遺作は1995年の「深い河」(熊井啓監督)だった。

海外で空港税関係員に「Do you have any spirits?(あなたはアルコール類を持っていますか?)」と質問され、「Yes! I have Yamato-Damashii!(そうだ、俺は大和魂を持っている)」と堂々と答えたことがある。

達筆で知られ、自社の事務所の掃除も自ら進んでする(訪問者が三船本人と気付かなかったという逸話がある)程の掃除好きだった。

酒癖が悪く、酒を飲むと性格が一変した。酔ってタクシー内で安藤昇に殴りかかり、逆に殴り返され、顔が腫れて翌日は撮影にならなかったこともある。

硬派なイメージの強い三船だが、実際には気さくな一面もあった。

「ダウンタウンDX」に娘の美佳が出演した際、彼のプライベート映像が放送され、美佳にオヤジギャグを言う姿も披露された。
1980年のTBS正月特番ドラマだった「関ヶ原」の宣伝の一環として「8時だョ!全員集合」にゲスト出演。鎧甲を付けた戦国武将の扮装で番組冒頭のコント劇に出演し、同じく戦国武将役のいかりや長介と二言三言の会話を交わして(この時、三船が「カラスの歌を聞きたい」と言ったのでいかりやは志村けんを三船の前に呼び出して「♪カラスの勝手でしょ〜」を歌わせた)舞台袖に退場していったのだが、なんと退場しながら同番組名物だったヒゲダンスを披露。世界的な大スターがドリフターズのギャグを演じたことに対し、客席からは笑いではなく深いどよめきが起きた。これは事前の打ち合わせにはない全くのアドリブだったようで、いかりやは舞台上で「ああいう人が、ああいうことをやるなんて・・・」と真顔で驚嘆した。三船は冒頭コント劇の後で「早口言葉」コーナーにも出演し、真顔でドスの効いた声で「生麦生米生卵・・・」と歌って一同を爆笑の渦に巻き込んだ。

「世界のミフネ」
1951年に「羅生門」がベネチア国際映画祭で金獅子賞を受賞し、クロサワとともにミフネの名も世界に知れ渡った。1961年に初の海外作品「価値ある男」(メキシコ映画)でメキシコ人役で主演。その後の海外の名優との競演は、以下の作品などが挙げられる。

1967年「グラン・プリ」(ジョン・フランケンハイマー監督)イブ・モンタン
1968年「太平洋の地獄」(ジョン・ブアマン監督)リー・マービン
1971年 フランス映画「レッド・サン」(テレンス・ヤング監督)アラン・ドロン、チャールズ・ブロンソン
1976年「ミッドウェイ」チャールトン・ヘストン、ヘンリー・フォンダ
1976年「太陽にかける橋 ペーパータイガー」デビッド・ニーブン
1979年「ウィンターキルズ」ジェフ・ブリジッス
1979年「1941」(スティーブン・スピルバーグ監督)ジョン・ベルーシ
1980年「将軍」リチャード・チェンバレン
1980年「インチョン!」(テレンス・ヤング監督)ローレンス・オリビエ
1980年「最後のサムライ ザ・チャレンジ」(ジョン・フランケンハイマー監督)スコット・グレン
1980年「兜KABUTO」(ゴードン・ヘスラー監督)ショー・コスギ
1994年「シャドー・オブ・ウルフ」ドナルド・サザーランド
1995年「ピクチャーブライド」(カヨ・ハッタ監督)
アラン・ドロンは自らがプロデュースするブランドの香水「サムライ SAMOURAI」の香りのイメージを、「三船敏郎を基調とした日本のサムライ」とした。またマーロン・ブランドは飛行機に乗っていた際、三船が同乗している事を知るや自分から挨拶に行ったというエピソードがあり、三船が死去した時も弔辞を述べている。

しかし黒澤に薫陶を受けたジョージ・ルーカス監督の「スター・ウォーズ」(1977) で、重要な役どころのダース・ベイダー役(当初はオビ=ワン・ケノービ役という説もあったが、娘の三船美佳の証言により「ダース・ベイダー」が正しかったようだ)の申し出を断った逸話は有名。もっとも当時のルーカスは現在ほどの巨匠ではなく、「スター・ウォーズ」もあれほどの大ヒットになるかどうか全く予想できなかった時点(製作前)での話であることに注意が必要。またルーカスが「黒澤に薫陶を受けた」というのは、一人のファンとして黒澤を熱愛し影響を受けたという意味であって、当時(70年代)のルーカスが黒澤と直接会ったり教えを受けたりしていたわけではない。オファーを受けた三船にしてみれば「知らない監督の、わけの分からないSF活劇映画」という印象でしかなかったと言われている。

その後、同じくハリウッド映画の寵児・ スティーヴン・スピルバーグ監督の「1941」(1979) に日本人潜水艦長役で出演するが、興行的には失敗に終わった。その後、「スター・ウォーズ/ジェダイの復讐」(1983) にてダース・ヴェイダーの素顔、アナキン・スカイウォーカーの役をオファーされるが、これも辞退。(余談だが、出演拒否されると思ってなかった制作側は三船をイメージした商品を許諾、このため最初期のアナキンのアクションフィギュアのパッケージは思いっ切り三船顔になっているのが興味深い。)さらに「ベストキッド」(1984)のミヤギ役を断っている(代わりに出演した日系人俳優パット・モリタはアカデミー助演男優賞にノミネートされた。)

米国人に最も有名なのはテレビドラマ「SHOGUN 将軍」(1980) の将軍役で、ミフネ=サムライのイメージが固定した。1980年代のアメリカの人気テレビショー・サタデー・ナイト・ライブではジョン・ベルーシが用心棒の主役の物まねで人気を博した。 米国産コンピュータRPGのウィザードリィには、敵役サムライの首領的存在として「ミフネ」が登場してくる。また「マトリックス・リローデッド」「マトリックス・レボリューションズ」には「ミフネ船長」なる人物も登場し、アジア系ではないが容姿の良く似た俳優が起用されている。

