岡田 茉莉子(おかだ・まりこ。1933年1月11日 - )は日本の女優。本名:吉田鞠子(旧姓・田中)。父は戦前の二枚目俳優・岡田時彦。母は元宝塚歌劇団の田鶴園子。夫は映画監督の吉田喜重。 新潟市立沼垂高等学校(現新潟市立万代高等学校)卒
東京市渋谷区代々木生まれ。1938年、母の田鶴がダンス教師の資格をとり、上海で教えることになったため、東京市大森区北千足町に住む母の妹で宝塚スターだった御幸市子のもとで暮らすようになる。1940年に御幸が東宝映画計画部でプロデューサーをしていた山本紫朗と結婚したため、翌年、母のいる上海に渡る。戦争悪化のため1944年、単身帰国し、また御幸の下で暮らすようになる。 翌年、新潟に引っ越す。
新潟で女学生の頃に映画館で古い作品が流れており、家に帰ってその映画の話をすると母が泣き出したという。その時、初めてその映画の主演である岡田時彦が自分の父である事を知らされ、慌ててもう一度、今度は自分の父を見る為に映画館へ脚を運んだというエピソードがある。
1951年、東宝の第三期ニューフェイスとして、小泉博らと共に東宝演技研究所入り。入所して二十日後、成瀬巳喜男監督の映画「舞姫」の準主役に抜擢される。以降、父親譲りの美貌と演技力で東宝映画の主演スターとなる。
1957年3月にフリーとなり、同年9月に松竹と専属契約。女性映画を得意とする松竹では数々のメロドラマに主演し大活躍。先に東宝から松竹に移籍していた有馬稲子と共に松竹の二枚看板となる。1962年、自らプロデュースし主演した映画「秋津温泉」が大ヒットし多くの映画賞も獲得。会社の意向で助監督に戻されていた吉田喜重を監督に起用した作品であった。翌年、吉田監督と婚約。
1964年(昭和39年)6月21日、旧西ドイツのバイエルン州アスカウ村で吉田監督と海外挙式。民族衣裳を着た現地の村人たちもアルプスホーンで2人を祝福した。新婚旅行は40日間のヨーロッパ1周だった。
1965年、松竹とは2本の本数契約とし事実上のフリーとなる。1966年、吉田と現代映画社を創立し、映画「女のみづうみ」を発表。同年10月、東宝演芸部と年間4本の専属契約を結んで以後は商業演劇を中心に活躍する。
映画が斜陽になった1970年代以降もコンスタントに映画出演を続けており、現在も日本映画界を代表する大女優である。
父娘とも芸名の名付け親は作家の谷崎潤一郎である。お父さんの芸名を付けたのだから君の名前も私が付けましょうと言って付けてくれたそうである。しかし新聞や雑誌で「茉莉子」の「茉」の文字が、誤印刷で下の横棒が長く印刷される事が多かったという。その度に几帳面な谷崎潤一郎から、岡田茉莉子のもとに「君の名前の文字は上の棒が長いのです」と叱った手紙を頂戴したそうな。後年「私のせいじゃないのにね」と愉快に岡田茉莉子は語っている。
受賞歴
1958年(昭和33年) - 映画『悪女の季節』
第13回毎日映画コンクール 助演女優賞
1962年(昭和37年) - 映画『今年の恋』&映画『霧子の運命』
第36回キネマ旬報賞 主演女優賞
1962年(昭和37年) - 映画『今年の恋』&映画『秋津温泉』
第17回毎日映画コンクール 主演女優賞
1998年(平成10年) - 第8回日本映画批評家大賞 ゴールデン・グローリー賞
主な出演作品
映画
『舞姫』(原作:川端康成。監督:成瀬巳喜男。1951年)
『青春会議』(1952年)
『おかる勘平』(1952年)
『金の卵』(1952年)
『思春期』(1952年)
『結婚案内』(1952年)
『足にさわった女』(監督:市川崑。1952年)
『春の囁き』(監督:豊田四郎。1952年)
『七色の街』(1952年)
『ああ青春に涙あり』(1952年)
『吹けよ春風』(脚本:黒澤明。1953年)
『夫婦』(監督:成瀬巳喜男。1953年)
『江戸っ子判官』(監督:中川信夫。1953年)
『夜の終り』(1953年)
『白魚』(1953年)
『坊っちゃん』(原作:夏目漱石。マドンナ役。1953年)
『サラリーマンの歌』(1953年)
『花の中の娘たち』(1953年。初のカラー映画出演)
『愛人』(監督:市川崑。1953年)
『女心はひと筋に』(1953年)
『ママの日記』(1954年)
『さらばラバウル』(監督:本多猪四郎。1954年。 ※DVD発売)
『芸者小夏』(1954年。ヒット)
『やくざ囃子』(1954年)
『恋愛特急』(1954年)
『宮本武蔵』 Samurai I: Musashi Miyamoto (第28回アカデミー賞名誉賞(最優秀外国語映画)受賞作品。1954年。大ヒット。 ※DVD発売)
『次郎長三国志 第九部 荒神山』(1954年。 ※ビデオ化)
『新・鞍馬天狗 第一話 天狗出現』(1954年)
『新・鞍馬天狗 第二話 東寺の決闘』(1954年)
『結婚記』(1954年)
『男性NO.1』(1955年)
『男ありて』(1955年。 ※ビデオ化)
『渡り鳥いつ帰る』(1955年。 ※ビデオ化)
『恋化粧』(監督:本多猪四郎。1955年)
『宮本武蔵 一乗寺決闘』(1955年。大ヒット。 ※DVD発売)
『芸者小夏 ひとり寝る夜の小夏』(1955年)
『旅路』(1955年)
『浮雲』(監督:成瀬巳喜男。キネマ旬報ベストテン第1位。1955年 ※DVD発売)
『あすなろ物語』(脚本:黒澤明。1955年 ※ビデオ化)
『朝霧』(1955年)
『青い果実』(1955年)
『宮本武蔵 決闘巌流島』(1956年。大ヒット。 ※DVD発売)
『花嫁会議』(1956年)
『黒帯三国志』(1956年)
『幸福はあの星の下に』(1956年)
『逃げてきた花嫁』(1956年)
『白井権八』(1956年)
『女房族は訴える』(1956年)
『ならず者』(1956年)
『森繁よ何処へ行く』(1956年)
『新婚第一課』(1956年)
『囚人船』(1956年)
『女囚と共に』(1956年。大ヒット)
『流れる』(監督:成瀬巳喜男。キネマ旬報ベストテン第8位。1956年。ヒット。 ※DVD発売)
『山鳩』(1957年)
『顔』(1957年。 ※DVD発売)
『大安吉日』(1957年)
『柳生武芸帳』(1957年。 ※ビデオ化。ヒット)
『おしゃべり社長』(1957年)
『刃傷未遂』(1957年)
『土砂降り』(1957年。 ※ビデオ化)
『嵐の中の抱擁 おもかげは遙かなり』(1957年)
『青い花の流れ』(1957年)
『ただいま零匹』(1957年)
『集金旅行』(1957年。 ※ビデオ化。ヒット)
『娘三羽烏』(1957年。 ※ビデオ化)
『花嫁のおのろけ』(監督:野村芳太郎。1958年。ヒット)
『柳生武芸帳 双龍秘剣』(1958年。 ※ビデオ化。ヒット)
『日日の背信』(1958年)
『どろんこ天国』(1958年。 ※ビデオ化)
『花のうず潮』(1958年)
『現代無宿』(1958年)
『モダン道中 その恋待ったなし』(監督:野村芳太郎。1958年)
『悪女の季節』(1958年)
『春を待つ人々』(1958年)
『愛の濃淡』(1958年)
『橋』(1959年)
『三羽烏三代記』(出演:津川雅彦、十朱幸代。1959年。大ヒット。 ※ビデオ化)
『ある落日』(1959年。 ※ビデオ化)
『海の地図』(1959年)
『素晴らしき十九才』(1959年)
『海流』(1959年)
『霧ある情事』(1959年)
『春の夢』(監督:木下恵介。1960年。 ※DVD発売)
『恋人』(1960年)
『四万人の目撃者』(1960年)
『バナナ』(1960年)
『暴れん坊三羽烏』(1960年)
『女の坂』(監督:吉村公三郎。1960年)
『離愁・「青衣の人」より』(1960年)
『秋日和』 Late Autumn (監督:小津安二郎。キネマ旬報ベストテン第5位。1960年。ヒット。 ※DVD発売)
『猟銃』(1961年。ヒット。 ※ビデオ化)
『渦』(1961年)
『斑女』(共演:ささきいさお。1961年。ヒット)
『水溜り』(1961年。 ※ビデオ化)
『女舞』(1961年)
『禁猟区』(1961年)
『河口』(1961年)
『熱愛者』(岡田は企画も担当した。1961年)
『愛情の系譜』(1961年)
『千客万来』(1962年)
『今年の恋』(共演:田村正和。監督:木下恵介。1962年。 ※DVD発売)
『愛染かつら』(1962年。ヒット)
『霧子の運命』(1962年)
『秋津温泉』(監督:吉田喜重。キネマ旬報ベストテン第10位。岡田は企画と衣裳も担当した。1962年。 ※DVD発売)
『愛と悲しみと』(1962年)
『義士始末記』(1962年)
『続・愛染かつら』(1962年)
『秋刀魚の味』 An Autumn Afternoon (監督:小津安二郎。キネマ旬報ベストテン第8位。1962年。 ※DVD発売)
『歌え若人達』(監督:木下恵介。1963年。 ※DVD発売)
『無宿人別帳』(1963年。 ※DVD発売)
『二人だけの砦』(1963年)
『花の咲く家』(1963年。インドネシアロケが行われた。1993年の東海テレビの同名ドラマとは別作品。)
『結婚式・結婚式』(1963年)
『真赤な恋の物語』(1963年)
『残菊物語』(1963年。 ※ビデオ化)
『香華 前後篇』(監督:木下恵介。キネマ旬報ベストテン第3位。1964年。大ヒット。 ※DVD発売)
『大根と人参』(1965年。 ※ビデオ化)
『四谷怪談』(監督:豊田四郎。1965年)
『花のお江戸の法界坊』(1965年)
『喜劇 各駅停車』(1965年)
『水で書かれた物語』(監督:吉田喜重。キネマ旬報ベストテン第10位。1965年。 ※DVD発売)
『女のみづうみ』(原作:川端康成。監督:吉田喜重。1966年。 ※DVD発売)
『雌が雄を喰い殺す かまきり』(1967年)
『妻二人』(監督:増村保造。1967年。 ※ビデオ化)
『情炎』(監督:吉田喜重。1967年。 ※DVD発売)
『女たちの庭』(監督:野村芳太郎。1967年)
『毒薬の匂う女』(1967年)
『雌が雄を喰い殺す 三匹のかまきり』(1967年)
『炎と女』(監督:吉田喜重。1967年。 ※DVD発売)
『樹氷のよろめき』(監督:吉田喜重。1968年。 ※DVD発売)
『不信のとき』(監督:今井正。1968年)
『さらば夏の光』(監督:吉田喜重。1968年。 ※DVD発売)
『戦いすんで日が暮れて』(1970年)
『エロス+虐殺』(監督:吉田喜重。キネマ旬報ベストテン第4位。1970年。 ※DVD発売)
『喜劇 度胸一番』(1970年)
『煉獄エロイカ』(監督:吉田喜重。1970年。 ※DVD発売)
『波止場女のブルース』(1970年)
『喜劇 命のお値段』(1971年。 ※ビデオ化)
『告白的女優論』(監督:吉田喜重。1971年。 ※DVD発売)
『黒の奔流』(共演:松坂慶子。1972年。※DVD発売)
『吾輩は猫である』(原作:夏目漱石。監督:豊田四郎。1975年。 ※ビデオ化)
『凍河』(共演:石原裕次郎。1976年)
『日本の仁義』(1977年。 ※ビデオ化)
『人間の証明』(共演は松田優作、そして、映画『オール・ザ・キングスメン』でアカデミー主演男優賞を受賞した名優ブロデリック・クロフォード(Broderick Crawford)も出演している。1977年。大ヒット。 ※DVD発売)
『赤穂城断絶』(監督:深作欣二。1978年。 ※DVD発売)
『金田一耕助の冒険』(監督:大林宣彦。1979年。 ※DVD発売)
『制覇』(1982年。 ※ビデオ化)
『生きてはみたけれど 小津安二郎伝』(1983年。 ※ビデオ化)
『序の舞』(原作:宮尾登美子。1984年。 ※DVD発売)
『タンポポ』(監督:伊丹十三。1985年。 ※DVD発売)
『マルサの女』(監督:伊丹十三。キネマ旬報ベストテン第1位。1987年。大ヒット。 ※DVD発売)
『激動の1750日』(1990年。 ※DVD発売)
『おもちゃ』(監督:深作欣二。1999年。 ※ビデオ化)
『鏡の女たち』(監督:吉田喜重。キネマ旬報ベストテン第6位。2003年。 ※DVD発売)
『エリ・エリ・レマ・サバクタニ』(共演:浅野忠信、宮崎あおい。監督:青山真治。2006年。 ※DVD発売)
テレビドラマ
「浮舟(源氏物語)」(1957年、TBS)
「細雪」(1966年、フジテレビ)
「三姉妹」(1967年、NHK大河ドラマ、大河ドラマ史上初の女性主役)
「徳川おんな絵巻」(1970年-1971年、フジテレビ系)
「楡家の人びと」(1972年、NHK銀河テレビ小説)
「元禄太平記」(1975年、NHK大河ドラマ)
「女系家族」(1975年、毎日放送)
「横溝正史シリーズII・女王蜂」(1978年、毎日放送)
「土曜ワイド劇場・西村京太郎トラベルミステリー」(1983年、テレビ朝日)
「真田太平記」(1985年 - 1986年、NHK新大型時代劇)
「土曜ワイド劇場・家政婦は見た!」(1987年、テレビ朝日)
「火曜サスペンス劇場・花園の迷宮」(1988年3月、日本テレビ・東映)秋元多恵役
「函館のおんな」(1990年1月9日、テレビ朝日)
「犬神家の一族」(1990年、テレビ朝日)
「土曜ワイド劇場・家政婦は見た!」(同シリーズ2度目の出演。1992年、テレビ朝日)
「珠玉の女」(1992年10月〜1993年3月、よみうりテレビ・VSO)
「憲法はまだか」(1996年、NHK)
「火曜サスペンス劇場 取調室9」(1998年、日本テレビ・宝映企画)
「なごや千客万来」(2000年、NHK)
「月曜ミステリー劇場・金田一耕助シリーズ・白蝋の死美人」(2004年4月、TBS・東阪企画)
「土曜ワイド劇場 温泉若おかみの殺人推理」シリーズ(テレビ朝日。最新作は2007年4月14日)
「芋たこなんきん」(2007年、NHK朝の連続テレビ小説)
「浅草ふくまる旅館」(第1話ゲスト。2007年、TBS。劇中に出てきた白黒写真(アップの方)は本物の昔の岡田のブロマイド。)
「病院のチカラ〜星空ホスピタル〜」(第3回・第4回ゲスト。2007年、NHK)
舞台
「旗本退屈男 雪華の舞」(1986年)
「極楽ホームへいらっしゃい」(2007年4月13日〜4月27日、三越劇場)
その他のテレビ番組
「スター爆笑Q&A」(日本テレビ)
「徹子の部屋」(テレビ朝日) - 一番最近の出演は2007年4月16日
「いちばんきれいなとき」(NHK衛星第2テレビジョン) - 岡田を含む5人の女優たちのインタビュー番組。語り:佐藤藍子
「スタジオL」(NHK総合)
「山城新伍のおんな専科」(テレビ東京)
「日曜ビッグスペシャル」(テレビ東京)
「新伍のわがまま大好き」(テレビ朝日系)
「おはようワイド・土曜の朝に」(テレビ朝日系)
「あの日 昭和20年の記憶」(NHK衛星第2テレビジョン)
「スタジオパークからこんにちは」(NHK総合) - 2007年1月4日
「女優は語る 岡田茉莉子」(衛星劇場) - 2007年4月
エピソード
ズケズケものを言うはっきりとした性格で知られ、近年のインタビューでも、「最近、テレビに出ている若い女優さんについてどう思われますか?」という質問に、「あの方たちは女優じゃありません。タレントさんです。」と発言。
この発言は岡田の気質の表れとともに、十分な演技の勉強を経ないで映画・テレビドラマへ進出する芸能人が多い風潮を憂慮した演技者の発言としても多方面から話題を呼んだ。
仕事で和服を着る機会が多い反動からか、近年プライベートいずれのシーンの服をすべて山本耀司の製品で統一している。
大の阪神タイガースファンとしても有名。
無声映画のフィルムしか残っていない父・岡田時彦の声を、近年、NHK放送技術研究所でレコードで聞いた。
関連書籍
「水野晴郎と銀幕の花々」(近代文芸社。水野による岡田を含む女優達のインタビュー集)
「君美わしく 戦後日本映画女優讃」(川本三郎著。文藝春秋社。川本による岡田を含む女優達のインタビュー集)
「麗しの銀幕スタア」(秋山庄太郎著。小学館)
「成瀬巳喜男 演出術」(村川英編。ワイズ出版)
「小津安二郎新発見 松竹編」(講談社) ISBN 4-06-206681-5
「いま、小津安二郎」(小学館。岡田のインタビュー掲載)
「成瀬巳喜男と映画の中の女優たち」(ぴあ)
「「20世紀を輝いた美女たち」スター青春グラフィティ 池谷朗[昔]写真館」 ISBN 4-87709-374-5
「「銀幕の名花」 20世紀のビッグスタア3 平凡特別編集」(マガジンハウス) ISBN 4-8387-1210-3
以上、フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より転載。
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あ行
あ行
謎の男 渥美清
渥美 清(あつみ きよし、1928年(昭和3年)3月10日 - 1996年(平成8年)8月4日)は、日本の俳優。本名、田所 康雄(たどころ やすお)。
東京市下谷区車坂町(現・東京都台東区上野七丁目)出身。
1928年3月10日に上野の車坂に生まれる。父は新聞記者、母は教員であった。
1934年、上野の尋常小学校に入学。1936年、一家で板橋区志村清水町に転居。それに伴い、志村第一尋常小学校へ転入。小学生時代は所謂欠食児童であったという。加えて、病弱でもあり小児腎臓炎、小児関節炎、膀胱カタル等の様々な病を患っていた。その為、学校は欠席がちで、3年次と4年次では長期病欠であった。欠席中は、日がな一日ラジオに耳を傾け徳川夢声や落語を聴いて過ごした。戦争の色濃くなる1940年に巣鴨中学校に入学。卒業後は工員として働きながら、一時期、担ぎ屋やテキ屋の手伝いもしていた(親友の谷幹一には、かつて自分は霊岸島桝屋一家に身を寄せていた、と語った事がある)。この幼少期に培った知識が後の「男はつらいよ」シリーズの寅次郎のスタイルを産むきっかけになったといえる。 その後、中央大学経済学部へ進学したが、船乗りになるため退学する。しかし、母親に猛反対されたため船乗りになる事を断念。知り合いの伝手を頼って旅回りの演劇一座に入り喜劇俳優の道を歩むことになった。
なお、当初の芸名は「渥美悦郎」であったが、無名時代の極初期に参加した公演で、座長が観客に向けて配役紹介を行う際になぜか「悦郎」を忘れてしまい、「清」ととっさに言ったものをそのまま使用したといわれている。芸名の"渥美"は愛知県の渥美半島から採ったとされる。
1951年、東京都台東区浅草のストリップ劇場(百万弗劇場)の専属コメディアンとなる。
1953年には、フランス座へ移籍。この頃のフランス座は、長門勇、東八郎、関敬六など後に一線で活躍するコメディアンたちが在籍し、コント作家として井上ひさしが出入りしていた。
1954年、肺結核で右肺を摘出手術しサナトリウムで約2年間の療養生活を送る。このサナトリウムでの療養体験が後の人生観に多大な影響を与えたと言われている。また、復帰後すぐに今度は胃腸を患い中野の立正佼成会病院に1年近く入院する。再復帰後は酒や煙草、コーヒーさえも一切やらなくなり過剰な程の摂生に努めた。
1956年にテレビデビュー、1958年に『おトラさん大繁盛』で映画にデビュー。
1959年にはストリップ小屋時代からの盟友である谷幹一、関敬六とスリーポケッツを結成。しかし、数ヵ月後には脱退している。
1961年から1966年までNHKで放映された『夢であいましょう』に出演。コメディアン・渥美清の名を全国区にした。
1962年公開の映画『あいつばかりが何故もてる』にて映画初主演を務める。 同年、ヤクザ(フーテン)役で出演した『おったまげ人魚物語』のロケにおいて、海に飛び込むシーンでは右肺を摘出していたため海に飛び込めず、唯一代役を立てたシーンとも言われている。 当時、複数の映画が同じ地域で撮影を行っており、この時の撮影現場では、映画『切腹』(仲代達矢、岩下志麻、三国連太郎、丹波哲郎)の撮影現場の宿に泊まり、同宿した多くの俳優や監督と接することとなる。
1963年の野村芳太郎監督の映画『拝啓天皇陛下様』で、愛すべき無垢な男を演じ、俳優としての名声を確立する(続編では阪急や近鉄で活躍したロベルト・バルボンが連合国兵士役で出演した)。
1965年公開の『ブワナ・トシの歌』ではアフリカ各地で4ヶ月間に及ぶ長期ロケを敢行。この撮影以降、アフリカの魅力に取り付かれプライベート旅行で何度も訪れるようになる。この時期の主演作品としては、TBSのテレビドラマ『渥美清の泣いてたまるか』(1966年)や映画『喜劇列車シリーズ』(1967年〜1968年)なども有名である。
1968年、フジテレビにて、テレビドラマ『男はつらいよ』の放送開始。放送期間は1968年10月3日から1969年3月27日までの半年間。脚本は山田洋次と森崎東が担当した。最終回では「ハブに噛まれて寅さんが死ぬ」と言うストーリーに抗議が殺到。「罪滅ぼしの意味も含めて」同1969年、松竹で映画を製作。これが予想に反して大ヒットとなり、以降シリーズ化となって製作の始まった山田洋次監督の映画『男はつらいよ』シリーズにおいて、主演の車寅次郎("フーテンの寅")役を27年間48作に渡って演じ続ける事になる。この映画のシリーズは、国民的映画として日本中の多くの人たちに親しまれた。映画のシリーズでは最多記録の作品としてギネスブックにも載るなどの記録を成し遂げた。
1972年、渥美プロを設立し、松竹と共同で映画『あゝ声なき友』を自身主演で製作公開する。
1975年、松竹80周年記念として制作された映画『友情』に出演。
1977年にはテレビ朝日製作の土曜ワイド劇場『田舎刑事( 時間(とき)よとまれ)』にて久しぶりにテレビドラマの主演を務める。同作品は現在も続く人気番組土曜ワイド劇場の記念すべき第1回作品であると同時に、第32回文化庁芸術祭のテレビ部門ドラマ部の優秀作品にも選出されている。この成功を受けて同作品はシリーズ化され1978年に『田舎刑事(旅路の果て)』が、1979年には『田舎刑事(まぼろしの特攻隊)』がいずれも渥美主演で製作放送されている。
映画『男はつらいよ』シリーズの大成功以降は「渥美清」=「寅さん」の図式が固まってしまう。当初はイメージの固定を避けるために積極的に他作品に出演していたが、どの作品も映画『男はつらいよ』シリーズ程の成功は収める事が出来なかった。
1979年(昭和54年)4月14日にNHKで放映されたテレビドラマ『幾山河は越えたれど〜昭和のこころ 古賀政男〜』では作曲家、古賀政男の生涯を鮮烈に演じ高い評価を得るが、新たな役柄の幅を広げるにはいたらなかった。また、この時期、今村昌平監督が「復讐するは我にあり」の主役にオファーしたが、「寅さんのイメージを裏切りたくない」との理由で断っている。
1980年代以降になると、当時の松竹の思惑や渥美自身も他作品への出演に消極的になっていた事もあって、『男はつらいよ』シリーズ以外の主演は無くなっていく。
その後は、主演以外での参加も次第に減っていき、1993年に公開された映画『学校』が『男はつらいよ』シリーズ以外の作品への最後の出演作品となった(映画出演自体での遺作は亡くなる直前まで出演した男はつらいよ 寅次郎紅の花になる)。
後年は、松竹の看板としてかなりの無理をしての仕事であった。『男はつらいよ』42作目以降は、病気になった渥美に配慮して、立って演じるシーンは少なくされた。晩年は、立っていることもままならず、撮影の合間は寅さんのトランクを椅子代わりにして座っていることが多かった。44作目のころ「スタッフに挨拶されて、それに笑顔で答えることさえ辛いんです。スタッフや見物の方への挨拶を省略していただきたい」と山田洋次に語っている。ところがこのことを知らない映画撮影の見物客は、渥美に声をかけてもまったく反応してもらえなかったことから「愛想が悪い」との理由で渥美を批判することもあったという。体調が悪くなった42作から甥の満男を主役にしたサブストーリーが作られ、年2本作っていたシリーズを一本に減らし、満男の出番を増やして寅次郎の出番を最小限に減らしている。また体調が悪化してからの作品を見ると46作では坂を上るのがきつく(実際に急な坂ではあるが)、47作では歌声が枯れ、第48作では座ったままほとんど動かなくなるなど痛々しい演技である。
病気については1991年に肝臓癌が見つかり、1994年には肺に転移しているのがわかった。47作からは主治医からも出演は不可能だと言われていたが何とか出演した。1996年7月に体調を崩して同月末に手術を受けるが癌の転移が広がり手遅れの状態だった。山田監督の弔辞によれば病院で癌の手術が遅れの状態だった後、病室で震えていたとの事である。そして1996年8月4日、転移性肺癌のため東京都文京区の順天堂医院にて死去。享年69(68歳没)。「俺のやせ細った死に顔を他人に見せたくない。骨にしてから世間に知らせてほしい。」という渥美の遺言により、家族だけで密葬を行い、遺体は東京都荒川区内の火葬場で荼毘に付された。訃報は3日後の1996年8月7日に松竹から公表された。そして8月13日には松竹大船撮影所で「寅さんのお別れの会」が開かれ、山田洋次が弔辞を読み上げた。世間は、渥美清の死を寅さんの死と捉えて報道された。死後、日本政府から渥美に国民栄誉賞が贈られた。『男はつらいよ』シリーズを通じて人情味豊かな演技で広く国民に喜びと潤いを与えたことが受賞理由。俳優で国民栄誉賞が贈られるのは、1984年に死去した長谷川一夫に次いで2人目である。
又、妻は熱心なカトリック信徒で、彼自身も、亡くなる直前に病床でカトリックの洗礼を受けていた事も明らかになっている。
なお、渥美は死ぬまで芸能活動の仕事をプライベートに持ち込まなかった。そのためか、渥美の自宅は芸能・映画関係者や芸能界の友人にも知らされていなかった。
経歴についての異説
渥美清のプライベートは謎につつまれた点が多く、経歴にはいくつかの異説がある。小林信彦著の『おかしな男 渥美清』の略年譜によれば、1940年に志村第一尋常小学校を卒業後、志村高等小学校に入学する。1942年に卒業し、14歳で志村坂上の東京管楽器に入社するが退社し、その後は「家出をしてドサ回り」をしていたとのことである。
巣鴨学園関係者によると、戦前の在籍記録は戦災により焼失しており、在籍の有無は公式にはなんとも言えないという。しかし、何人かのOBの証言によれば、在籍はしていたが、卒業はしていないとのことである。
実像
「寅さん」の演技で見せる闊達さとは対照的に、実像は他者との交わりを避ける孤独な人物だった。「男はつらいよ」のロケ先で撮影に協力した地元有志が開く宴席に一度も顔を出したことがない話は良く知られており、身辺にファンが近寄ることも嫌っていた。タクシーで送られる際も「この辺りで」と言い、自宅から離れた場所で降りるのを常としていた。映画関係者ともプライベートで交際することはほとんどなく「男はつらいよ」シリーズで長年一緒だった山田洋次や黒柳徹子、渥美とは親友であった関敬六でさえ渥美の自宅も個人的な連絡先も知らず、仕事仲間は告別式まで渥美の家族との面識はなかった。これは渥美が生前、プライバシーを徹底的に秘匿し、「渥美清=”寅さん”」のイメージを壊さないためであった。
長男が公の場に顔を出すのは渥美の死後だった。結婚式は家族だけでささやかに行い、仕事仲間など呼ばなかった。結婚まで秘密にしていたため、他界の数年前も渥美が独身と思っていた人が多かったようである。
黒柳徹子はプライベートでも付き合いのある数少ない存在で、彼をお兄ちゃんと呼んでいたほか、夢であいましょうで競演していた時に熱愛疑惑が持ち上がったことがある。ちなみにその際それを報道したスポーツ新聞の紙面には、フランス座時代に幕間のコントで黒柳が小学生の頃いつも呼んでいたチンドン屋の格好をしていた時の写真が掲載された。これは当時マスコミにはその写真しかなかったためである。黒柳は1996年に開かれた「寅さん」とのお別れの会に出席したり、2006年は渥美が死んでから10年と節目の年であったためか渥美の事を話すこともしばしばあった。
2006年9月4日にNHKで放送されたプレミアム10『渥美清の肖像・知られざる役者人生』によると、松竹が映画の低迷期であったのも手伝い、突出して人気のあった「寅さん」のイメージを大事にしたいからと色々な企画を没にしたりして、それ以外の役柄に恵まれなかった。増村保造の映画『セックス・チェック第二の性』を元にして作中男だと疑われるスポーツ選手の女性が、本当に男だったという主演映画などが没になったアイディアの中にあった。
また、永六輔とは少年時代から旧知の仲であり、永六輔によると渥美は永も所属していた不良グループのボスであったいう。更に永の言葉によると、渥美が役者を目指す様になったのにはある刑事の言葉があると言う。曰く、ある時、渥美が歩道の鎖を盗み、それを売ろうとして警察に補導された事があった。その時の刑事に、「お前の顔は、個性が強すぎて一度見たら忘れられない。その顔を生かして、犯罪者になるより役者になれ」と言われた事が役者を目指すきっかけになったとの事である(上記、『渥美清の肖像・知られざる役者人生』によれば、テキ屋稼業に没頭していた頃、浅草の小屋から声をかけられそれが転機のキッカケとなったとされている)。
長男の田所健太郎はニッポン放送の入社試験の際、履歴書の家族欄に『父 田所康雄 職業 俳優』と書いたことから、採用担当者は大部屋俳優の息子と思っていた。後に渥美清が彼の父親として来社したため、社内は騒然となった。
また晩年は俳句を趣味としていて『アエラ句会』(AERA主催)において「風天」の俳号でいくつかの句を詠んでいる。
出演
映画
おトラさん大繁盛(1958年)
大江戸評判記 美男の顔役(1962年)
あいつばかりが何故もてる(1962年)
おかしな奴(1963年)
つむじ風(1963年)
拝啓天皇陛下様(1963年)
無宿人別帳(1963年)
散歩する霊柩車(1964年)
続・拝啓天皇陛下様(1964年)
拝啓総理大臣様(1964年)
ブワナ・トシの歌(1965年)
沓掛時次郎 遊侠一匹(1966年)
喜劇列車シリーズ(1967年 - 68年、全3作)
父子草(1967年)
燃えつきた地図(1968年)
白昼堂々(1968年)
スクラップ集団(1968年)
喜劇 爬虫類(1968年)
でっかいでっかい野郎(1969年)
男はつらいよシリーズ(1969年 - 96年、全48作)
トラ・トラ・トラ!(1970年)※日本公開版のみ
あゝ声なき友(1972年)
故郷(1972年)
砂の器(1974年)ひかり座の支配人
ビューティフル・ピープル ゆかいな仲間(1974年)日本語版ナレーター
友情(1975年)
八つ墓村(1977年)
幸福の黄色いハンカチ(1977年)渡辺係長
皇帝のいない八月(1978年)
遙かなる山の呼び声(1980年)
キネマの天地(1986年)喜八