海外での受賞やノミネート歴は、1955年「七人の侍」で英国アカデミー賞主演男優賞(外国語)ノミネート。1961年「用心棒」でヴェネチア映画祭主演男優賞、シネマヌーヴァ金額賞。1965年「赤ひげ」でヴェネチア映画祭主演男優賞、1980年「将軍」で米国エミー賞主演男優賞ノミネート。その他、フランスの芸術文化勲章、モントリオール映画祭特別グランプリ、マニラ映画祭では「最もセクシーな俳優」に選ばれた事もある。

三船は多くの日本の俳優(渡辺謙や松田優作を含む)と違い、海外からの出演オファーは数え切れないほど多く、晩年においても一年で通常の段ボール箱が一杯になるほど依頼が殺到していた。三船の出演を決断させる要素は「日本人を茶化さない」、「三船プロの運営に支障をきたさない(デルス・ウザーラやスター・ウォーズの出演辞退はこれに該当)」、「制作サイドの誠意ある交渉」等があり、それらの条件をクリアした相手に対しては「出演させていただきます」というような誠意をもって応えた。

晩年は米映画「Shadow of the Wolf」 (1993) のイヌイット族長役や 「Picture Bride(ピクチャー・ブライド)」 (1994) の日本人弁士役としても出演し、老境の渋みをみせた。なお、死後の1999年には、ミフネの演じたサムライへのオマージュともいえるデンマーク映画「ミフネ」がベルリン映画祭銀熊賞を受賞した。


主な出演作品

映画
★印は黒澤監督作品。

「銀嶺の果て」(1947年)
★「酔いどれ天使」(1948年)
★「静かなる決闘」(1949年)
★「野良犬」(1949年)
★「醜聞(スキャンダル)」(1950年)
★「羅生門」(1950年)ヴェネチア映画祭金獅子賞、米アカデミー賞外国語映画賞、米アカデミー賞美術賞ノミネート、ナショナル・ボード・オブ・レビュー監督賞・外国語映画賞
★「白痴」(1951年)
「馬喰一代」(1951年)
「西鶴一代女」(1952年)ヴェネチア映画祭国際賞
「戦国無頼」(1952年)
「太平洋の鷲」(1953年)
★「七人の侍」(1954年)ヴェネチア映画祭銀獅子賞、米アカデミー賞美術賞・衣装デザイン賞ノミネート
「潮騒」(1954年)
「宮本武蔵」(1954年)米アカデミー賞外国語映画賞
★「生きものの記録」(1955年)カンヌ映画祭コンペティション
「暗黒街」(1956年)
★「蜘蛛巣城」(1957年)ヴェネチア映画祭コンペティション、ロサンゼルス映画賞
「柳生武芸帳」(1957年)
★「どん底」(1957年)
「無法松の一生」(1958年)ヴェネチア映画祭金獅子賞
★「隠し砦の三悪人」(1958年)ベルリン映画祭監督賞、国際批評家連盟賞
「独立愚連隊」(1959年)
「日本誕生」(1959年)
★「悪い奴ほどよく眠る」(1960年)ベルリン映画祭コンペティション
「ハワイ・ミッドウェイ大海空戦 太平洋の嵐」(1960年)
★「用心棒」(1961年)ヴェネチア映画祭主演男優賞、米アカデミー賞衣装デザイン賞ノミネート
「価値ある男」(1961年、メキシコ映画)米アカデミー賞外国語映画賞ノミネート、ゴールデングローブ賞外国語映画賞
★「椿三十郎」(1962年)
「太平洋の翼」(1963年)
★「天国と地獄」 (1963) ヴェネチア映画祭コンペティション
「五十万人の遺産」(1963年、製作・監督も担当)
「大盗賊」(1963年)
「侍」(1965年)
★「赤ひげ」(1965年)ヴェネチア映画祭主演男優賞・サンジョルジュ賞
「太平洋奇跡の作戦 キスカ」(1965年)
「奇巌城の冒険」(1966年)
「日本のいちばん長い日」(1967年)
「グラン・プリ」(1967年)米アカデミー賞編集賞・音響賞・音響効果編集賞
「黒部の太陽」(1968年)
「連合艦隊司令長官 山本五十六」(1968年)
「太平洋の地獄」(1968年)
「風林火山」(1969年)
「日本海大海戦」(1969年)
「赤毛」(1969年)
「新選組」(1970年)
「座頭市と用心棒」(1970年)
「幕末」(1970年)
「激動の昭和史・軍閥」(1970年)
「待ち伏せ」(1971年)
「レッド・サン」(1971年、フランス映画)
「太陽にかける橋・ペイパー・タイガー」(1976年、イギリス映画)
「ミッドウェイ」(1976年、アメリカ映画)山本五十六役
「人間の証明」(1977年)
「柳生一族の陰謀」(1978年)
「赤穂城断絶」(1978年)
「水戸黄門」(1978年)
「Winter Kills」(1979年、アメリカ映画)
「金田一耕助の冒険」(1979年)
「1941」(1980年、アメリカ映画)
「インチョン!」(1980年、アメリカ映画)
「二百三高地」(1980年)
「SHOGUN 将軍」(1980年、アメリカ映画)
「日本海大海戦 海ゆかば」(1983年)
「海燕ジョーの奇跡」(1984年)
「シャタラー」(1987年、日本・イタリア合作映画)
「男はつらいよ 知床慕情」(1987年)
「竹取物語」(1987年)
「千利休 本覺坊遺文」(1989年)ヴェネチア映画祭銀獅子賞
「兜KABUTO」(1991年、アメリカ映画)
「深い河」(1995年)モントリオール映画祭エキュメニカル賞
「Shadow of Wolf」(1996年、フランス・カナダ合作映画)
「ピクチャーブライド」(1996年日本公開、アメリカ映画)カンヌ映画祭コンペティション