二十四の瞳 (映画)(1987年)ナレーター
ダウンタウンヒーローズ(1988年)ナレーター
学校(1993年)八百屋の親父
テレビ
第14回NHK紅白歌合戦(1963年) 応援ゲスト
渥美清の泣いてたまるか
東芝日曜劇場(多数出演)
ヨイショ(1974年6月 - 11月、TBS放映)
徹子の部屋(1979年1月3日放送分)
田舎刑事
「幾山河は越えたれど〜昭和のこころ 古賀政男〜」(古賀政男役)
CM
エーザイ
ブリヂストン 新・回転理論技術「DONUTS(ドーナツ)」 専属キャラクター
1995年から自身が逝去する直前まで、「ニッポンのタイヤが変わります」のキャッチフレーズでCM出演していた。
渥美清の逝去後は、歌手・女優の西田ひかるが後継キャラクターとして引き継いだ。
ロート製薬 「パンシロン」
ブリヂストンと同じく逝去直前に「パンシロン新胃腸薬」のCMに復帰出演していた。
中外製薬「バルサン」
いすゞ自動車 「エルフ」
日本テレコム
朝日新聞 - キャッチコピーは「歴史は、あっちこっちで作られる。」。コピーライターの仲畑貴志の作である。
親族
田所健太郎
長男。株式会社ニッポン放送に所属していたラジオディレクター。主な担当番組に伊集院光のOh!デカナイトがある 。現在は株式会社ニッポン放送を退社し、フリーのラジオディレクター。
演じた俳優
南原清隆
ものまねをする芸人
原一平 寅さんのものまねは、渥美本人も生前から認めていた、唯一の渥美清公認ものまね芸人。寅さんのものまねをする際に着用する衣装は渥美本人が映画で実際に使っていたのを譲り受けた物である。
フランクさな寅(フランクさな寅ブログ) 地元ですら知る人ぞ知る「広島の寅さん」。TSS「親子笑劇場電太郎一家」(ローカルミニドラマ。既に終了)にドラ猫のドラ役で出演していた。
野口よういち 山田洋次監督公認。
山口智充(「ワンナイR&R」にて)
参考文献
おかしな男 渥美清(小林信彦、新潮文庫)
知られざる渥美清(大下英治、廣済堂文庫)
以上、フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』転載。
東京市下谷区車坂町(現・東京都台東区上野七丁目)出身。
1928年3月10日に上野の車坂に生まれる。父は新聞記者、母は教員であった。
1934年、上野の尋常小学校に入学。1936年、一家で板橋区志村清水町に転居。それに伴い、志村第一尋常小学校へ転入。小学生時代は所謂欠食児童であったという。加えて、病弱でもあり小児腎臓炎、小児関節炎、膀胱カタル等の様々な病を患っていた。その為、学校は欠席がちで、3年次と4年次では長期病欠であった。欠席中は、日がな一日ラジオに耳を傾け徳川夢声や落語を聴いて過ごした。戦争の色濃くなる1940年に巣鴨中学校に入学。卒業後は工員として働きながら、一時期、担ぎ屋やテキ屋の手伝いもしていた(親友の谷幹一には、かつて自分は霊岸島桝屋一家に身を寄せていた、と語った事がある)。この幼少期に培った知識が後の「男はつらいよ」シリーズの寅次郎のスタイルを産むきっかけになったといえる。 その後、中央大学経済学部へ進学したが、船乗りになるため退学する。しかし、母親に猛反対されたため船乗りになる事を断念。知り合いの伝手を頼って旅回りの演劇一座に入り喜劇俳優の道を歩むことになった。
なお、当初の芸名は「渥美悦郎」であったが、無名時代の極初期に参加した公演で、座長が観客に向けて配役紹介を行う際になぜか「悦郎」を忘れてしまい、「清」ととっさに言ったものをそのまま使用したといわれている。芸名の"渥美"は愛知県の渥美半島から採ったとされる。
1951年、東京都台東区浅草のストリップ劇場(百万弗劇場)の専属コメディアンとなる。
1953年には、フランス座へ移籍。この頃のフランス座は、長門勇、東八郎、関敬六など後に一線で活躍するコメディアンたちが在籍し、コント作家として井上ひさしが出入りしていた。
1954年、肺結核で右肺を摘出手術しサナトリウムで約2年間の療養生活を送る。このサナトリウムでの療養体験が後の人生観に多大な影響を与えたと言われている。また、復帰後すぐに今度は胃腸を患い中野の立正佼成会病院に1年近く入院する。再復帰後は酒や煙草、コーヒーさえも一切やらなくなり過剰な程の摂生に努めた。
1956年にテレビデビュー、1958年に『おトラさん大繁盛』で映画にデビュー。
1959年にはストリップ小屋時代からの盟友である谷幹一、関敬六とスリーポケッツを結成。しかし、数ヵ月後には脱退している。
1961年から1966年までNHKで放映された『夢であいましょう』に出演。コメディアン・渥美清の名を全国区にした。
1962年公開の映画『あいつばかりが何故もてる』にて映画初主演を務める。 同年、ヤクザ(フーテン)役で出演した『おったまげ人魚物語』のロケにおいて、海に飛び込むシーンでは右肺を摘出していたため海に飛び込めず、唯一代役を立てたシーンとも言われている。 当時、複数の映画が同じ地域で撮影を行っており、この時の撮影現場では、映画『切腹』(仲代達矢、岩下志麻、三国連太郎、丹波哲郎)の撮影現場の宿に泊まり、同宿した多くの俳優や監督と接することとなる。
1963年の野村芳太郎監督の映画『拝啓天皇陛下様』で、愛すべき無垢な男を演じ、俳優としての名声を確立する(続編では阪急や近鉄で活躍したロベルト・バルボンが連合国兵士役で出演した)。
1965年公開の『ブワナ・トシの歌』ではアフリカ各地で4ヶ月間に及ぶ長期ロケを敢行。この撮影以降、アフリカの魅力に取り付かれプライベート旅行で何度も訪れるようになる。この時期の主演作品としては、TBSのテレビドラマ『渥美清の泣いてたまるか』(1966年)や映画『喜劇列車シリーズ』(1967年〜1968年)なども有名である。
1968年、フジテレビにて、テレビドラマ『男はつらいよ』の放送開始。放送期間は1968年10月3日から1969年3月27日までの半年間。脚本は山田洋次と森崎東が担当した。最終回では「ハブに噛まれて寅さんが死ぬ」と言うストーリーに抗議が殺到。「罪滅ぼしの意味も含めて」同1969年、松竹で映画を製作。これが予想に反して大ヒットとなり、以降シリーズ化となって製作の始まった山田洋次監督の映画『男はつらいよ』シリーズにおいて、主演の車寅次郎("フーテンの寅")役を27年間48作に渡って演じ続ける事になる。この映画のシリーズは、国民的映画として日本中の多くの人たちに親しまれた。映画のシリーズでは最多記録の作品としてギネスブックにも載るなどの記録を成し遂げた。
1972年、渥美プロを設立し、松竹と共同で映画『あゝ声なき友』を自身主演で製作公開する。
1975年、松竹80周年記念として制作された映画『友情』に出演。
1977年にはテレビ朝日製作の土曜ワイド劇場『田舎刑事( 時間(とき)よとまれ)』にて久しぶりにテレビドラマの主演を務める。同作品は現在も続く人気番組土曜ワイド劇場の記念すべき第1回作品であると同時に、第32回文化庁芸術祭のテレビ部門ドラマ部の優秀作品にも選出されている。この成功を受けて同作品はシリーズ化され1978年に『田舎刑事(旅路の果て)』が、1979年には『田舎刑事(まぼろしの特攻隊)』がいずれも渥美主演で製作放送されている。
映画『男はつらいよ』シリーズの大成功以降は「渥美清」=「寅さん」の図式が固まってしまう。当初はイメージの固定を避けるために積極的に他作品に出演していたが、どの作品も映画『男はつらいよ』シリーズ程の成功は収める事が出来なかった。
1979年(昭和54年)4月14日にNHKで放映されたテレビドラマ『幾山河は越えたれど〜昭和のこころ 古賀政男〜』では作曲家、古賀政男の生涯を鮮烈に演じ高い評価を得るが、新たな役柄の幅を広げるにはいたらなかった。また、この時期、今村昌平監督が「復讐するは我にあり」の主役にオファーしたが、「寅さんのイメージを裏切りたくない」との理由で断っている。
1980年代以降になると、当時の松竹の思惑や渥美自身も他作品への出演に消極的になっていた事もあって、『男はつらいよ』シリーズ以外の主演は無くなっていく。
その後は、主演以外での参加も次第に減っていき、1993年に公開された映画『学校』が『男はつらいよ』シリーズ以外の作品への最後の出演作品となった(映画出演自体での遺作は亡くなる直前まで出演した男はつらいよ 寅次郎紅の花になる)。
後年は、松竹の看板としてかなりの無理をしての仕事であった。『男はつらいよ』42作目以降は、病気になった渥美に配慮して、立って演じるシーンは少なくされた。晩年は、立っていることもままならず、撮影の合間は寅さんのトランクを椅子代わりにして座っていることが多かった。44作目のころ「スタッフに挨拶されて、それに笑顔で答えることさえ辛いんです。スタッフや見物の方への挨拶を省略していただきたい」と山田洋次に語っている。ところがこのことを知らない映画撮影の見物客は、渥美に声をかけてもまったく反応してもらえなかったことから「愛想が悪い」との理由で渥美を批判することもあったという。体調が悪くなった42作から甥の満男を主役にしたサブストーリーが作られ、年2本作っていたシリーズを一本に減らし、満男の出番を増やして寅次郎の出番を最小限に減らしている。また体調が悪化してからの作品を見ると46作では坂を上るのがきつく(実際に急な坂ではあるが)、47作では歌声が枯れ、第48作では座ったままほとんど動かなくなるなど痛々しい演技である。
病気については1991年に肝臓癌が見つかり、1994年には肺に転移しているのがわかった。47作からは主治医からも出演は不可能だと言われていたが何とか出演した。1996年7月に体調を崩して同月末に手術を受けるが癌の転移が広がり手遅れの状態だった。山田監督の弔辞によれば病院で癌の手術が遅れの状態だった後、病室で震えていたとの事である。そして1996年8月4日、転移性肺癌のため東京都文京区の順天堂医院にて死去。享年69(68歳没)。「俺のやせ細った死に顔を他人に見せたくない。骨にしてから世間に知らせてほしい。」という渥美の遺言により、家族だけで密葬を行い、遺体は東京都荒川区内の火葬場で荼毘に付された。訃報は3日後の1996年8月7日に松竹から公表された。そして8月13日には松竹大船撮影所で「寅さんのお別れの会」が開かれ、山田洋次が弔辞を読み上げた。世間は、渥美清の死を寅さんの死と捉えて報道された。死後、日本政府から渥美に国民栄誉賞が贈られた。『男はつらいよ』シリーズを通じて人情味豊かな演技で広く国民に喜びと潤いを与えたことが受賞理由。俳優で国民栄誉賞が贈られるのは、1984年に死去した長谷川一夫に次いで2人目である。
又、妻は熱心なカトリック信徒で、彼自身も、亡くなる直前に病床でカトリックの洗礼を受けていた事も明らかになっている。
なお、渥美は死ぬまで芸能活動の仕事をプライベートに持ち込まなかった。そのためか、渥美の自宅は芸能・映画関係者や芸能界の友人にも知らされていなかった。
経歴についての異説
渥美清のプライベートは謎につつまれた点が多く、経歴にはいくつかの異説がある。小林信彦著の『おかしな男 渥美清』の略年譜によれば、1940年に志村第一尋常小学校を卒業後、志村高等小学校に入学する。1942年に卒業し、14歳で志村坂上の東京管楽器に入社するが退社し、その後は「家出をしてドサ回り」をしていたとのことである。
巣鴨学園関係者によると、戦前の在籍記録は戦災により焼失しており、在籍の有無は公式にはなんとも言えないという。しかし、何人かのOBの証言によれば、在籍はしていたが、卒業はしていないとのことである。
実像
「寅さん」の演技で見せる闊達さとは対照的に、実像は他者との交わりを避ける孤独な人物だった。「男はつらいよ」のロケ先で撮影に協力した地元有志が開く宴席に一度も顔を出したことがない話は良く知られており、身辺にファンが近寄ることも嫌っていた。タクシーで送られる際も「この辺りで」と言い、自宅から離れた場所で降りるのを常としていた。映画関係者ともプライベートで交際することはほとんどなく「男はつらいよ」シリーズで長年一緒だった山田洋次や黒柳徹子、渥美とは親友であった関敬六でさえ渥美の自宅も個人的な連絡先も知らず、仕事仲間は告別式まで渥美の家族との面識はなかった。これは渥美が生前、プライバシーを徹底的に秘匿し、「渥美清=”寅さん”」のイメージを壊さないためであった。
長男が公の場に顔を出すのは渥美の死後だった。結婚式は家族だけでささやかに行い、仕事仲間など呼ばなかった。結婚まで秘密にしていたため、他界の数年前も渥美が独身と思っていた人が多かったようである。
黒柳徹子はプライベートでも付き合いのある数少ない存在で、彼をお兄ちゃんと呼んでいたほか、夢であいましょうで競演していた時に熱愛疑惑が持ち上がったことがある。ちなみにその際それを報道したスポーツ新聞の紙面には、フランス座時代に幕間のコントで黒柳が小学生の頃いつも呼んでいたチンドン屋の格好をしていた時の写真が掲載された。これは当時マスコミにはその写真しかなかったためである。黒柳は1996年に開かれた「寅さん」とのお別れの会に出席したり、2006年は渥美が死んでから10年と節目の年であったためか渥美の事を話すこともしばしばあった。
2006年9月4日にNHKで放送されたプレミアム10『渥美清の肖像・知られざる役者人生』によると、松竹が映画の低迷期であったのも手伝い、突出して人気のあった「寅さん」のイメージを大事にしたいからと色々な企画を没にしたりして、それ以外の役柄に恵まれなかった。増村保造の映画『セックス・チェック第二の性』を元にして作中男だと疑われるスポーツ選手の女性が、本当に男だったという主演映画などが没になったアイディアの中にあった。
また、永六輔とは少年時代から旧知の仲であり、永六輔によると渥美は永も所属していた不良グループのボスであったいう。更に永の言葉によると、渥美が役者を目指す様になったのにはある刑事の言葉があると言う。曰く、ある時、渥美が歩道の鎖を盗み、それを売ろうとして警察に補導された事があった。その時の刑事に、「お前の顔は、個性が強すぎて一度見たら忘れられない。その顔を生かして、犯罪者になるより役者になれ」と言われた事が役者を目指すきっかけになったとの事である(上記、『渥美清の肖像・知られざる役者人生』によれば、テキ屋稼業に没頭していた頃、浅草の小屋から声をかけられそれが転機のキッカケとなったとされている)。
長男の田所健太郎はニッポン放送の入社試験の際、履歴書の家族欄に『父 田所康雄 職業 俳優』と書いたことから、採用担当者は大部屋俳優の息子と思っていた。後に渥美清が彼の父親として来社したため、社内は騒然となった。
また晩年は俳句を趣味としていて『アエラ句会』(AERA主催)において「風天」の俳号でいくつかの句を詠んでいる。
出演
映画
おトラさん大繁盛(1958年)
大江戸評判記 美男の顔役(1962年)
あいつばかりが何故もてる(1962年)
おかしな奴(1963年)
つむじ風(1963年)
拝啓天皇陛下様(1963年)
無宿人別帳(1963年)
散歩する霊柩車(1964年)
続・拝啓天皇陛下様(1964年)
拝啓総理大臣様(1964年)
ブワナ・トシの歌(1965年)
沓掛時次郎 遊侠一匹(1966年)
喜劇列車シリーズ(1967年 - 68年、全3作)
父子草(1967年)
燃えつきた地図(1968年)
白昼堂々(1968年)
スクラップ集団(1968年)
喜劇 爬虫類(1968年)
でっかいでっかい野郎(1969年)
男はつらいよシリーズ(1969年 - 96年、全48作)
トラ・トラ・トラ!(1970年)※日本公開版のみ
あゝ声なき友(1972年)
故郷(1972年)
砂の器(1974年)ひかり座の支配人
ビューティフル・ピープル ゆかいな仲間(1974年)日本語版ナレーター
友情(1975年)
八つ墓村(1977年)
幸福の黄色いハンカチ(1977年)渡辺係長
皇帝のいない八月(1978年)
遙かなる山の呼び声(1980年)
キネマの天地(1986年)喜八
二十四の瞳 (映画)(1987年)ナレーター
ダウンタウンヒーローズ(1988年)ナレーター
学校(1993年)八百屋の親父
テレビ
第14回NHK紅白歌合戦(1963年) 応援ゲスト
渥美清の泣いてたまるか
東芝日曜劇場(多数出演)
ヨイショ(1974年6月 - 11月、TBS放映)
徹子の部屋(1979年1月3日放送分)
田舎刑事
「幾山河は越えたれど〜昭和のこころ 古賀政男〜」(古賀政男役)
CM
エーザイ
ブリヂストン 新・回転理論技術「DONUTS(ドーナツ)」 専属キャラクター
1995年から自身が逝去する直前まで、「ニッポンのタイヤが変わります」のキャッチフレーズでCM出演していた。
渥美清の逝去後は、歌手・女優の西田ひかるが後継キャラクターとして引き継いだ。
ロート製薬 「パンシロン」
ブリヂストンと同じく逝去直前に「パンシロン新胃腸薬」のCMに復帰出演していた。
中外製薬「バルサン」
いすゞ自動車 「エルフ」
日本テレコム
朝日新聞 - キャッチコピーは「歴史は、あっちこっちで作られる。」。コピーライターの仲畑貴志の作である。
親族
田所健太郎
長男。株式会社ニッポン放送に所属していたラジオディレクター。主な担当番組に伊集院光のOh!デカナイトがある 。現在は株式会社ニッポン放送を退社し、フリーのラジオディレクター。
演じた俳優
南原清隆
ものまねをする芸人
原一平 寅さんのものまねは、渥美本人も生前から認めていた、唯一の渥美清公認ものまね芸人。寅さんのものまねをする際に着用する衣装は渥美本人が映画で実際に使っていたのを譲り受けた物である。
フランクさな寅(フランクさな寅ブログ) 地元ですら知る人ぞ知る「広島の寅さん」。TSS「親子笑劇場電太郎一家」(ローカルミニドラマ。既に終了)にドラ猫のドラ役で出演していた。
野口よういち 山田洋次監督公認。
山口智充(「ワンナイR&R」にて)
参考文献
おかしな男 渥美清(小林信彦、新潮文庫)
知られざる渥美清(大下英治、廣済堂文庫)
以上、フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』転載。
あ行
ミス・シンデレラに選ばれ女優になった 丘さとみ
丘 さとみ(おか さとみ、本名:菱田美恵子、1935年(昭和10年)9月15日 - )は兵庫県宝塚市生まれの女優。
1953年(昭和28年)3月、尼崎市立尼崎高等学校在学中にディズニーの映画『シンデレラ(シンデレラ姫)』の日本公開を記念して行われたRKOラジオ映画社と毎日新聞社主催の「日本シンデレラ姫コンテスト」に参加し、ミス・シンデレラに選ばれる。
ミス・シンデレラの栄冠を手にした後、その副賞で同1953年(昭和28年)3月20日から4月4日まで渡米し、ディズニー撮影所や人気女優アン・ブライス(Ann Blyth)の自宅等を訪問したり、ケーリー・グラントと2度会食するといったハリウッド見学に招待されている。この渡米の記事・感想は、雑誌『映画の友』1953年7月号に『夢の様なハリウッド見学』という題で掲載されている(当時はまだ女優デビュー前で、本名の菱田美恵子さん≠ナ紹介されている)。
1954年、高校を卒業してRKOラジオ映画社日本支社に就職。しかし、東映にスカウトされ、翌1955年に東映に入社。同年、映画『御存知怪傑黒頭巾・新選組追撃』でデビュー。以降、東映時代劇で大活躍し「東映城のお姫さま」と呼ばれ絶大な人気を博した。引退までの10年間で約150本もの映画に出演。
1962年に東映を退社してフリーになり、映画出演も続けながらテレビドラマに主な活躍の場を移す。ドラマでは映画とは違い現代劇を中心に活躍。1965年、在米日系人2世の男性と結婚し、引退。3子をもうけるが、1975年に別居して女優に復帰する(後に離婚)。女優復帰後は舞台にも進出。現在も総合女優として活躍中。
主な出演作品
映画
『御存じ快傑黒頭巾・新撰組追撃』
『水戸黄門漫遊記・怪猫乱舞』
『新諸国物語・七つの誓い/奴隷船の巻』
『新諸国物語・七つの誓い/凱旋歌の巻』
『旗本退屈男・謎の紅蓮搭』
『鞍馬天狗・御用盗異聞』
『怪談番町皿屋敷』
『暴れん坊街道』 (監督:内田吐夢)
『大菩薩峠』 (監督:内田吐夢)
『阿波おどり・鳴門の海賊』 (監督:マキノ雅弘)
『旗本退屈男・謎の蛇姫屋敷』
『大菩薩峠・第二部』 (監督:内田吐夢)
『清水港の名物男・遠州森の石松』 (監督:マキノ雅弘)
『裸の太陽』 (第9回ベルリン国際映画祭青少年向映画賞(西ベルリン参事会賞)受賞作品。監督:家城巳代治)
『一心太助・天下の一大事』
『殿さま弥次喜多・捕物道中』
『忠臣蔵 桜花の巻/菊花の巻』
『鞍馬天狗』 (監督:マキノ雅弘)
『大菩薩峠・完結篇』 (監督:内田吐夢)
『素晴らしき娘たち』 (監督:家城巳代治)
『旗本退屈男・謎の大文字』
『水戸黄門 天下の副将軍』 (共演:美空ひばり)
『恋山彦』 (監督:マキノ雅弘)
『一心太助・男の中の男一匹』
『旗本退屈男・謎の幽霊島』
『丹下左膳・妖刀濡れ燕』
『弥太郎笠』 (監督:マキノ雅弘)
『新吾十番勝負・完結篇』
『天保六花撰・地獄の花道』
『親鸞』 (監督:田坂具隆)
『旗本退屈男・謎の暗殺隊』
『清水港に来た男』 (監督:マキノ雅弘)
『続・親鸞』 (監督:田坂具隆)
『森の石松鬼より怖い』
『若き日の次郎長・東海の顔役』 (監督:マキノ雅弘)
『月形半平太』 (監督:マキノ雅弘)
『宮本武蔵』 (監督:内田吐夢)
『若き日の次郎長・東海一の若親分』
『港祭りに来た男』 (監督:マキノ雅弘)
『若き日の次郎長・東海道のつむじ風』 (監督:マキノ雅弘)
『天草四郎時貞』 (監督:大島渚)
『あの空の果てに星はまたたく』 (共演:千葉真一)
『紀州の暴れん坊』 (監督:中川信夫)
『稲妻峠の決闘』 (監督:中川信夫)
『宮本武蔵・般若坂の決斗』 (監督:内田吐夢)
『宮本武蔵・二刀流開眼』 (監督:内田吐夢)
『昭和侠客伝』 (監督:石井輝男)
『武士道残酷物語』 (第13回ベルリン国際映画祭グランプリ(金熊賞)受賞作品。監督:今井正)
『十三人の刺客』
『宮本武蔵・一乗寺の決斗』 (共演:高倉健。監督:内田吐夢)
『宮本武蔵・巌流島の決斗』 (共演:高倉健。監督:内田吐夢)
『わが青春のイレブン』 (監督:降旗康男)
『はだしのゲン PART3 ヒロシマのたたかい』
『ちゃんばらグラフィティー 斬る!』
『トビウオのぼうやはびょうきです』
テレビドラマ
ただいま11人 (1964年〜1967年。TBS)
十手無用 九丁堀事件帖 (1975年〜1976年。日本テレビ)
スタア誕生 (1985年。フジテレビ)
京都かるがも病院 (1986年〜1987年。テレビ朝日)
熱くなるまで待って! (1987年。フジテレビ)
風雲!真田幸村 第21話「望郷 闇の元締必殺剣」(1989年、テレビ東京) - お浜役
つばさ (1994年。NHKドラマ新銀河)
幸福の予感 (共演:渡辺梓、冨家規政。1996年。東海テレビ・フジテレビ系全国ネットの昼ドラマ)
バラエティー番組
「森田一義アワー 笑っていいとも!」(フジテレビ) - テレフォンショッキングゲスト(元おニャン子クラブの高井麻巳子からの紹介)
以上、フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より転載。
1953年(昭和28年)3月、尼崎市立尼崎高等学校在学中にディズニーの映画『シンデレラ(シンデレラ姫)』の日本公開を記念して行われたRKOラジオ映画社と毎日新聞社主催の「日本シンデレラ姫コンテスト」に参加し、ミス・シンデレラに選ばれる。
ミス・シンデレラの栄冠を手にした後、その副賞で同1953年(昭和28年)3月20日から4月4日まで渡米し、ディズニー撮影所や人気女優アン・ブライス(Ann Blyth)の自宅等を訪問したり、ケーリー・グラントと2度会食するといったハリウッド見学に招待されている。この渡米の記事・感想は、雑誌『映画の友』1953年7月号に『夢の様なハリウッド見学』という題で掲載されている(当時はまだ女優デビュー前で、本名の菱田美恵子さん≠ナ紹介されている)。
1954年、高校を卒業してRKOラジオ映画社日本支社に就職。しかし、東映にスカウトされ、翌1955年に東映に入社。同年、映画『御存知怪傑黒頭巾・新選組追撃』でデビュー。以降、東映時代劇で大活躍し「東映城のお姫さま」と呼ばれ絶大な人気を博した。引退までの10年間で約150本もの映画に出演。
1962年に東映を退社してフリーになり、映画出演も続けながらテレビドラマに主な活躍の場を移す。ドラマでは映画とは違い現代劇を中心に活躍。1965年、在米日系人2世の男性と結婚し、引退。3子をもうけるが、1975年に別居して女優に復帰する(後に離婚)。女優復帰後は舞台にも進出。現在も総合女優として活躍中。
主な出演作品
映画
『御存じ快傑黒頭巾・新撰組追撃』
『水戸黄門漫遊記・怪猫乱舞』
『新諸国物語・七つの誓い/奴隷船の巻』
『新諸国物語・七つの誓い/凱旋歌の巻』
『旗本退屈男・謎の紅蓮搭』
『鞍馬天狗・御用盗異聞』
『怪談番町皿屋敷』
『暴れん坊街道』 (監督:内田吐夢)
『大菩薩峠』 (監督:内田吐夢)
『阿波おどり・鳴門の海賊』 (監督:マキノ雅弘)
『旗本退屈男・謎の蛇姫屋敷』
『大菩薩峠・第二部』 (監督:内田吐夢)
『清水港の名物男・遠州森の石松』 (監督:マキノ雅弘)
『裸の太陽』 (第9回ベルリン国際映画祭青少年向映画賞(西ベルリン参事会賞)受賞作品。監督:家城巳代治)
『一心太助・天下の一大事』
『殿さま弥次喜多・捕物道中』
『忠臣蔵 桜花の巻/菊花の巻』
『鞍馬天狗』 (監督:マキノ雅弘)
『大菩薩峠・完結篇』 (監督:内田吐夢)
『素晴らしき娘たち』 (監督:家城巳代治)
『旗本退屈男・謎の大文字』
『水戸黄門 天下の副将軍』 (共演:美空ひばり)
『恋山彦』 (監督:マキノ雅弘)
『一心太助・男の中の男一匹』
『旗本退屈男・謎の幽霊島』
『丹下左膳・妖刀濡れ燕』
『弥太郎笠』 (監督:マキノ雅弘)
『新吾十番勝負・完結篇』
『天保六花撰・地獄の花道』
『親鸞』 (監督:田坂具隆)
『旗本退屈男・謎の暗殺隊』
『清水港に来た男』 (監督:マキノ雅弘)
『続・親鸞』 (監督:田坂具隆)
『森の石松鬼より怖い』
『若き日の次郎長・東海の顔役』 (監督:マキノ雅弘)
『月形半平太』 (監督:マキノ雅弘)
『宮本武蔵』 (監督:内田吐夢)
『若き日の次郎長・東海一の若親分』
『港祭りに来た男』 (監督:マキノ雅弘)
『若き日の次郎長・東海道のつむじ風』 (監督:マキノ雅弘)
『天草四郎時貞』 (監督:大島渚)
『あの空の果てに星はまたたく』 (共演:千葉真一)
『紀州の暴れん坊』 (監督:中川信夫)
『稲妻峠の決闘』 (監督:中川信夫)
『宮本武蔵・般若坂の決斗』 (監督:内田吐夢)
『宮本武蔵・二刀流開眼』 (監督:内田吐夢)
『昭和侠客伝』 (監督:石井輝男)
『武士道残酷物語』 (第13回ベルリン国際映画祭グランプリ(金熊賞)受賞作品。監督:今井正)
『十三人の刺客』
『宮本武蔵・一乗寺の決斗』 (共演:高倉健。監督:内田吐夢)
『宮本武蔵・巌流島の決斗』 (共演:高倉健。監督:内田吐夢)
『わが青春のイレブン』 (監督:降旗康男)
『はだしのゲン PART3 ヒロシマのたたかい』
『ちゃんばらグラフィティー 斬る!』
『トビウオのぼうやはびょうきです』
テレビドラマ
ただいま11人 (1964年〜1967年。TBS)
十手無用 九丁堀事件帖 (1975年〜1976年。日本テレビ)
スタア誕生 (1985年。フジテレビ)
京都かるがも病院 (1986年〜1987年。テレビ朝日)
熱くなるまで待って! (1987年。フジテレビ)
風雲!真田幸村 第21話「望郷 闇の元締必殺剣」(1989年、テレビ東京) - お浜役
つばさ (1994年。NHKドラマ新銀河)
幸福の予感 (共演:渡辺梓、冨家規政。1996年。東海テレビ・フジテレビ系全国ネットの昼ドラマ)
バラエティー番組
「森田一義アワー 笑っていいとも!」(フジテレビ) - テレフォンショッキングゲスト(元おニャン子クラブの高井麻巳子からの紹介)
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あ行
いつまでも”心の若さ”を失なわない女優 大空真弓
大空 眞弓(おおぞら まゆみ、1940年3月10日 - )は、女優。京都府出身。
東京音楽大学声楽科在学中にスカウトされ1958年に新東宝に入社し映画「坊ちゃん社員」でデビュー。その後、東京映画に移籍、喜劇「駅前シリーズ」などに出演。1964年、TBSの東芝日曜劇場「愛と死をみつめて」が大ヒット。不治の病に冒される大島みち子役を熱演し、茶の間の人気を不動のものとした。初舞台は1962年の「黒蜥蜴」。1990年には「人生は、ガタコト列車に乗って……」で第15回菊田一夫演劇賞を受賞。その後も主に舞台を中心に活躍を続けている。俳優の勝呂誉と結婚し、1児をもうけたが、後に離婚。
エピソード
サバサバとした性格の持ち主で、元夫の勝呂誉が再婚した際の結婚式にも出席した。新郎側友人としてスピーチも行い、「過去の私と勝呂さんとの結婚は何かの間違いでした。どうぞお幸せに!」と祝辞を述べ、新郎新婦や出席者の爆笑を誘った。
毎年9月頃に一日だけスケジュールを完全にオフにして、癌検診を受けているという。過去に数回腫瘍が発見されたが、いずれも良性であったため簡単な摘出手術で済んだ、と以前出演した「最終警告!たけしの本当は怖い家庭の医学」で述べている。
デビュー間もない頃、撮影で訪れた沖縄宮古島の小学校にピアノがなかったことから、自費で購入し寄贈。話題となった。
出演作品
映画
駅前シリーズ
風林火山(1969年)
華麗なる一族(1974年)
テレビドラマ
愛と死をみつめて(TBS、1964年) 大島みち子役
春日局(NHK大河ドラマ、1989年) 茶々役
ザ・美容室 (東海テレビ、2000年) 長谷川晴子役
ルームシェアの女(NHK、2005年)
相棒・Season5(テレビ朝日、2007年)
裸の大将(フジテレビ、2007年)
お・ばんざい!(MBS・TBS系昼ドラマ、共演:斉藤由貴、2007年9月3日〜)
舞台
三婆 (2007年。共演:池内淳子、沢田亜矢子)
佐賀のがばいばあちゃん(2007年)
バラエティー
SMAP×SMAP(※ビストロSMAPゲスト。フジテレビ)
おまかせ!山田商会(動物園でアルバイトした。テレビ東京)
主治医が見つかる診療所(2007年1月15日、テレビ東京)