テレビドラマ
「大忠臣蔵」 (1971)
「荒野の素浪人」 (1972)
「荒野の用心棒」 (1973)
人魚亭異聞 無法街の素浪人(1976年、NET/三船プロダクション)
「隠し目付参上」 (1976)
「江戸の鷹 御用部屋犯科帖」 (1978)
「赤穂浪士」 (1979)
「江戸の牙」 (1979 - 1980)
「関ヶ原」 (1981)
「素浪人罷り通る」 (1981)
「勇者は語らず いま、日米自動車戦争は」 (1983)
「山河燃ゆ」 (1984)







ま行

役柄になり尽くす存在感の或る役者 三国連太郎

三國 連太郎(みくに れんたろう、1923年1月20日 - )は日本を代表する俳優である。本名、佐藤政雄。群馬県太田市生まれ、静岡県賀茂郡松崎町出身。

敗戦時、中国からの引揚げの際に、妻帯者は早く帰国できるということで、同じ佐藤姓の女性と偽装結婚した。

最終学歴は豆陽中学校(現在の静岡県立下田北高等学校)卒(工業専門学校卒であるにもかかわらず、映画界入りに際して「大阪帝国大学工学部卒」と詐称。のち芸能ジャーナリズムに学歴詐称を暴かれた経歴あり)[要出典]。

電気職人だった養父が被差別部落の出身であることを公表しており、差別問題に関する著作、講演活動等も行っている。
役者バカであり、奇人ともされる。老人役の役作りのため上顎の歯を大部分抜いたエピソードはよく知られている。特に粗暴な人物役を抱えた時期の三國はプライベートでも役にハマりこんでしまい誰もが近づき難い状態ということは度々であった。

ただしオフの三國は親しい映画関係者の複数証言によると「言動も穏やかで、酒ものまず、饅頭など甘いものが好物の、言動も仏様の様な大人しい人物」。撮影所で役者・スタッフの安全のために釘を拾っていたという逸話からもオフの三國の人柄がしのばれる。

結婚を4度経験。俳優の佐藤浩市は2番目の妻との間に出来た実の息子。その他にも太地喜和子(故人)、石田えりらとロマンスが取りざたされたことがあった。

現在静岡県沼津市在住。近隣の三島市にある、『本町うなよし』で見かけられることが多いという。

宮崎交通を経て1950年松竹大船撮影所に研究生として入り、1951年木下恵介監督『善魔』の主役でデビュー。役名の「三國連太郎」を芸名にする。以後、「ビルマの竪琴」(1956)、「飢餓海峡」(1965)、「はだしのゲン」(1976)、「ひかりごけ」(1992)など社会派ドラマの主役や「未完の対局」(1982)、「大河の一滴」(2001)、「三たびの海峡」(1995)など中国を中心にした国際合作、「犬神家の一族」(1976)、「野性の証明」(1978)、「マルサの女2」(1988)などカリスマ的役柄で、圧倒的存在感をスクリーンに残す。1986年、「親鸞・白い道」を製作、自ら監督にあたり、カンヌ国際映画祭で審査員特別賞を受賞。
最近では「釣りバカ日誌」シリーズ(1988〜)で活躍。スーさんの愛称で親しまれている。だが本人はあまり釣りが好きではないと言う。
映画美味しんぼでは、息子・佐藤と共演。その後笑っていいともに出演した際には「佐藤浩市くんの演技がよかったです」とコメントした。

主な出演作品

映画
善魔(1951年、松竹)
戦国無頼(1952年、東宝)
美女と盗賊(1952年、大映)
太平洋の鷲(1953年、東宝)
泥だらけの青春(1954年、日活)
警察日記(1955年、日活)
ビルマの竪琴(1956年、日活)
風と女と旅鴉(1958年、東映)
キクとイサム(1959年、松竹)
大いなる旅路(1960年、東映) - 岩見浩造役
大いなる驀進(1960年、東映) - 松崎義人役
飼育(1961年、大宝) - 鷹野一正役
宮本武蔵 5部作(1961年〜、東映) - 沢庵宗彭役
破戒(1962年、大映)
切腹(1962年、松竹) - 斉藤勘解由役
無法松の一生(1963年、東映) - 無法松こと富島松五郎役
陸軍残虐物語(1963年、東映)
越後つついし親不知(1964年、東映)
飢餓海峡(1965年、東映)
にっぽん泥棒物語(1965年、東映)
処刑の島(1966年、大映)
座頭市牢破り(1967年、大映)
神々の深き欲望(1968年、日活)
新選組(1969年、東宝) - 芹沢鴨役
野獣都市(1970年、東宝)
甦える大地(1971年、石原プロ / 松竹)
座頭市御用旅(1972年、東宝)
海軍特別年少兵(1972年、東宝)
戒厳令(1973年、ATG) - 北一輝役 
金環蝕(1975年、東宝)
はだしのゲン(1976年、現代ぷろだくしょん)
犬神家の一族(1976年、東宝)
八甲田山(1977年、東宝)
霧の旗(1977年、東宝)
皇帝のいない八月(1978年、松竹)
野性の証明(1978年、東映)
復讐するは我にあり(1979年、松竹)
あゝ野麦峠(1979年、東宝)
ミスター・ミセス・ミス・ロンリー(1980年、ATG)
セーラー服と機関銃(1981年、東映)
未完の対局(1982年、東宝)
人間の約束(1986年、東宝東和)
マルサの女2(1988年、東宝)
釣りバカ日誌シリーズ(1988年〜、松竹)
利休(1989年、松竹) - 千利休役
ひかりごけ(1992年、ヘラルド・エース)
大病人(1993年、東宝)
夏の庭 The Friends(1994年、ヘラルド・エース)
三たびの海峡(1995年、松竹)
美味しんぼ(1996年、松竹)
生きたい(1999年、日本ヘラルド映画)
大河の一滴(2001年、東宝)
北辰斜にさすところ(2007年夏公開予定)