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東京音楽大学声楽科在学中にスカウトされ1958年に新東宝に入社し映画「坊ちゃん社員」でデビュー。その後、東京映画に移籍、喜劇「駅前シリーズ」などに出演。1964年、TBSの東芝日曜劇場「愛と死をみつめて」が大ヒット。不治の病に冒される大島みち子役を熱演し、茶の間の人気を不動のものとした。初舞台は1962年の「黒蜥蜴」。1990年には「人生は、ガタコト列車に乗って……」で第15回菊田一夫演劇賞を受賞。その後も主に舞台を中心に活躍を続けている。俳優の勝呂誉と結婚し、1児をもうけたが、後に離婚。
エピソード
サバサバとした性格の持ち主で、元夫の勝呂誉が再婚した際の結婚式にも出席した。新郎側友人としてスピーチも行い、「過去の私と勝呂さんとの結婚は何かの間違いでした。どうぞお幸せに!」と祝辞を述べ、新郎新婦や出席者の爆笑を誘った。
毎年9月頃に一日だけスケジュールを完全にオフにして、癌検診を受けているという。過去に数回腫瘍が発見されたが、いずれも良性であったため簡単な摘出手術で済んだ、と以前出演した「最終警告!たけしの本当は怖い家庭の医学」で述べている。
デビュー間もない頃、撮影で訪れた沖縄宮古島の小学校にピアノがなかったことから、自費で購入し寄贈。話題となった。
出演作品
映画
駅前シリーズ
風林火山(1969年)
華麗なる一族(1974年)
テレビドラマ
愛と死をみつめて(TBS、1964年) 大島みち子役
春日局(NHK大河ドラマ、1989年) 茶々役
ザ・美容室 (東海テレビ、2000年) 長谷川晴子役
ルームシェアの女(NHK、2005年)
相棒・Season5(テレビ朝日、2007年)
裸の大将(フジテレビ、2007年)
お・ばんざい!(MBS・TBS系昼ドラマ、共演:斉藤由貴、2007年9月3日〜)
舞台
三婆 (2007年。共演:池内淳子、沢田亜矢子)
佐賀のがばいばあちゃん(2007年)
バラエティー
SMAP×SMAP(※ビストロSMAPゲスト。フジテレビ)
おまかせ!山田商会(動物園でアルバイトした。テレビ東京)
主治医が見つかる診療所(2007年1月15日、テレビ東京)
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あ行
百万ドルのエクボで売りだした女優 乙羽信子
乙羽 信子(おとわ のぶこ、本名・新藤信子(旧姓・加治)、1924年10月1日 - 1994年12月22日)は、昭和中期から平成期(1950年代後半〜1990年代前半)の女優。
鳥取県西伯郡米子町(現・米子市)西倉吉町に生れる。父の家に引き取られ、大阪で育つ。間もなく、饅頭屋の養女となり、神戸市に移る。
宝塚歌劇との出会い〜宝塚時代
小学校のときから日本舞踊を習い、また、養父の姉に連れられて宝塚歌劇を見に行くうち、憧れるようになり、1937年、「宝塚音楽学校予科」に入学する。翌年本科に進み、1939年卒業する。同期生に越路吹雪、月丘夢路、東郷晴子、大路三千緒らがいた。同年の公演『宝塚花物語』で同期生達と共に初舞台を踏む。戦後、再開された公演で娘役トップスター(主に雪組公演出演)として淡島千景と人気を二分し、男役トップスターの上級生、春日野八千代の相手役として戦後の宝塚歌劇第一期黄金時代を支える。
1950年、娘役に限界を感じ始め、松竹入りした淡島千景に倣うように退団。
退団後の活躍
大映
退団後、大映に入社する。大映は、宝塚歌劇団時代から人気のあった「えくぼ」に「百万ドルのえくぼ」というキャッチフレーズをつけて、純情型のスターとして売り出す。デビュー作は同年の新藤兼人脚本、木村恵吾監督の『処女蜂』で、上原謙と共演した。その後、何作かに出演したが、魅力を出し切ったとはいえなかった。しかし、1951年の新藤兼人の第1回監督作品『愛妻物語』で、夫を陰で支える妻を好演し、映画界でもスターの地位を手に入れる。
近代映画協会
1952年、松竹を退社して「近代映画協会」を設立していた新藤兼人の第1回自主制作映画『原爆の子』に大映の反対を押し切って出演する。これを機に大映を退社し、近代映画協会の同人となる。
新藤兼人
以後、近代映画協会が製作する映画に立て続けに出演する中で、それまでの「宝塚歌劇団出身」「お嬢さま女優」「百万ドルのエクボ」「清純派」のイメージから180度転換し強烈なリアリズムあふれた演技を見せ、日本映画史にその名を残すこととなる。それを象徴する作品で、代表作となったのが、1960年の『裸の島』である。せりふが一切なく、登場人物も狭い島で働く夫婦(乙羽と殿山泰司が演じた)だけという実験的な映画であったが、そのリアリティーあふれる画面は大好評となり、第2回モスクワ国際映画祭でグランプリを受賞するなど、世界的に高い評価を受ける。 この作品以来、新藤の作品は、乙羽演じる主人公をどう生かすかを中心に構想されたといっても過言ではない。1978年、新藤と結婚。結婚後、最初の作品となった『絞殺』で、1979年、ベネチア国際映画祭最優秀主演女優賞を受賞する。
私生活
ちなみに、新藤とは夫婦であっても、乙羽は「先生」と呼び、また新藤は「乙羽君」と呼び合っていた。恋仲になった時、新藤には既に妻がおり、忍ぶ間柄であった。しかし結ばれた2人を前妻の子は祝福し迎えている。「いきなり子供達ができました」と、乙羽は喜んでいた。
テレビ
晩年には、新藤の仕事以外にも、テレビ・舞台と幅広く活躍し、貴重な脇役として人気を博した。1983年には驚異的な視聴率を記録した『おしん』に主演している。新たなファンを獲得した。
1987年から1992年にかけて、日本テレビ放送網の火曜サスペンス劇場で、水谷豊主演の浅見光彦ミステリーとその続編である、朝比奈周平ミステリーで、水谷の母親役を演じる。
晩年
杉村春子との共演で話題になった新藤の『午後の遺言状』の撮影を終えた1994年12月22日午前、肝臓癌による肝硬変で死去。享年70。新藤は作品が乙羽の遺作になるという覚悟の上で制作に臨み、メガホンを取ったという。乙羽自身も残された時間を知った上で出演したといわれている。
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鳥取県西伯郡米子町(現・米子市)西倉吉町に生れる。父の家に引き取られ、大阪で育つ。間もなく、饅頭屋の養女となり、神戸市に移る。
宝塚歌劇との出会い〜宝塚時代
小学校のときから日本舞踊を習い、また、養父の姉に連れられて宝塚歌劇を見に行くうち、憧れるようになり、1937年、「宝塚音楽学校予科」に入学する。翌年本科に進み、1939年卒業する。同期生に越路吹雪、月丘夢路、東郷晴子、大路三千緒らがいた。同年の公演『宝塚花物語』で同期生達と共に初舞台を踏む。戦後、再開された公演で娘役トップスター(主に雪組公演出演)として淡島千景と人気を二分し、男役トップスターの上級生、春日野八千代の相手役として戦後の宝塚歌劇第一期黄金時代を支える。
1950年、娘役に限界を感じ始め、松竹入りした淡島千景に倣うように退団。
退団後の活躍
大映
退団後、大映に入社する。大映は、宝塚歌劇団時代から人気のあった「えくぼ」に「百万ドルのえくぼ」というキャッチフレーズをつけて、純情型のスターとして売り出す。デビュー作は同年の新藤兼人脚本、木村恵吾監督の『処女蜂』で、上原謙と共演した。その後、何作かに出演したが、魅力を出し切ったとはいえなかった。しかし、1951年の新藤兼人の第1回監督作品『愛妻物語』で、夫を陰で支える妻を好演し、映画界でもスターの地位を手に入れる。
近代映画協会
1952年、松竹を退社して「近代映画協会」を設立していた新藤兼人の第1回自主制作映画『原爆の子』に大映の反対を押し切って出演する。これを機に大映を退社し、近代映画協会の同人となる。
新藤兼人
以後、近代映画協会が製作する映画に立て続けに出演する中で、それまでの「宝塚歌劇団出身」「お嬢さま女優」「百万ドルのエクボ」「清純派」のイメージから180度転換し強烈なリアリズムあふれた演技を見せ、日本映画史にその名を残すこととなる。それを象徴する作品で、代表作となったのが、1960年の『裸の島』である。せりふが一切なく、登場人物も狭い島で働く夫婦(乙羽と殿山泰司が演じた)だけという実験的な映画であったが、そのリアリティーあふれる画面は大好評となり、第2回モスクワ国際映画祭でグランプリを受賞するなど、世界的に高い評価を受ける。 この作品以来、新藤の作品は、乙羽演じる主人公をどう生かすかを中心に構想されたといっても過言ではない。1978年、新藤と結婚。結婚後、最初の作品となった『絞殺』で、1979年、ベネチア国際映画祭最優秀主演女優賞を受賞する。
私生活
ちなみに、新藤とは夫婦であっても、乙羽は「先生」と呼び、また新藤は「乙羽君」と呼び合っていた。恋仲になった時、新藤には既に妻がおり、忍ぶ間柄であった。しかし結ばれた2人を前妻の子は祝福し迎えている。「いきなり子供達ができました」と、乙羽は喜んでいた。
テレビ
晩年には、新藤の仕事以外にも、テレビ・舞台と幅広く活躍し、貴重な脇役として人気を博した。1983年には驚異的な視聴率を記録した『おしん』に主演している。新たなファンを獲得した。
1987年から1992年にかけて、日本テレビ放送網の火曜サスペンス劇場で、水谷豊主演の浅見光彦ミステリーとその続編である、朝比奈周平ミステリーで、水谷の母親役を演じる。
晩年
杉村春子との共演で話題になった新藤の『午後の遺言状』の撮影を終えた1994年12月22日午前、肝臓癌による肝硬変で死去。享年70。新藤は作品が乙羽の遺作になるという覚悟の上で制作に臨み、メガホンを取ったという。乙羽自身も残された時間を知った上で出演したといわれている。
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あ行
新東宝時代 若手のスターだった 宇津井健
宇津井 健(うつい けん、1931年10月24日 - )は、東京都出身の日本の俳優。所属事務所はサムデイ。
千葉県立千葉高等学校卒業、早稲田大学中退。大学時代は馬術部に所属。在学中に俳優座養成所に入る。この間に『思春の泉』(1953年、中川信夫監督)で華々しく映画初主演を飾る。翌1954年に新東宝に入社し、若手スターとして大活躍、各方面からの注目を集める。『鋼鉄の巨人(スーパー・ジャイアンツ)シリーズ』での主演は今でも語り継がれる。1961年、新東宝倒産。
1961年には大映に移り、映画では脇に回ることが多くなる。主演した大映テレビドラマ『ザ・ガードマン』(1965年)は30%を超える高視聴率で長寿番組となる。
60年代半ばから80年代前半まで大映テレビドラマの大黒柱として活躍。山口百恵と共演した「赤い」シリーズ、1988年10月から1995年3月まで7シリーズにわたって放送された『さすらい刑事旅情編』などで活躍する。また、山口百恵のアルバム『青い果実/禁じられた遊び』の中の曲 『パパは恋人』でデュエットしており、歌声を聴くことができる。
最近ではドラマの中で、子供思いの父親または祖父役を演じることが多い。また『宇津井健氏は神経痛』という回文のネタにもなっている。2005年6月23日の『とんねるずのみなさんのおかげでした』に息子の隆氏が出演している。彼は、フジテレビ事業部主任である。
2006年4月6日から放送開始した『渡る世間は鬼ばかり』の第8シリーズで藤岡琢也に代わり主人公の岡倉大吉を演じる。宇津井自身、連続ドラマで主役を演じるのは1995年3月の『さすらい刑事旅情編』の放送終了後11年ぶりである。
エピソード
新東宝制作の映画『スーパージャイアンツ』シリーズは、美術・音楽・演出ともに当時の子供向け作品の中にあって、良心的なスタッフが実力を大いに発揮した優れた作品である。特に舞台美術は屈指の傑作。但し、近年お笑いタレントなどが、宇津井演じる主人公の股間部が目立つ(いわゆる「モッコリ」)タイツ姿を頻繁に笑いのネタにしたため、傑作でありながら宇津井本人がこの話を嫌い制作当時のインタビューに応じない。しかしこの二人を特に嫌ってはおらず、ラジオにもゲスト出演、番組にも出演している。(おそらく本人は、この二人が自身のことを頻繁にネタにしていることを知らない。)
2006年4月12日、長年連れ添った友里恵夫人(旧名・千恵子)が膵臓癌のため亡くなった。死去した当日も、宇津井は普段通りの態度でラジオやドラマ『渡る世間は鬼ばかり』の仕事をこなした。この時、石井ふく子プロデューサーは「奥さんの死を口止めされていた。セリフもつかえることなく、変わらず仕事をする宇津井さんには本当にプロフェッショナルを感じた。頭が下がる思い。」と語っている。
自宅にはトレーニングルームがあり、テレビ通販で購入したマシンが沢山置いてある。小柳ゆきのCDをかけて体を鍛えるのが毎日の日課とか。
藤原紀香と所属事務所が同じである。その縁もあり紀香と陣内智則の結婚披露宴では乾杯の音頭を取った。なお契約時期が紀香より若干遅く、事務所内では紀香が「先輩」であると、披露宴の際に打ち明けた。
略歴
1950年(昭和25年)早稲田大学第一文学部芸術科演劇入学
1952年(昭和27年)俳優座養成所第4期生入学
1953年(昭和28年)俳優座製作映画「思春の泉」主演抜擢
1954年(昭和29年)新東宝(株)と契約。この期間出演77本
1961年(昭和36年)大映映画(株)と契約。出演41本
1971年(昭和46年)大映倒産後、大映テレビ(株)に自動契約
1995年(平成7年)(株)サムデイと専属契約。現在に至る
出演作品
映画
『思春の泉』(1953年、映画デビュー作)
『暴力の王者』(1956年、新東宝)
『明治天皇と日露大戦争』(1957年、新東宝)
スーパージャイアンツシリーズ
『鋼鉄の巨人』『続鋼鉄の巨人』(1957年)
『怪星人の魔城』『地球滅亡寸前』(1957年)
『人工衛星と人類の破滅』(1957年)『宇宙艇と人工衛星の激突』(1958年)
『宇宙怪人出現』(1958年)
続スーパージャイアンツシリーズ
『悪魔の化身』(1959年)
『毒蛾王国』(1959年)
『女王蜂の怒り』(1958年)
人間の壁(1959年)
『猛吹雪の死闘』(1959年、新東宝)
『戦場のなでしこ』(1959年、新東宝)
『雷電』(1959年)
『皇室と戦争とわが民族』(1960年、新東宝)
『松川事件』(1961年)
『秦・始皇帝』(1962年 大映)
『黒の報告書』(1963年)
『黒の死球』(1963年)
『黒の商標』(1963年)
『巨人 大隈重信』(1963年)
『昨日消えた男』(1964年)
『黒の切り札』(1964年)
『新幹線大爆破』(1975年)
『催眠』(1999年)
『シベリア超特急3』(2002年)
『死に花』(2004年、以前の岡倉大吉役だった藤岡琢也と共演)
『鳶がクルリと』(2005年)
『大停電の夜に』(2005年)
テレビドラマ
NHK系
大河ドラマ
『いのち』
『武田信玄』
『信長』
『葵徳川三代』
『武蔵 MUSASHI』
『ぴあの』(連続テレビ小説)
『新・腕におぼえあり』(金曜時代劇)
『ブルーもしくはブルー もう一人の私』
『男が家を出るとき』(銀河テレビ小説)
『黄昏の赫いきらめき』
『上杉鷹山』
『流通戦争』
日本テレビ系
『源さん』(1983年)
『たんぽぽ』
『ぼくの娘を盗むのですか』
『明日があるさスペシャル』
『ごくせん』シリーズ(2002、2005)
『おとなの夏休み』(2005年)
TBS系