テレビ
どたんば(1956年、NHK)
太陽の子(1961年、NET)
徳川家康(1964年、NET)
剣(1967年、日本テレビ)
東芝日曜劇場 / あの町この町(1971年、TBS)
必殺仕掛人(1972年、朝日放送) - 文殊屋多左衛門役(第6話「消す顔消される顔」)
別れの午後(1973年、TBS)
切腹団十郎(1974年、毎日放送)
青銅の花びら(1975年、毎日放送)
赤い運命(1976年、TBS)
ご存知! 女ねずみ小僧(1977年、フジテレビ)
火宅の人(1979年、日本テレビ)
赤い死線(1980年、TBS)
87分署シリーズ 裸の街(1980年、フジテレビ)
闇を斬れ(1981年、フジテレビ) - 田沼意次役
関ヶ原(1981年、TBS) - 本多正信役
松本清張の黒革の手帖(1982年、テレビ朝日)
月曜ワイド劇場 / ザ・スキャンダル(1983年、テレビ朝日)
時代劇スペシャル 子連れ狼(1984年、フジテレビ) - 柳生烈堂役
ヨコハマ物語(1985年、日本テレビ)
庄内おんな風土記(1988年、NHK)
木曜ゴールデンドラマ / 妻に捧げる(1990年、よみうりテレビ) 
冬の旅〜ベルリン物語〜(1991年、NHK)
月曜ドラマスペシャル / ボディガード北へ(1994年、TBS) 
ふたりでタンゴを(1999年、NHK)
新幹線をつくった男たち(2004年、テレビ東京)
恍惚の人(2006年、日本テレビ)
松本喜三郎一家物語〜おじいさんの台所〜(2007年、フジテレビ)

以上、フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より転載。



ま行

日本一の歌手兼女優だった美空ひばり

美空ひばり(みそらひばり、1937年(昭和12年)5月29日 - 1989年(平成元年)6月24日)は、数々のヒット曲を歌い銀幕スターとして多数の映画に出演した昭和の歌謡史を代表する日本の歌手であり、女優。

女性として初の国民栄誉賞も受賞した。横浜市磯子区滝頭出身。 愛称は御嬢(おじょう)。精華学園高等部卒業。本名は'加藤和枝(かとうかずえ)。

幼少期から三人娘の時代
神奈川県横浜市磯子区滝頭の魚屋で父・加藤増吉、母・喜美枝の長女として生まれた。幼い頃より歌の好きな両親の影響を受けひばりは歌謡曲・流行歌を唄うことの楽しさを知る。

1943年6月、第二次世界大戦の戦時中に父・増吉が出征となり壮行会が開かれ、ひばりは大好きな父を思い『九段の母』を唄った。壮行会に集まった者達がひばりの歌に感銘し、涙する姿を目の当たりとした母・喜美枝はひばりの歌唱力に人を引き付ける可能性を見出して、地元の横浜近郊からひばりの唄による慰問活動を始める。

終戦間もない1945年、喜美枝がひばりを引き続き唄わせるために八方手を尽くし、私財を投じて自前の「青空楽団」を設立。近所の公民館・銭湯に舞台を作り、ひばり8歳のときに美空和枝の名で初舞台を踏む。

1946年、NHK「素人喉自慢」に出場し、『リンゴの唄』を歌うが、鐘一つで不合格。同年9月、横浜市磯子のアテネ劇場で初舞台。

1947年、横浜の杉田劇場に漫談の井口静波、俗曲の音丸の前座歌手として出演。以来、この一行と地方巡業するようになる。

1948年2月、ひばりは神戸松竹劇場に出演し、山口組三代目田岡一雄に挨拶に出向き、気に入られる。同年5月、浪曲歌謡漫談で有名な川田義雄(のちの川田晴久)にその才能を見込まれ、川田一座に参加。(ひばりは師匠といえるのは父親と川田先生だけと後に語っており、こぶしは川田節から学んだと言う)そこで当時のスター歌手笠置シズ子の物真似(歌真似)が非常にうまくベビー笠置といわれ拍手を浴びる。純粋に「かわいい」と見る層と同時に、「子供が大人の恋愛の歌を歌うなんて」という違和感を持つ層も存在した。詩人で作詞家のサトウハチローが「近頃、大人の真似をするゲテモノの少女歌手がいるようだ」と、批判的な論調の記事を書いたことは有名。ひばりはこの記事を長く保存しサトウに敵愾心を持っていたと言われるが、後にサトウと和解している。同年9月、喜劇役者・伴淳三郎の劇団・新風ショウに参加し、同一座が舞台興行を行っていた横浜国際劇場と準専属契約を結ぶ。この時、演出していた宝塚の岡田恵吉に母親が芸名をつけてくれるように頼み、美空ひばりと命名してもらう。横浜国際劇場の支配人だった福島通人がその才能を認め、マネージャーとなり、舞台の仕事を取り、次々とひばり映画を企画することに成功する。

1949年1月、日劇のレビュー『ラブ・パレード』(主役・灰田勝彦)で笠置の『セコハン娘」、『東京ブギウギ』を歌い踊る子供が面白がられ、同年3月には東横映画『喉自慢狂時代』(大映配給)でブギウギを歌う少女として映画初出演。8月には松竹『踊る竜宮城』に出演し、主題歌『河童ブギウギ』でコロムビアから歌手として正式にレコードデビュー(7月30日)を果たす。続いて『悲しき口笛』が大ヒット。同名の映画も松竹で製作され、わずか12歳で映画主演を果たした。

1950年、川田晴久と共に二世部隊記念碑建立基金募集公演のため渡米。帰国してすぐに二人の主演で『東京キッド』に出演。同名の主題歌もヒット。

1951年、松竹『あの歌超えて』で人気絶頂の鶴田浩二が扮する大学生を慕う役を演じる。実生活でも鶴田を慕い、ひばりは鶴田をお兄ちゃんと呼ぶようになった。同年5月新芸術プロダクション(新芸プロ)を設立。代表取締役社長が福島通人、役員にひばり、川田晴久、斎藤寅次郎がなる。同年、嵐寛寿郎主演の松竹『鞍馬天狗・角兵衛獅子』に杉作少年役で出演。以後これを持ち役とする。