『ザ・ガードマン』
『シークレット部隊』
『赤いシリーズ』(『赤い絆』・『赤い魂』除く。)
『心』
『年ごろ家族』
『野々村病院物語』
『薔薇海峡』
『少女に何が起ったか』
『三十ふり袖』
『初蕾』
『プリティガール』
『デパート!夏物語』(中条静夫の代役。)
『渡る世間は鬼ばかり』(藤岡琢也の代役→藤岡琢也の死去で事実上後任になる。現在、放映中)
『山田太郎ものがたり』(現在、放映中)
フジテレビ系
『検事』
『秋刀魚の味』
『お義母さんといっしょ』
『海のオルゴール』
『Fujiko Hemmingの軌跡』
『ムコ殿』
『東京物語』
『BRAND』
『LONG LOVE -遠嫁日本-』(BSフジ)
『危険なアネキ』
『鬼平犯科帳スペシャル 一本眉』
テレビ朝日系
『にんじんの詩』(NET)
『さすらい刑事旅情編』シリーズ
『車椅子の弁護士・水島威』シリーズ
『伊集院さゆりの事件簿』
『忍者がえし水の城』
『快刀!夢一座七変化』
『藤沢周平用心棒日月抄』
『オヤジ探偵2』
『京都地検の女3』(第1話糀谷辰夫役)2006年
舞台
『結婚する手続き』
『60歳のラブレター』
『初蕾』
バラエティー番組
さんまのまんま(関西テレビ)
ライオンのごきげんよう(フジテレビ)
ダウンタウンDX(読売テレビ)
ジャングルTV〜タモリの法則〜・ジャングルハンマーのコーナー(毎日放送)
CM
サントリーレッド(サントリー)
大正漢方胃腸薬(大正製薬)
KDDI(au)=桂歌丸と共演「簡単ケータイS編」
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千葉県立千葉高等学校卒業、早稲田大学中退。大学時代は馬術部に所属。在学中に俳優座養成所に入る。この間に『思春の泉』(1953年、中川信夫監督)で華々しく映画初主演を飾る。翌1954年に新東宝に入社し、若手スターとして大活躍、各方面からの注目を集める。『鋼鉄の巨人(スーパー・ジャイアンツ)シリーズ』での主演は今でも語り継がれる。1961年、新東宝倒産。
1961年には大映に移り、映画では脇に回ることが多くなる。主演した大映テレビドラマ『ザ・ガードマン』(1965年)は30%を超える高視聴率で長寿番組となる。
60年代半ばから80年代前半まで大映テレビドラマの大黒柱として活躍。山口百恵と共演した「赤い」シリーズ、1988年10月から1995年3月まで7シリーズにわたって放送された『さすらい刑事旅情編』などで活躍する。また、山口百恵のアルバム『青い果実/禁じられた遊び』の中の曲 『パパは恋人』でデュエットしており、歌声を聴くことができる。
最近ではドラマの中で、子供思いの父親または祖父役を演じることが多い。また『宇津井健氏は神経痛』という回文のネタにもなっている。2005年6月23日の『とんねるずのみなさんのおかげでした』に息子の隆氏が出演している。彼は、フジテレビ事業部主任である。
2006年4月6日から放送開始した『渡る世間は鬼ばかり』の第8シリーズで藤岡琢也に代わり主人公の岡倉大吉を演じる。宇津井自身、連続ドラマで主役を演じるのは1995年3月の『さすらい刑事旅情編』の放送終了後11年ぶりである。
エピソード
新東宝制作の映画『スーパージャイアンツ』シリーズは、美術・音楽・演出ともに当時の子供向け作品の中にあって、良心的なスタッフが実力を大いに発揮した優れた作品である。特に舞台美術は屈指の傑作。但し、近年お笑いタレントなどが、宇津井演じる主人公の股間部が目立つ(いわゆる「モッコリ」)タイツ姿を頻繁に笑いのネタにしたため、傑作でありながら宇津井本人がこの話を嫌い制作当時のインタビューに応じない。しかしこの二人を特に嫌ってはおらず、ラジオにもゲスト出演、番組にも出演している。(おそらく本人は、この二人が自身のことを頻繁にネタにしていることを知らない。)
2006年4月12日、長年連れ添った友里恵夫人(旧名・千恵子)が膵臓癌のため亡くなった。死去した当日も、宇津井は普段通りの態度でラジオやドラマ『渡る世間は鬼ばかり』の仕事をこなした。この時、石井ふく子プロデューサーは「奥さんの死を口止めされていた。セリフもつかえることなく、変わらず仕事をする宇津井さんには本当にプロフェッショナルを感じた。頭が下がる思い。」と語っている。
自宅にはトレーニングルームがあり、テレビ通販で購入したマシンが沢山置いてある。小柳ゆきのCDをかけて体を鍛えるのが毎日の日課とか。
藤原紀香と所属事務所が同じである。その縁もあり紀香と陣内智則の結婚披露宴では乾杯の音頭を取った。なお契約時期が紀香より若干遅く、事務所内では紀香が「先輩」であると、披露宴の際に打ち明けた。
略歴
1950年(昭和25年)早稲田大学第一文学部芸術科演劇入学
1952年(昭和27年)俳優座養成所第4期生入学
1953年(昭和28年)俳優座製作映画「思春の泉」主演抜擢
1954年(昭和29年)新東宝(株)と契約。この期間出演77本
1961年(昭和36年)大映映画(株)と契約。出演41本
1971年(昭和46年)大映倒産後、大映テレビ(株)に自動契約
1995年(平成7年)(株)サムデイと専属契約。現在に至る
出演作品
映画
『思春の泉』(1953年、映画デビュー作)
『暴力の王者』(1956年、新東宝)
『明治天皇と日露大戦争』(1957年、新東宝)
スーパージャイアンツシリーズ
『鋼鉄の巨人』『続鋼鉄の巨人』(1957年)
『怪星人の魔城』『地球滅亡寸前』(1957年)
『人工衛星と人類の破滅』(1957年)『宇宙艇と人工衛星の激突』(1958年)
『宇宙怪人出現』(1958年)
続スーパージャイアンツシリーズ
『悪魔の化身』(1959年)
『毒蛾王国』(1959年)
『女王蜂の怒り』(1958年)
人間の壁(1959年)
『猛吹雪の死闘』(1959年、新東宝)
『戦場のなでしこ』(1959年、新東宝)
『雷電』(1959年)
『皇室と戦争とわが民族』(1960年、新東宝)
『松川事件』(1961年)
『秦・始皇帝』(1962年 大映)
『黒の報告書』(1963年)
『黒の死球』(1963年)
『黒の商標』(1963年)
『巨人 大隈重信』(1963年)
『昨日消えた男』(1964年)
『黒の切り札』(1964年)
『新幹線大爆破』(1975年)
『催眠』(1999年)
『シベリア超特急3』(2002年)
『死に花』(2004年、以前の岡倉大吉役だった藤岡琢也と共演)
『鳶がクルリと』(2005年)
『大停電の夜に』(2005年)
テレビドラマ
NHK系
大河ドラマ
『いのち』
『武田信玄』
『信長』
『葵徳川三代』
『武蔵 MUSASHI』
『ぴあの』(連続テレビ小説)
『新・腕におぼえあり』(金曜時代劇)
『ブルーもしくはブルー もう一人の私』
『男が家を出るとき』(銀河テレビ小説)
『黄昏の赫いきらめき』
『上杉鷹山』
『流通戦争』
日本テレビ系
『源さん』(1983年)
『たんぽぽ』
『ぼくの娘を盗むのですか』
『明日があるさスペシャル』
『ごくせん』シリーズ(2002、2005)
『おとなの夏休み』(2005年)
TBS系
『ザ・ガードマン』
『シークレット部隊』
『赤いシリーズ』(『赤い絆』・『赤い魂』除く。)
『心』
『年ごろ家族』
『野々村病院物語』
『薔薇海峡』
『少女に何が起ったか』
『三十ふり袖』
『初蕾』
『プリティガール』
『デパート!夏物語』(中条静夫の代役。)
『渡る世間は鬼ばかり』(藤岡琢也の代役→藤岡琢也の死去で事実上後任になる。現在、放映中)
『山田太郎ものがたり』(現在、放映中)
フジテレビ系
『検事』
『秋刀魚の味』
『お義母さんといっしょ』
『海のオルゴール』
『Fujiko Hemmingの軌跡』
『ムコ殿』
『東京物語』
『BRAND』
『LONG LOVE -遠嫁日本-』(BSフジ)
『危険なアネキ』
『鬼平犯科帳スペシャル 一本眉』
テレビ朝日系
『にんじんの詩』(NET)
『さすらい刑事旅情編』シリーズ
『車椅子の弁護士・水島威』シリーズ
『伊集院さゆりの事件簿』
『忍者がえし水の城』
『快刀!夢一座七変化』
『藤沢周平用心棒日月抄』
『オヤジ探偵2』
『京都地検の女3』(第1話糀谷辰夫役)2006年
舞台
『結婚する手続き』
『60歳のラブレター』
『初蕾』
バラエティー番組
さんまのまんま(関西テレビ)
ライオンのごきげんよう(フジテレビ)
ダウンタウンDX(読売テレビ)
ジャングルTV〜タモリの法則〜・ジャングルハンマーのコーナー(毎日放送)
CM
サントリーレッド(サントリー)
大正漢方胃腸薬(大正製薬)
KDDI(au)=桂歌丸と共演「簡単ケータイS編」
以上、フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より転載。
あ行
映画界の二枚目俳優として君臨したスター 池部良
池部良(いけべりょう、公称1918年2月11日−)は俳優、随筆家。芸術家の岡本太郎は従兄弟にあたる。
風刺・風俗漫画家として一世を風靡した池部均の息子として、東京市大森区に生まれ、立教大学英文科に入るも、映画監督になるのを夢見て、在学中の1940年に東宝撮影所のシナリオ研究所に研究生として入る。1941年、大学卒業と同時にシナリオ研究所を卒業し、東宝に入社する。監督希望だったが、助監督の空きがなかったところ、島津保次郎監督に請われて、『闘魚』に脇役で出演する。それが好評となり、知的でスマートな若手俳優のホープとして目されたが、1942年の『緑の大地』のクランク・アップの翌日に召集され、中国三東省に派遣される。大学卒ということで士官試験を薦められるが任期が長くなる(兵隊のままだと任期は2年)ため断る。しかし上官に無理やり受けさせられ白紙で答案を提出したにも関わらず合格。すぐに下士官待遇となり、1944年に南方戦線に移動される。途中、輸送船が撃沈され、命からがらハルマヘラ島に上陸し九死に一生を得る。その後は衛生中隊を任され終戦まで戦い、終戦時の階級は中尉だった。
1946年6月まで抑留され、南方から苦労して日本に帰る。俳優を続けるかどうか決めかねていたが、東宝に熱心に請われ俳優に戻る。長身(174cm)と美貌を生かして、次々と主演作をヒットさせる。特に1949年の石坂洋次郎原作の『青い山脈』は、戦後の自由な雰囲気を象徴する映画として大ヒットし、彼のさわやかな演技もそれにふさわしいものだった。その後も、青春スターの第一人者として活躍を続けた。その後は1950年に新東宝の『暁の脱走』、1952年に松竹の『現代人』と他社の作品にも出演。特に『現代人』では池部がそれまでの二枚目スターから演技派俳優として最初に認められるようになった作品であった。
『坊っちゃん』(1953年、岡田茉莉子共演、丸山誠治監督)、『雪国』(1957年、岸惠子共演、豊田四郎監督、『暗夜行路』(1959年、山本富士子共演、豊田四郎監督)などの多くの文芸作品で翳のある青年を好演し、文芸路線や都会派映画に欠かせない二枚目スターとして君臨した。
1955年9月、池部プロダクションを設立。自ら映画を企画し、ストーリーを書くようになる。
1960年代に入ると、徐々に脇役に転じたが、1964年に主演した松竹『乾いた花』でのヤクザ役が評判となる。
1965年、映画俳優(石原裕次郎、里見浩太郎、山城新伍ら)が暴力団のために拳銃を密輸していた事が明るみに出た。警察庁は芸能興行関係者に暴力団との腐れ縁を絶てと強い調子で警告。同年2月22日、映画俳優協会代表理事である池部は映画俳優と暴力団との完全絶縁を表明した。
同年、『乾いた花』を観た東映よりヤクザ映画の出演を頼まれるが、映画俳優協会代表理事であることからそれを断る。しかし再三の丁重な申し出に「ポスターに名前や写真を出すときは小さくすること、刺青は入れないこと、毎回死ぬこと」を条件に引き受ける。準主演した『昭和残侠伝シリーズ』(高倉健主演、佐伯清監督他、1965〜1972)は大ヒットし、味のある演技で新境地を開いた。
1990年代に入ると、俳優活動を控えるようになり、文筆業が中心となる。1991年、『そよ風ときにはつむじ風』で「日本文芸大賞」を受賞する。
2007年、『映画俳優 池部良』が出版される。2007年2月、東京池袋の新文芸座のトークショーにて、その本の編集者から「青い山脈の時に31歳でしたが…」と池部が質問され、実は1916年生まれで当時33歳なのに『青い山脈』の18歳の高校生の役を渋々受けたことや原節子先輩からガリガリに痩せていたため「豆モヤシ」という迷惑なあだ名をつけられたり、原節子の尻をデカイと本人の目の前で口を滑らせたために 張り手を食らいそうになったりといったエピソードを話している。
出演作品
映画
闘魚(1941年)
四つの恋の物語(1947年)
青い山脈(1949年)
暁の脱走(1950年)
石中先生行状記(1950年)
現代人(1952年)
丘は花ざかり(1952年)
さらばラバウル(1954年)
大番頭小番頭(1955年)
早春(1956年)
乱菊物語(1956年)
脱獄囚(1957年)
雪国(1957年)
重役の椅子(1958年)
美しき哀愁 アンコールワット物語(1958年) - カンボジアロケ作品
東京の休日(1958年)
潜水艦イ-57降伏せず(1959年)
暗夜行路(1959年)
宇宙大戦争(1959年)
ハワイ・ミッドウェイ大海空戦 太平洋の嵐(1960年)
トイレット部長(1961年)
妖星ゴラス(1962年)
太平洋の翼(1963年)
青島要塞爆撃命令(1963年)
乾いた花(1964年)
昭和残侠伝シリーズ
昭和残侠伝(1965年)
昭和残侠伝 唐獅子牡丹(1966年)
昭和残侠伝 一匹狼(1966年)
昭和残侠伝 血染めの唐獅子(1967年)
昭和残侠伝 唐獅子仁義(1969年)
昭和残侠伝 人斬り唐獅子(1969年)
昭和残侠伝 死んで貰います(1970年)
昭和残侠伝 吼えろ唐獅子(1971年)
昭和残侠伝 破れ傘(1972年)
けものみち(1965年)
男度胸で勝負する(1966年)
人間魚雷 あゝ回天特別攻撃隊(1968年)
日陰者(1972年)
あゝ決戦航空隊(1974年)
直撃!地獄拳(1974年)
直撃地獄拳 大逆転(1974年)
君よ憤怒の河を渉れ(1976年)
惑星大戦争(1977年)
多羅尾伴内(1978年)
冬の華(1978年)
海潮音(1980年)
駅 STATION(1981年)
居酒屋兆治(1983年)
小説吉田学校(1983年)
海へ See You(1988年)
青い山脈 (映画)'88(1988年)
テレビ
風(1967年-1968年 TBS・松竹)水野忠邦役
華麗なる一族(1974年 - 1975年) 三雲祥一役
江戸の旋風(1975年、CX系)
娘の結婚(1976年)
男たちの旅路(1976年 - 1982年)
横溝正史シリーズ・仮面劇場(1978年)
骨肉の森(1981年)
京都マル秘指令 ザ新選組(1984年)
山河燃ゆ(1984年)
私鉄沿線97分署(1984年 - 1986年)
花嫁人形は眠らない(1986年)
独眼竜政宗(1987年) 千利休役
アイラブユーから始めよう(1989年)
火曜サスペンス劇場「薔薇色の罠」(1989年9月)
春を待つ家(1990年)
碧空のタンゴ(2001年)
夏の日の恋(2002年)
朝まで生テレビ(2005年)
以上、フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より転載。