1953年、『お嬢さん社長』に主演。喜美枝は、ひばりを「お嬢」と呼ぶようになり、その後、周りもそう呼ぶように。中村錦之助を歌舞伎界からスカウトして映画「ひよどり草紙」で共演。錦之助は翌年、東映時代劇の大スターになる。この後、新人男優はひばりの相手役となることで世間に認知され、大スターとなるジンクスが生まれる。市川雷蔵、東千代之介、大川橋蔵、高倉健らもそうである。

1954年にはNHK紅白歌合戦に初出場。1955年には江利チエミ、雪村いづみとともに東宝映画『ジャンケン娘』に出演したことを契機に、「三人娘」として人気を博した。また、松竹・東映製作映画を中心に映画にも多数出演し、歌手であると同時に映画界の銀幕のスターとしての人気を得た。

1956年、ジャズバンド小野満とスイング・ビーバーズの小野満と婚約。その後、この婚約は破棄した。

1957年1月、浅草国際劇場にてファンに塩酸を顔にかけられる。紅白歌合戦に3年ぶりに出場し、渡辺はま子、二葉あき子らベテラン歌手を抑えて初めて紅組トリを務めあげ、当時のひばり・20歳の青春時代には既に芸能界に置ける黄金期を迎えていた。

1958年4月1日、田岡一雄が正式に神戸芸能社の看板を掲げた。同年4月、美空ひばりは神戸芸能社の専属となった。同年6月、ひばりプロダクションを設立し、副社長に三代目山口組・田岡一雄組長が就任した。同年7月、東映と映画出演の専属契約を結んだ。『ひばり捕物帳』シリーズや『べらんめえ芸者』シリーズ、『ひばりの佐渡情話』(1962年)など続々ヒット映画にも恵まれた。

1960年には『哀愁波止場』で日本レコード大賞歌唱賞を受賞、歌謡界の女王の異名をとるようになった。

小林旭との短い結婚・離婚後
1962年、日活の人気スターであった俳優・小林旭と結婚し、一時的に仕事をセーブするようになる。しかし、実母にしてマネージャーである加藤喜美枝や周辺関係者が二人の間に絶え間なく介入し、結婚生活はままならず、またひばり自身も歌に対する未練を残したままだった為、仕事を少しずつ再開し小林が求めた家庭の妻として傍に居て欲しい願いは叶わず、話し合いの末別居後1964年、わずか2年あまりで小林と離婚した。尚、小林旭の著書によれば、実際には2人は入籍しておらず、戸籍上、ひばりは生涯独身であった。

離婚直後に発表した『柔』は翌1965年にかけて大ヒット、180万枚というひばりとしては最大のヒット曲となる。この曲で1965年、日本レコード大賞を受賞。1966年には『悲しい酒』(元々はひばりのために書かれた曲ではなく、1960年に男性演歌歌手の北見沢淳が歌った曲であった)、1967年には『芸道一代』、グループサウンズジャッキー吉川とブルーコメッツとの共演で話題となった『真赤な太陽』と、彼女の代表作となる作品が次々と発表され、健在ぶりを示した。

母・喜美枝との二人三脚時代
1964年、新宿コマ劇場で初の座長公演を行い、演技者としての活動の場を次第に映画から舞台に移し(初の座長公演は『ひばりのすべて』、『女の花道』)、同劇場のほか、名古屋の御園座、大阪の梅田コマ劇場にて長年にわたり座長を張り続けた。離婚後のひばりを常に影となり支え続けたのが、最大の理解者であり、ひばりを誰よりも一番上手くプロデュースする存在となっていた母・喜美枝だった。ひばりは傍らに喜美枝を従えて日本全国のコンサート会場・テレビ出演なども精力的に活動した。当時のマスコミからはステージママの域を越えた存在として、「一卵性親子」なるニックネームを付けられる程の仲のよい親子と言うより、強い絆で結ばれた「同志」であった。

1970年、NHK紅白歌合戦の紅組司会を担当した(紅白史上初めて、大トリと司会者を兼任した。このときの歌唱曲は弟・かとう哲也作曲の『人生将棋』)。暴力団山口組三代目組長田岡一雄はひばりを庇護し、ひばりは1981年、父親代わりだった山口組組長・田岡一雄の葬儀にも出席している。この暴力団との関係が後の「ひばり・スキャンダル」に繋がることになる。


兄弟とひばりの苦悩
1973年、実弟のかとう哲也が起こした不祥事により、(哲也は、1957年、小野透の芸名でひばりの全盛期には歌手デビューし、多くの東映映画に出演、主演を務めたこともあったが1962年に引退。翌1963年には賭博幇助容疑、賭博開帳図利等、1964年には拳銃不法所持、1966年には傷害、暴行、拳銃密輸、1972年には暴行で逮捕。)ひばり一家と暴力団山口組および田岡との関係が表面化、全国の公会堂、市民ホールから使用拒否される。この結果、1973年末、17回出場・1963年から10年連続で紅組のトリを務めていた紅白への出場を辞退した(事実上は落選)。そのためこの年から数年間、大晦日は日本教育テレビ(現在のテレビ朝日)の取り計らいで、同局の番組に出演。以後、NHKとの関係は冷戦状態に陥るが、1977年、当時の同局の人気番組であった『ビッグ・ショー』で4年ぶりにNHK番組に出演し、関係を修復。しかし紅白に正式な出場歌手として復帰することはなかった(但し、1979年の第30回には、紅白30年の歴史を代表する歌手として藤山一郎と特別出演、『リンゴ追分』等3曲をメドレー形式で歌った)。

1970年代以降、ヒット曲には恵まれなかったが、この時代に入ると演歌や歌謡曲のほかにも軽快なポップスやリズム歌謡、ジャズのスタンダートやオペラのアリアに至るまで自らのスタイルで数多くのテレビ番組やレコードなどで発表し、歌手としての再評価を受けることとなる。来生たかお(『笑ってよムーンライト』<1983年>)、小椋佳(『愛燦燦』<1986年>)、イルカ(『夢ひとり』<1984年>)等、当代の話題のアーティスト/クリエイター等とのコラボレートもしばしば行われた。また、新曲のキャンペーン活動にもこの時代には活発に参加するようになり、1980年に発表した『おまえに惚れた』はこのキャンペーン活動が功を奏す形で久々のヒットとなった。