風刺・風俗漫画家として一世を風靡した池部均の息子として、東京市大森区に生まれ、立教大学英文科に入るも、映画監督になるのを夢見て、在学中の1940年に東宝撮影所のシナリオ研究所に研究生として入る。1941年、大学卒業と同時にシナリオ研究所を卒業し、東宝に入社する。監督希望だったが、助監督の空きがなかったところ、島津保次郎監督に請われて、『闘魚』に脇役で出演する。それが好評となり、知的でスマートな若手俳優のホープとして目されたが、1942年の『緑の大地』のクランク・アップの翌日に召集され、中国三東省に派遣される。大学卒ということで士官試験を薦められるが任期が長くなる(兵隊のままだと任期は2年)ため断る。しかし上官に無理やり受けさせられ白紙で答案を提出したにも関わらず合格。すぐに下士官待遇となり、1944年に南方戦線に移動される。途中、輸送船が撃沈され、命からがらハルマヘラ島に上陸し九死に一生を得る。その後は衛生中隊を任され終戦まで戦い、終戦時の階級は中尉だった。
1946年6月まで抑留され、南方から苦労して日本に帰る。俳優を続けるかどうか決めかねていたが、東宝に熱心に請われ俳優に戻る。長身(174cm)と美貌を生かして、次々と主演作をヒットさせる。特に1949年の石坂洋次郎原作の『青い山脈』は、戦後の自由な雰囲気を象徴する映画として大ヒットし、彼のさわやかな演技もそれにふさわしいものだった。その後も、青春スターの第一人者として活躍を続けた。その後は1950年に新東宝の『暁の脱走』、1952年に松竹の『現代人』と他社の作品にも出演。特に『現代人』では池部がそれまでの二枚目スターから演技派俳優として最初に認められるようになった作品であった。
『坊っちゃん』(1953年、岡田茉莉子共演、丸山誠治監督)、『雪国』(1957年、岸惠子共演、豊田四郎監督、『暗夜行路』(1959年、山本富士子共演、豊田四郎監督)などの多くの文芸作品で翳のある青年を好演し、文芸路線や都会派映画に欠かせない二枚目スターとして君臨した。
1955年9月、池部プロダクションを設立。自ら映画を企画し、ストーリーを書くようになる。
1960年代に入ると、徐々に脇役に転じたが、1964年に主演した松竹『乾いた花』でのヤクザ役が評判となる。
1965年、映画俳優(石原裕次郎、里見浩太郎、山城新伍ら)が暴力団のために拳銃を密輸していた事が明るみに出た。警察庁は芸能興行関係者に暴力団との腐れ縁を絶てと強い調子で警告。同年2月22日、映画俳優協会代表理事である池部は映画俳優と暴力団との完全絶縁を表明した。
同年、『乾いた花』を観た東映よりヤクザ映画の出演を頼まれるが、映画俳優協会代表理事であることからそれを断る。しかし再三の丁重な申し出に「ポスターに名前や写真を出すときは小さくすること、刺青は入れないこと、毎回死ぬこと」を条件に引き受ける。準主演した『昭和残侠伝シリーズ』(高倉健主演、佐伯清監督他、1965〜1972)は大ヒットし、味のある演技で新境地を開いた。
1990年代に入ると、俳優活動を控えるようになり、文筆業が中心となる。1991年、『そよ風ときにはつむじ風』で「日本文芸大賞」を受賞する。
2007年、『映画俳優 池部良』が出版される。2007年2月、東京池袋の新文芸座のトークショーにて、その本の編集者から「青い山脈の時に31歳でしたが…」と池部が質問され、実は1916年生まれで当時33歳なのに『青い山脈』の18歳の高校生の役を渋々受けたことや原節子先輩からガリガリに痩せていたため「豆モヤシ」という迷惑なあだ名をつけられたり、原節子の尻をデカイと本人の目の前で口を滑らせたために 張り手を食らいそうになったりといったエピソードを話している。
出演作品
映画
闘魚(1941年)
四つの恋の物語(1947年)
青い山脈(1949年)
暁の脱走(1950年)
石中先生行状記(1950年)
現代人(1952年)
丘は花ざかり(1952年)
さらばラバウル(1954年)
大番頭小番頭(1955年)
早春(1956年)
乱菊物語(1956年)
脱獄囚(1957年)
雪国(1957年)
重役の椅子(1958年)
美しき哀愁 アンコールワット物語(1958年) - カンボジアロケ作品
東京の休日(1958年)
潜水艦イ-57降伏せず(1959年)
暗夜行路(1959年)
宇宙大戦争(1959年)
ハワイ・ミッドウェイ大海空戦 太平洋の嵐(1960年)
トイレット部長(1961年)
妖星ゴラス(1962年)
太平洋の翼(1963年)
青島要塞爆撃命令(1963年)
乾いた花(1964年)
昭和残侠伝シリーズ
昭和残侠伝(1965年)
昭和残侠伝 唐獅子牡丹(1966年)
昭和残侠伝 一匹狼(1966年)
昭和残侠伝 血染めの唐獅子(1967年)
昭和残侠伝 唐獅子仁義(1969年)
昭和残侠伝 人斬り唐獅子(1969年)
昭和残侠伝 死んで貰います(1970年)
昭和残侠伝 吼えろ唐獅子(1971年)
昭和残侠伝 破れ傘(1972年)
けものみち(1965年)
男度胸で勝負する(1966年)
人間魚雷 あゝ回天特別攻撃隊(1968年)
日陰者(1972年)
あゝ決戦航空隊(1974年)
直撃!地獄拳(1974年)
直撃地獄拳 大逆転(1974年)
君よ憤怒の河を渉れ(1976年)
惑星大戦争(1977年)
多羅尾伴内(1978年)
冬の華(1978年)
海潮音(1980年)
駅 STATION(1981年)
居酒屋兆治(1983年)
小説吉田学校(1983年)
海へ See You(1988年)
青い山脈 (映画)'88(1988年)
テレビ
風(1967年-1968年 TBS・松竹)水野忠邦役
華麗なる一族(1974年 - 1975年) 三雲祥一役
江戸の旋風(1975年、CX系)
娘の結婚(1976年)
男たちの旅路(1976年 - 1982年)
横溝正史シリーズ・仮面劇場(1978年)
骨肉の森(1981年)
京都マル秘指令 ザ新選組(1984年)
山河燃ゆ(1984年)
私鉄沿線97分署(1984年 - 1986年)
花嫁人形は眠らない(1986年)
独眼竜政宗(1987年) 千利休役
アイラブユーから始めよう(1989年)
火曜サスペンス劇場「薔薇色の罠」(1989年9月)
春を待つ家(1990年)
碧空のタンゴ(2001年)
夏の日の恋(2002年)
朝まで生テレビ(2005年)
以上、フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より転載。
あ行
東映時代劇の黄金期を支えた一人 東千代之介
東 千代之介(あずま ちよのすけ、1926年8月19日 - 2000年11月9日)は、日本の俳優・日本舞踊若菜流の家元。本名、若和田 孝之(わかわだ たかゆき)。
東京都出身。
略歴
長唄六代家元杵屋弥三郎の子。七代坂東三津五郎に師事して日本舞踊を学ぶ。暁星学園を経て東京藝術大学卒業。昭和29年(1954年)に東映に入社し、『雪之丞変化』でデビュー。端正な容貌と日本舞踊で鍛えたしなやかな身のこなしで人気を集め、中村錦之助、大川橋蔵らと共に東映時代劇の黄金期を支えたが、時代劇衰退に伴い東映が任侠路線に移行すると1965年に退社した。
その後は日本舞踊の家元としての活動が中心となり、多くの弟子を育てた。1966年、元宝塚女優千之赫子(ちの・かくこ)と結婚。1男1女を儲けたが、1985年に赫子と死別。1987年再婚。1991年次男誕生。
テレビ番組では『クイズ面白ゼミナール』に「東千代之介チーム」リーダーとして準レギュラー出演。『バトルフィーバーJ』、『機動刑事ジバン』、『京、ふたり』では演技も披露し、往年のファンを喜ばせた。
2000年11月9日左心不全、慢性腎不全のため死去。享年74。
評価
歌舞伎の世界を捨てて映画俳優に転じた中村錦之助や大川橋蔵が、(俳優として売れなくなっても歌舞伎の世界へ)後戻りする事ができない為にハングリーであったのとは対照的に、千代之介は俳優が駄目でもいつでも日本舞踊に戻れるということで「欲がなかった」といわれている。昭和30年代後半になると主演から外れることも多くなり、後輩の里見浩太郎にさえ追い抜かれたと思われた。それでも東映は、オールスター映画では千代之介を錦之助や橋蔵と同格のキャスティングにする配慮を見せた。このころ共演することが多かった大川恵子とはロマンスの噂が立てられたが、彼女は雑誌のインタビューで「(千代之介は)男として食い足りない」と酷評している。
このようにスターとしての俳優間の競争では覇気に欠けたが、その反面、芸能界では良く見られる金銭や男女関係といった欲がらみのスキャンダルやトラブルについてはまるで無縁で、常に無欲で腰が低く、子供たちやファンへの対応も親切丁寧で、清廉潔白なイメージを生涯保ち続けた。スター役者にとっては華やかで艶福な私生活も芸風を磨く内であるという風潮も根強く、また芸能人のその様な行動への許容度が現在よりもかなり高かった当時の芸能界の体質を鑑みた場合、このクリーンさは特筆に値すべき事であり、この点ではまったくもって希有なスターと言える。
そのクリーンなイメージと、元々端正な顔だちと優美な挙措により娯楽作品でこそより映えるその姿から、東映としても安心して出演させられる俳優という印象があったからか、後年に至って大御所的な存在になっても東映の子供向け特撮ドラマに出演する事となり、主人公の若者たちを厳しくも優しく見守る重鎮的な役柄として、この様な作品であってもその存在感を発揮し続けた事は流石というべきものである。特に『バトルフィーバーJ』で演じた倉間鉄山将軍については、『スーパー戦隊シリーズ』黎明期の作品であるにもかかわらず、「演技力や表現力、存在感において、いまだシリーズ歴代作品の中でも最高の司令官」と評する者が、年季の入ったシリーズのファンの間では少なくない。
出演
映画
雪之丞変化(1954年)
新諸国物語・笛吹童子(1954年)
新諸国物語・紅孔雀(1954年)
蛇姫様(1954年)
赤穂浪士(1956年)
新諸国物語・七つの誓い(1957年)
水戸黄門(1957年)
暴れん坊兄弟(1960年)
金田一耕助の冒険(1979年)
テレビドラマ
バトルフィーバーJ(1979年 - 1980年、テレビ朝日)
機動刑事ジバン(1989年 - 1990年、テレビ朝日)
京、ふたり(1990年 - 1991年、NHK朝の連続テレビ小説)
クイズ・バラエティ
クイズ面白ゼミナール(1981年 - 1988年、NHK)
受賞歴
1996年(平成8年) - 第6回日本映画批評家大賞 ゴールデン・グローリー賞
参考図書
『東千代之介―東映チャンバラ黄金時代』「東千代之介を愛する会」編、ワイズ出版、1998年刊、ISBN 4948735817
存命中にインタビュー・刊行された。
以上、フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より転載。
東京都出身。
略歴
長唄六代家元杵屋弥三郎の子。七代坂東三津五郎に師事して日本舞踊を学ぶ。暁星学園を経て東京藝術大学卒業。昭和29年(1954年)に東映に入社し、『雪之丞変化』でデビュー。端正な容貌と日本舞踊で鍛えたしなやかな身のこなしで人気を集め、中村錦之助、大川橋蔵らと共に東映時代劇の黄金期を支えたが、時代劇衰退に伴い東映が任侠路線に移行すると1965年に退社した。
その後は日本舞踊の家元としての活動が中心となり、多くの弟子を育てた。1966年、元宝塚女優千之赫子(ちの・かくこ)と結婚。1男1女を儲けたが、1985年に赫子と死別。1987年再婚。1991年次男誕生。
テレビ番組では『クイズ面白ゼミナール』に「東千代之介チーム」リーダーとして準レギュラー出演。『バトルフィーバーJ』、『機動刑事ジバン』、『京、ふたり』では演技も披露し、往年のファンを喜ばせた。
2000年11月9日左心不全、慢性腎不全のため死去。享年74。
評価
歌舞伎の世界を捨てて映画俳優に転じた中村錦之助や大川橋蔵が、(俳優として売れなくなっても歌舞伎の世界へ)後戻りする事ができない為にハングリーであったのとは対照的に、千代之介は俳優が駄目でもいつでも日本舞踊に戻れるということで「欲がなかった」といわれている。昭和30年代後半になると主演から外れることも多くなり、後輩の里見浩太郎にさえ追い抜かれたと思われた。それでも東映は、オールスター映画では千代之介を錦之助や橋蔵と同格のキャスティングにする配慮を見せた。このころ共演することが多かった大川恵子とはロマンスの噂が立てられたが、彼女は雑誌のインタビューで「(千代之介は)男として食い足りない」と酷評している。
このようにスターとしての俳優間の競争では覇気に欠けたが、その反面、芸能界では良く見られる金銭や男女関係といった欲がらみのスキャンダルやトラブルについてはまるで無縁で、常に無欲で腰が低く、子供たちやファンへの対応も親切丁寧で、清廉潔白なイメージを生涯保ち続けた。スター役者にとっては華やかで艶福な私生活も芸風を磨く内であるという風潮も根強く、また芸能人のその様な行動への許容度が現在よりもかなり高かった当時の芸能界の体質を鑑みた場合、このクリーンさは特筆に値すべき事であり、この点ではまったくもって希有なスターと言える。
そのクリーンなイメージと、元々端正な顔だちと優美な挙措により娯楽作品でこそより映えるその姿から、東映としても安心して出演させられる俳優という印象があったからか、後年に至って大御所的な存在になっても東映の子供向け特撮ドラマに出演する事となり、主人公の若者たちを厳しくも優しく見守る重鎮的な役柄として、この様な作品であってもその存在感を発揮し続けた事は流石というべきものである。特に『バトルフィーバーJ』で演じた倉間鉄山将軍については、『スーパー戦隊シリーズ』黎明期の作品であるにもかかわらず、「演技力や表現力、存在感において、いまだシリーズ歴代作品の中でも最高の司令官」と評する者が、年季の入ったシリーズのファンの間では少なくない。
出演
映画
雪之丞変化(1954年)
新諸国物語・笛吹童子(1954年)
新諸国物語・紅孔雀(1954年)
蛇姫様(1954年)
赤穂浪士(1956年)
新諸国物語・七つの誓い(1957年)
水戸黄門(1957年)
暴れん坊兄弟(1960年)
金田一耕助の冒険(1979年)
テレビドラマ
バトルフィーバーJ(1979年 - 1980年、テレビ朝日)
機動刑事ジバン(1989年 - 1990年、テレビ朝日)
京、ふたり(1990年 - 1991年、NHK朝の連続テレビ小説)
クイズ・バラエティ
クイズ面白ゼミナール(1981年 - 1988年、NHK)
受賞歴
1996年(平成8年) - 第6回日本映画批評家大賞 ゴールデン・グローリー賞
参考図書
『東千代之介―東映チャンバラ黄金時代』「東千代之介を愛する会」編、ワイズ出版、1998年刊、ISBN 4948735817
存命中にインタビュー・刊行された。
以上、フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より転載。
あ行
豪放磊落な役柄に反し 生真面目な人柄だった大友柳太郎
大友 柳太朗(おおとも りゅうたろう、1912年6月5日 - 1985年9月27日)は、日本の俳優。山口県出身。
本名、中富正三。山口県柱島(現岩国市)に生まれる。松山中学(現・愛媛県立松山東高等学校)卒業後、新国劇に入り、辰巳柳太郎に師事する。