他方、1980年代に入り、実母の喜美枝、二人の実弟だった哲也と香山武彦、親友であった江利チエミらが次々と死去という悲運が続く。悲しみ・寂しさを癒すために嗜んでいた酒とタバコの量は日に日に増し、徐々に体を蝕んでいった。

病魔との闘い
1987年4月、公演先の福岡で倒れ緊急入院、慢性肝炎及び両側大腿骨骨頭壊死と診断され、8月まで福岡市内の病院にて療養。同年8月3日に退院し、10月に行われた新曲『みだれ髪』のレコーディングより仕事に復帰した。1988年4月11日には開場間もない東京ドームにて「不死鳥コンサート」を実施。脚の痛みに耐えながら計39曲を熱唱し、完全復帰であることをファンにアピールした。

昭和天皇崩御により、元号が昭和から平成の時代へと変わった1989年初頭には、人気作詞家・秋元康が作詞、見岳章が作曲した『川の流れのように』を発表する。しかしこの時の美空ひばりはまるで水の中で歌っているようなほど、肺は病に冒されていた。同年2月、福岡での公演後に検査入院。一旦は退院し、同年3月には、ニッポン放送での10時間の特集番組へ生出演したが結果的に歌以外で、このラジオ出演が美空ひばりにとって生涯最後のマスメディアの仕事となった。

そのラジオ生放送終了直後、体調が急変したために、順天堂医院に再入院する。このため、同年4月に予定されていた、横浜アリーナでのこけら落としコンサートや、その他の全国ツアーも全て中止となった。そして、復帰の夢を果たすことなく、同年6月24日、間質性肺炎による呼吸不全のため、昭和の時代と共に生きた戦後歌謡界の大スター美空ひばりは生涯のレコーディング1500曲・オリジナル楽曲517曲の『唄』、数々の映画で輝き・唄うスクリーンの中の『ひばり映画』を残して死去、まだ52歳の若さだった。墓所は横浜市港南区の日野公園墓地にある。


昭和を代表する歌手として死後の1989年7月、長年の歌謡界に対する貢献を評価され、女性として初めてとなる国民栄誉賞を受賞し、息子の加藤和也が授賞式に出席した。


美空ひばり亡き後も続くエピソード

福島県いわき市塩屋埼 美空ひばり遺影碑、コモンズ画像1988年、福島県いわき市塩屋崎を舞台に作詞されたのが縁で、「みだれ髪」の(結果的にこれが最後のレコーディング曲となった)歌碑が建立された。ひばりの死後ここを訪れるファンが増え続け、1990年に新たなひばり遺影碑が立てられ、周辺の道路420m区間もいわき市が整備を行い「ひばり街道」として1998年に完成した。さらに2002年には幼少期のひばり主演映画「悲しき口笛」のひばりをモデルにした銅像も建立になった。現在は毎年約30万人のファン・観光客が、ひばりを偲んで訪れる。

1993年には京都市の嵐山に「美空ひばり館」が開館、愛用品のコレクションなどが展示され、ファンや観光客が訪れていた。しかし来館者数の減少により、2006年11月30日に惜しまれつつ一旦閉館となったが、運営主体を「ひばりプロダクションに変更して2007年中にも再オープンの予定となっている。

2005年公開の映画『オペレッタ狸御殿』(鈴木清順監督)では、デジタル技術でスクリーンに甦りオダギリジョーやチャン・ツィイーと共演した。

死後10数年を経た現在も尚、日本を代表する伝説的ボーカリストとして多くのアーティストやタレントに影響を及ぼし、企画盤や未発表曲が定期的に発表、ビデオ上映コンサートも開催されるなど、永遠の歌姫として根強い人気を獲得している。

ひばりの作詞
彼女が作詞し、生前に曲がついたものは22曲ある。そのうち18曲は自ら歌い、『木場の女』『ロマンチックなキューピット』『真珠の涙』などの作品はシングル発売された。
1966年に『夢見る乙女』を作詞し、弘田三枝子へ提供した。ペンネームで「加藤和枝」の名前を使用した。その際ひばりは敢えてシングルB面での発売を要請したという。また、『十五夜』『片瀬月』『ランプの宿で』の3曲は島倉千代子に提供された。
夢ひとり(生前にひばりが書き残した詩)を元にイルカが作曲し、リリースしている。
草原の人(生前にひばりが書き残した詩)を元につんくが作曲し松浦亜弥が歌った。またこの表題の松浦主演ミュージカルも(2003年2月7日-2月23日)演じられた(DVD化)。さらに派生してこの表題の美空ひばり評伝本(ISBN 4-795839522)も出版された。

息子・和也
息子となった加藤和也の経過については『加藤和也』を参照。

1980年代、少年期の加藤和也がビートたけしの大ファンだったため、テレビでたけしと共演した際「息子が会いたがってるのよ」と強引に自宅へ連れ帰ったことがある。その一部始終もテレビで放送された。もっとも強引に連れ帰ったのもテレビ番組の段取りだったと見る意見もある。

同様に和也がとんねるずの大ファンだった事から、和也の誕生会にひばりがとんねるずの二人を呼んだというエピソードがある。更に『とんねるずのオールナイトニッポン』の生放送中にも急遽出演し、石橋が「お嬢」とひばり本人を目の前にして呼び合える程の友人となった。

2006年現在、ひばりプロダクションの代表取締役社長を加藤和也が勤める。


美空ひばり役を演じた女優
2005年に美空ひばり17回忌を迎え、TBS系列にて特別ドラマ「美空ひばり物語−おでことおでこがぶつかって」がひばり役上戸彩、喜美枝役泉ピン子の配役、親子愛をテーマに製作され5月29日(日)21時から放送された。

舞台‐浅茅陽子、剣幸
他のテレビドラマ‐岸本加世子

主な代表的作品
下記に主な代表作を記述する。詳細は公式サイトの全映画出演作・ディスコグラフティーリストを参照。

ひばり代表曲・シングル売上
柔(1964年) - 180万枚
川の流れのように(1989年) - 150万枚
悲しい酒(1966年) - 145万枚
真赤な太陽(1967年) - 140万枚
リンゴ追分(1952年) - 130万枚
みだれ髪(1987年)
港町十三番地(1957年)
波止場だよ、お父つぁん(1956年)
東京キッド(1950年)
悲しき口笛(1949年)
(シングル売上は再発盤を含む、日本コロムビア調べによる)
主な出演映画
悲しき口笛(1949年、松竹)
鞍馬天狗 角兵衛獅子(1951年、松竹)
リンゴ園の少女(1952年、松竹)
ジャンケン娘(1955年、東宝)
べらんめえ芸者(1959年、東映)
女ざむらい只今参上(1958年、東映)
忠臣蔵(1959年、東映)
天竜母恋い笠(1960年、東映)
ひばりのすべて(1971年、東宝、日本コロムビア)
など多数。

主なシングル作品
河童ブギウギ(1949年)
悲しき口笛(1949年)
東京キッド(1950年)
越後獅子の唄(1950年)
私は街の子(1950年)
あの丘越えて(1951年)
お祭りマンボ(1952年)
津軽のふるさと(1952年)
リンゴ追分(1952年)
ひばりのマドロスさん(1954年)
伊豆の踊り子(1954年)
波止場だよ お父つぁん(1956年)
港町十三番地(1957年)
車屋さん(1958年)
哀愁波止場(1960年)
ひばりの佐渡情話(1962年)
哀愁出船(1963年)
柔(1964年)
悲しい酒(1966年)
真赤な太陽(1967年)
芸道一代(1967年)
むらさきの夜明け(1968年)
熱濤(いのり)(1968年)
人生一路(1970年)
ある女の詩(1972年)
一本の鉛筆(1974年)
さくらの唄(1976年)
雑草の歌(1976年)
おまえに惚れた(1980年)
裏町酒場(1982年)
笑ってよムーンライト(1983年)
残侠子守唄(1983年)
しのぶ(1985年)
愛燦燦(1986年)
みだれ髪(1987年)
川の流れのように(1989年)

など多数。

以上、フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より転載。





ま行

女優として大成した松原智恵子

松原 智恵子(まつばら ちえこ、1945年1月6日 - )は日本の女優。愛知県名古屋市南区出身。実家は南区の銭湯(現存)。名古屋市立桜台高等学校卒。明治大学第二文学部英文科中退。特技:日本舞踊、乗馬。夫・黒木純一郎(ルポライター)。同期・高橋英樹(俳優)、中尾彬(俳優)

戦時中は母の実家があった岐阜県揖斐郡池田町に疎開していた。戦後、名古屋市に移る。

高校生のとき日活が行った「ミス16歳コンテスト」に入賞し、副賞としての撮影所見学がデビューのきっかけ。

一時期、バラエティにも進出し、テレビ局側は中村玉緒を目標としていたが、至らなかった。


 ドラマ
山のかなたに(1966年、NTV)主演
雨の中に消えて (1966年、NTV)主演
あいつと私 (1967年、NTV)主演
いらっしゃいませ (1967年、NET)主演
ある日わたしは (1967年、NTV)主演
レモンの涙 (1968年、NET)主演
はじめまして (1968年、NTV)主演
若い川の流れ (1968年、NTV)主演
きんらんどんす (1969年、フジテレビ)主演
颱風とざくろ (1969年、NTV)主演
すばらしき代役 (1970年、NHK)主演
時間ですよ(1970年〜1973年、TBS)
国盗り物語(1973年、NHK大河ドラマ)
元禄太平記(1975年、NHK大河ドラマ)
水戸黄門 第7部(1977年 TBS・ C.A.L.)お秋役
土曜ワイド劇場 江戸川乱歩「悪魔の紋章」より 死刑台の美女(1978年、テレビ朝日)
水戸黄門 第9部(1978年 TBS・C.A.L.)第19話「仇討ち笹りんどう・中津川」 塚本菊役
おんな太閤記(1981年、NHK大河ドラマ)
あぐり(1997年、NHK朝の連続テレビ小説)
すずらん(1999年、NHK朝の連続テレビ小説)
利家とまつ(2002年、NHK大河ドラマ)
天才柳沢教授の生活(2002年、フジテレビ)
気遣い純喫茶(2004年、フジテレビ)
汚れた舌(2005年、TBS)


映画
紅の銃帯(1961年)
大人と子供のあいの子だい(1961年)
追跡(1961年)
セールスマン物語 男にゃ男の夢がある(1961年)
天に代わりて不義を討つ(1961年)
北上夜曲(1961年)
波止場気質(1961年)
起動捜査班 秘密会員(1961年)
無情の夢(1961年)
野獣の門(1961年)
一石二鳥(1961年)
明日に向かって突っ走れ(1961年)
大当たり百発百中(1961年)
望郷の海(1962年)
地獄の夜は真紅だぜ(1962年)
燃える南十字星(1962年)
二階堂卓也銀座無頼帖 帰ってきた旋風児(1962年)
抜き射ち風来坊(1962年)
さすらい(1962年)
学園広場(1963年)
銀座の次郎長 天下の一大事(1963年)
遊侠無頼(1963年)
霧子のタンゴ(1963年)
灼熱の椅子(1963年)
川っ風や朗たち(1963年)
関東無宿(1963年)
いつでも夢を(1963年)
風が呼んでる旋風児(マイトガイ) 銀座無頼帖(1963年)
関東遊侠伝(1963年)
現代っ子(1963年)
午前零時の出獄(1963年)
さすらいのトランペット(1963年)
東海遊侠伝(1964年)
ギター抱えたひとり旅(1964年)
大日本コソ泥伝(1964年)
俺たちの血が許さない(1964年)
海賊船 海の虎(1964年)
何処へ(1964年)
仲間たち(1964年)
人生劇場(1964年)
花と怒涛(1964年)
拳銃残酷物語(1964年)
マカオの竜(1965年)
拳銃無宿 脱獄のブルース(1965年)
怪盗X 首のない男(1965年)
秩父水滸伝 必殺剣(1965年)
星と俺とできめたんだ(1965年)
青春のお通り(1965年)
真赤な海が読んでるぜ(1965年)
夜明けのうた(1965年)
城取り(1965年)
あばれ騎士道(1965年)
投げたダイスが明日を呼ぶ(1965年)
河内ぞろ あばれ凧(1965年)
拳銃無頼帖 流れ者の群れ(1965年)
傷だらけの天使(1966年)
続・東京流れ者 海は真赤な恋の色(1966年)
遙かなる慕情 星のフラメンコ(1966年)
あなたの命(1966年)
骨まで愛して(1966年)
逢いたくて逢いたくて(1966年)
涙になりたい(1966年)
青春のお通り 愛して泣いて突っ走れ!(1966年)
東京流れ者(1966年)
俺にさわると危ないぜ(1966年)
この虹の消える時にも(1966年)
東京市街戦(1967年)
君は恋人(1967年)
夕笛(1967年)
ザ・スパイダースのゴーゴー向う見ず作戦(1967年)
喜劇東京の田舎ッぺ(1967年)
恋人をさがそう(1967年)
夕笛(1967年)
喜劇ニューヨーク帰りの田舎ッぺ(1967年)
七人の野獣(1967年)
無頼 黒匕首(くろドス)(1968年)
燃える大陸(1968年)
無頼 人斬り五郎(1968年)
無頼非情(1968年)
わが命の唄 艶歌(1968年)
大幹部 無頼(1968年)
残雪(1968年)
「無頼」より 大幹部(1968年)
ぼん太の結婚屋 いろいろあらアな田舎田舎ッぺ(1968年)
華やかな女豹(1969年)
刺客列伝(1969年)
涙でいいの(1969年)
侠花列伝 襲名賭博(1969年)
博徒無情(1969年)
前科 仮釈放(1969年)
無頼 殺せ(1969年)
恋のつむじ風(1969年)
青春の鐘(1969年)
愛するあした(1969年)
華やかな女豹(1969年)
女子学園 悪い遊び(1970年)
戦争と人間 第一部 運命の序曲(1970年)
非行少年 若者の砦(1970年)
栄光への反逆(1970年)
鉄火場慕情(1970年)
昭和残侠伝 吼えろ唐獅子(1970年)
女の意地(1976年)
三人の女 夜の蝶(1976年)
太陽はなかない(1976年)
新仁義なき戦い 組長最後の日(1976年)
俺の選んだ女(1976年)
トラック野郎 天下御免(1976年、東映)
バカヤロー!3 へんな奴ら(1990年)
十六歳のマリンブルー(1990年)
カッパの三平(1993年)
結婚(1993年)
愛する(1997年)
ピエタ(1997年)
ムルデカ17805(2001年)
旅の途中で(2002年)
Dolls(2002年)
おにぎり ARCADIA物語(2004年)
死に花(2004年)
釣りバカ日誌17 あとは能登なれ ハマとなれ!(2006年)
黄色い涙(2007年)

バラエティ
明石家マンション物語(出演は1999年〜2000年、番組は1999年〜2001年)
テレビ探偵団

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タグ:女優 大成

ま行

デビュー当時から根性のあった松原智恵子

松原智恵子、彼女は1961年1月頃のデビューだったと思う。作品の公開が確か1月、裕ちゃんの骨折の前だったような気がする。それはともかく監督は井田探さん、音楽監督は河辺公一さんだった。河辺さんはジャズ畑の人だ。

主人公は長門裕之、その相手役に松原智恵子、他に森川信、南寿美子。SPモノのセールスマン物語である。

チーコの役は品物が売れず、気分もどん底の長門を優しく励まし元気を取り戻させるという役だ。

彼女がアフレコで苦労した話は以前に書いたので、そのくだりは省くことにする。無事にクランクアップして、音楽ダビングも終了、残すはフィルムダビングだけになった日のことだ。

朝9時からのFDには私も参加していた。録音技師の橋本さんとチーフの紅谷さんが並んでいる横に坐って伝声マイクで2階の映写室に「映写部さん、ダビング1行きます、用意、スタート」と号令役をやっていたのだが・・・。

昼過ぎだったと思う。気がつくとチーコが私の横に坐っていた。
「どうしたの?」私が尋ねると彼女はこう答えた。
「ダビングって、どんなことをするのか知りたかったの」
「頑張って最後まで付き合うか?途中で逃げ出すか?」
紅谷さんが茶化すように言う。彼女は唇を尖らせて「私、最後まで頑張ります」と言ったものだ。

私は号令役をチーコちゃんにまかせた。彼女は元気のいい声で「用意、スタート」とやっている。気のせいか映写部さんのフィルムを架けるスピードが速くなったような気がした。

「私、一度、用意スタートって言いたかったの」と彼女は笑顔で云った。
「幾らでも云えばいいよ」と言って私も笑った。

夕食休みが過ぎ、ダビング再開となった。チーコちゃんはちゃんと元の場所に坐っている。さすがに私もビックリした。幾らデビュー作と言ってもダビングまで付き合う女優さんは滅多にいない。やってきても1時間も居ればいい方だ。紅谷さんも「無理しなくて、いつ帰ってもいいんだぜ」と言い出す始末。

だが、彼女は「お二階さん、テスト行きます」とやっている。号令の合間に何か一生懸命にノートに書いている。私が覗き込むと「ねえ、この方がいい?それともここをこうした方が良く見える?」と私に聞く。サインの練習をしているのだ。

私は思いがけず松原智恵子のサインの練習につき合わされてダビングの終わったのは夜10時すぎだった。私は「お疲れさん」と彼女の労をねぎらった。
「お疲れ様でした。サイン、やっぱりアレにするわ」
と笑顔で俳優部の方へ去って行くチーコ。おとなしいけどガッツのある女優さんだった。