1936年、新興キネマ京都撮影所に入って芸名を「大友柳太郎」とし、山本周五郎原作の『青空浪士』で映画デビュー。大ヒットした『佐賀怪猫伝』に主演し、スターの仲間入りを果たす。大映合併後の、オールスターが共演した『維新の曲』の演技は特に好評だった。
戦後、復員し、芸名も「柳太朗」と改め、佐伯清監督の『加賀騒動』で山田五十鈴と共演し、映画界に復帰。改名の背景は戦後、なかなか主役の座に返り咲けず低迷したので、これでは師匠の名を名乗るのはおこがましいと考えたからだという。1953年、東映に入社し、『怪傑黒頭巾』に主演。評判になり、黒頭巾役者として子供の人気の的になった。特に殺陣の鮮やかさは誰もが認めるところだった。片岡千恵蔵、市川右太衛門の両御大、中村錦之助、東千代之介、大川橋蔵の三羽烏よりも稼ぎ頭だったという風説がある。
時代劇では豪放磊落な役柄が多かったが、俳優としての実像は生真面目で神経質ともいえた。師匠辰巳の前では終生、膝を崩す事がなかったといわれる。滑舌が悪い事を常に気に病んでいたともいわれる。
晩年はテレビドラマにも数多く出演し、現代劇でも親しまれたが、1980年代に入り台詞覚えが悪くなった事から、老人性痴呆症にかかったと悲観しはじめ、不眠症にも悩まされるようになる。1985年9月27日、東京都港区の自宅マンション屋上から飛び降り自殺した。この日の午前8時30分、大友は管理人に鍵を貰って地下の個別の倉庫へ入ったが、様子がおかしいと妻が管理人を呼びに来て、2人がかりで大友を部屋へ連れ戻したが、妻と管理人が大友を病院へ連れて行くかどうか相談している隙をついて部屋を抜けだし、屋上から飛び降りたのだった。自殺の背景には杉良太郎が台詞覚えの悪さを厳しく咎めたという説と、伊丹十三監督から苛められたという説があるが、真偽は定かではない。
部屋には妻と、10月から放送の新番組でレギュラー出演していたテレビドラマ『ハーフポテトな俺たち』(日本テレビ)のプロデューサーに宛てた遺書が残されていた。享年74。この『ハーフポテトな俺たち』と映画『タンポポ』(伊丹十三監督)の2本が遺作となった。死の前日伊丹に電話をかけ、自分の出番が全て撮影済みであることを確認している。
師の辰巳は後年、『徹子の部屋』に出演した際、大友の自殺について、「皆に迷惑をかけるからと言って死んだらしい。だが、柳太朗の妻を始め誰も迷惑だと思っていないと。自分を始め関係者は柳太朗は何を勘違いしたのだろうと全員?????だった」というニュアンスで語っている。
主な出演作品
映画
青空浪士(1937年、新興キネマ) - 津村三九馬
佐賀怪猫伝(1937年、新興キネマ) - 小森半左衛門
静御前(1938年、新興キネマ) - 源義経
叫ぶ野武士(1938年、新興キネマ) - 翼の八郎
富士川の血煙(1939年、新興キネマ) - 小政
女人峠(1940年、新興キネマ) - 遠藤類蔵
罪なき町(1941年、新興キネマ) - 加賀宰相綱紀
維新の曲(1942年、大映) - 佐々木唯三郎
素浪人罷通る(1947年、大映) - 松平伊豆守
獄門島(1949年、東横映画) - 磯川警部
にっぽんGメン 難船崎の血闘(1950年、東横映画) - 都筑滋彌
神変美女峠(1951年、新東宝) - 青鬼
八ツ墓村(1951年、東映) - 磯川警部
大江戸五人男(1951年、松竹) - 石谷将監
赤穂城(1952年、東映) - 不破数右衛門
はだか大名(1952年、東映) - 大内右源太
満月三十石船(1952年、東映) - 桂小五郎
加賀騒動(1953年、東映) - 大槻伝蔵
朝焼け富士(1953年、東映) - 橋本五郎兵衛
快傑黒頭巾(1953年、東映) - 黒頭巾
新諸国物語 笛吹童子(1954年、東映) - 霧の小次郎
霧の小次郎(1954年、東映) - 霧の小次郎
新諸国物語 紅孔雀(1954年、東映) - 主水
弥太郎笠(1955年、東映) - 桑山盛助
隠密秘帖 まぼろし城(1956年) - 木暮月之介
赤穂浪士 天の巻 地の巻(1956年、東映) - 堀田隼人
恋染め浪人(1957年、東映) - 夏目鮎太郎
抜打ち浪人(1957年、東映) - 正木弥九郎
丹下左膳(1958年、東映) - 丹下左膳
新選組(1958年、東映) - 月形半平太
鶯城の花嫁(1958年、東映) - 三鷹彦四郎
忠臣蔵 桜花の巻 菊花の巻(1959年、東映) - 堀部安兵衛
新吾十番勝負(1959年、東映) - 徳川吉宗
孔雀城の花嫁(1959年、東映) - 森半助正和
右門捕物帖 南蛮鮫(1961年、東映) - むっつり右門
赤い影法師(1961年、東映) - 柳生十兵衛
天草四郎時貞(1962年、東映) - 岡新兵衛
変幻紫頭巾(1963年、東映) - 紫頭巾
幕末残酷物語(1964年、東映) - 山南敬助
日本侠客伝 浪花篇(1965年、東映) - 新沢
怪竜大決戦(1966年、東映) - 大蛇丸
女賭博師鉄火場破り(1968年、大映) - 前島大五郎
やくざ刑罰史 私刑(1969年、東映) - 友造
やくざ非情史 血の決着(1970年、東映) - 三田村長次
江戸川乱歩の陰獣(1977年、東映) - 小山田六郎
天使を誘惑(1979年、東宝) - 上杉朔太郎
炎のごとく(1981年、東宝) - 新門辰五郎
陽炎座(1981年、日本ヘラルド映画) - 師匠
刑事物語 くろしおの詩(1985年、東宝) - 山梨剛造
タンポポ(1985年、東宝) - ラーメンの先生
テレビ
赤穂浪士(1964年、NHK) - 堀内伝右衛門
源義経(1966年、NHK) - 富樫泰家
天と地と(1969年、NHK) - 板垣駿河守
大忠臣蔵(1971年、NET) - 鳥居理右衛門
必殺仕掛人 第4話「殺しの掟」(1972年、朝日放送) - 中根元十郎
国盗り物語(1973年、NHK) - 武田信玄
荒野の素浪人 第2シリーズ 第14話「白狼の牙」(1974年、NET) - 氷室郷左衛門
非情のライセンス 第2シリーズ(1975年、NET) - 山岸医師
水戸黄門(1976年 - 1983年、TBS) - 初代山野辺兵庫
第7部 第12話「忘れてしまった仇討ち・大館」(1976年) - 佐藤小四郎
破れ奉行(1977年、テレビ朝日) - 嶋屋宇兵衛
探偵物語 第4話「暴力組織」(1979年、日本テレビ) - 暴力団歌川会・歌川会長
なっちゃんの写真館(1980年、NHK)
関ヶ原(1981年、TBS) - 島津義弘
北の国から(1981年-1982年、フジテレビ)
おまかせください(1982年、フジテレビ)
君は海を見たか(1982年、フジテレビ) - 知念源吉
おしん(1983年、NHK)
おまかせください、オレの女房どの(1983年、フジテレビ)
しあわせの国 青い鳥ぱたぱた?(1985年、NHK)
ハーフポテトな俺たち(1985年、日本テレビ)
森田一義アワー笑っていいとも!(フジテレビ)
以上、フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より転載。
本名、中富正三。山口県柱島(現岩国市)に生まれる。松山中学(現・愛媛県立松山東高等学校)卒業後、新国劇に入り、辰巳柳太郎に師事する。
1936年、新興キネマ京都撮影所に入って芸名を「大友柳太郎」とし、山本周五郎原作の『青空浪士』で映画デビュー。大ヒットした『佐賀怪猫伝』に主演し、スターの仲間入りを果たす。大映合併後の、オールスターが共演した『維新の曲』の演技は特に好評だった。
戦後、復員し、芸名も「柳太朗」と改め、佐伯清監督の『加賀騒動』で山田五十鈴と共演し、映画界に復帰。改名の背景は戦後、なかなか主役の座に返り咲けず低迷したので、これでは師匠の名を名乗るのはおこがましいと考えたからだという。1953年、東映に入社し、『怪傑黒頭巾』に主演。評判になり、黒頭巾役者として子供の人気の的になった。特に殺陣の鮮やかさは誰もが認めるところだった。片岡千恵蔵、市川右太衛門の両御大、中村錦之助、東千代之介、大川橋蔵の三羽烏よりも稼ぎ頭だったという風説がある。
時代劇では豪放磊落な役柄が多かったが、俳優としての実像は生真面目で神経質ともいえた。師匠辰巳の前では終生、膝を崩す事がなかったといわれる。滑舌が悪い事を常に気に病んでいたともいわれる。
晩年はテレビドラマにも数多く出演し、現代劇でも親しまれたが、1980年代に入り台詞覚えが悪くなった事から、老人性痴呆症にかかったと悲観しはじめ、不眠症にも悩まされるようになる。1985年9月27日、東京都港区の自宅マンション屋上から飛び降り自殺した。この日の午前8時30分、大友は管理人に鍵を貰って地下の個別の倉庫へ入ったが、様子がおかしいと妻が管理人を呼びに来て、2人がかりで大友を部屋へ連れ戻したが、妻と管理人が大友を病院へ連れて行くかどうか相談している隙をついて部屋を抜けだし、屋上から飛び降りたのだった。自殺の背景には杉良太郎が台詞覚えの悪さを厳しく咎めたという説と、伊丹十三監督から苛められたという説があるが、真偽は定かではない。
部屋には妻と、10月から放送の新番組でレギュラー出演していたテレビドラマ『ハーフポテトな俺たち』(日本テレビ)のプロデューサーに宛てた遺書が残されていた。享年74。この『ハーフポテトな俺たち』と映画『タンポポ』(伊丹十三監督)の2本が遺作となった。死の前日伊丹に電話をかけ、自分の出番が全て撮影済みであることを確認している。
師の辰巳は後年、『徹子の部屋』に出演した際、大友の自殺について、「皆に迷惑をかけるからと言って死んだらしい。だが、柳太朗の妻を始め誰も迷惑だと思っていないと。自分を始め関係者は柳太朗は何を勘違いしたのだろうと全員?????だった」というニュアンスで語っている。
主な出演作品
映画
青空浪士(1937年、新興キネマ) - 津村三九馬
佐賀怪猫伝(1937年、新興キネマ) - 小森半左衛門
静御前(1938年、新興キネマ) - 源義経
叫ぶ野武士(1938年、新興キネマ) - 翼の八郎
富士川の血煙(1939年、新興キネマ) - 小政
女人峠(1940年、新興キネマ) - 遠藤類蔵
罪なき町(1941年、新興キネマ) - 加賀宰相綱紀
維新の曲(1942年、大映) - 佐々木唯三郎
素浪人罷通る(1947年、大映) - 松平伊豆守
獄門島(1949年、東横映画) - 磯川警部
にっぽんGメン 難船崎の血闘(1950年、東横映画) - 都筑滋彌
神変美女峠(1951年、新東宝) - 青鬼
八ツ墓村(1951年、東映) - 磯川警部
大江戸五人男(1951年、松竹) - 石谷将監
赤穂城(1952年、東映) - 不破数右衛門
はだか大名(1952年、東映) - 大内右源太
満月三十石船(1952年、東映) - 桂小五郎
加賀騒動(1953年、東映) - 大槻伝蔵
朝焼け富士(1953年、東映) - 橋本五郎兵衛
快傑黒頭巾(1953年、東映) - 黒頭巾
新諸国物語 笛吹童子(1954年、東映) - 霧の小次郎
霧の小次郎(1954年、東映) - 霧の小次郎
新諸国物語 紅孔雀(1954年、東映) - 主水
弥太郎笠(1955年、東映) - 桑山盛助
隠密秘帖 まぼろし城(1956年) - 木暮月之介
赤穂浪士 天の巻 地の巻(1956年、東映) - 堀田隼人
恋染め浪人(1957年、東映) - 夏目鮎太郎
抜打ち浪人(1957年、東映) - 正木弥九郎
丹下左膳(1958年、東映) - 丹下左膳
新選組(1958年、東映) - 月形半平太
鶯城の花嫁(1958年、東映) - 三鷹彦四郎
忠臣蔵 桜花の巻 菊花の巻(1959年、東映) - 堀部安兵衛
新吾十番勝負(1959年、東映) - 徳川吉宗
孔雀城の花嫁(1959年、東映) - 森半助正和
右門捕物帖 南蛮鮫(1961年、東映) - むっつり右門
赤い影法師(1961年、東映) - 柳生十兵衛
天草四郎時貞(1962年、東映) - 岡新兵衛
変幻紫頭巾(1963年、東映) - 紫頭巾
幕末残酷物語(1964年、東映) - 山南敬助
日本侠客伝 浪花篇(1965年、東映) - 新沢
怪竜大決戦(1966年、東映) - 大蛇丸
女賭博師鉄火場破り(1968年、大映) - 前島大五郎
やくざ刑罰史 私刑(1969年、東映) - 友造
やくざ非情史 血の決着(1970年、東映) - 三田村長次
江戸川乱歩の陰獣(1977年、東映) - 小山田六郎
天使を誘惑(1979年、東宝) - 上杉朔太郎
炎のごとく(1981年、東宝) - 新門辰五郎
陽炎座(1981年、日本ヘラルド映画) - 師匠
刑事物語 くろしおの詩(1985年、東宝) - 山梨剛造
タンポポ(1985年、東宝) - ラーメンの先生
テレビ
赤穂浪士(1964年、NHK) - 堀内伝右衛門
源義経(1966年、NHK) - 富樫泰家
天と地と(1969年、NHK) - 板垣駿河守
大忠臣蔵(1971年、NET) - 鳥居理右衛門
必殺仕掛人 第4話「殺しの掟」(1972年、朝日放送) - 中根元十郎
国盗り物語(1973年、NHK) - 武田信玄
荒野の素浪人 第2シリーズ 第14話「白狼の牙」(1974年、NET) - 氷室郷左衛門
非情のライセンス 第2シリーズ(1975年、NET) - 山岸医師
水戸黄門(1976年 - 1983年、TBS) - 初代山野辺兵庫
第7部 第12話「忘れてしまった仇討ち・大館」(1976年) - 佐藤小四郎
破れ奉行(1977年、テレビ朝日) - 嶋屋宇兵衛
探偵物語 第4話「暴力組織」(1979年、日本テレビ) - 暴力団歌川会・歌川会長
なっちゃんの写真館(1980年、NHK)
関ヶ原(1981年、TBS) - 島津義弘
北の国から(1981年-1982年、フジテレビ)
おまかせください(1982年、フジテレビ)
君は海を見たか(1982年、フジテレビ) - 知念源吉
おしん(1983年、NHK)
おまかせください、オレの女房どの(1983年、フジテレビ)
しあわせの国 青い鳥ぱたぱた?(1985年、NHK)
ハーフポテトな俺たち(1985年、日本テレビ)
森田一義アワー笑っていいとも!(フジテレビ)
以上、フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より転載。
あ行
松竹を支えた看板女優 岩下志麻
岩下 志麻(いわした しま。 本名:篠田 志麻(しのだ しま)。 1941年1月3日 - )は日本の女優。
東京都出身。東京都立武蔵高等学校から明星学園高等学校へ編入。成城大学文芸学部中退。父は、同じく俳優の野々村潔。四代目河原崎長十郎は義理の伯父に当たる。現在はグランパパプロダクション所属。夫は映画監督の篠田正浩。
趣味は、旅行と携帯電話のメール。
女優デビューは、テレビドラマの方が先で1958年のNHKドラマ「バス通り裏」、映画では2年後の1960年の「笛吹川」(木下恵介監督)。映画界では松竹の看板女優として大活躍。松竹には1960年から1976年まで16年の長きにわたり在籍し、その屋台骨を支えた。
1960年の映画「秋日和」の数シーンで岩下を起用した小津安二郎監督は、彼女の女優としての素質を誰よりも真っ先に見抜き、『10年に1人の逸材だから大切に育てるように』と松竹の幹部達に語ったという。
映画「極道の妻たち」シリーズへの出演が有名だが、日本メナード化粧品のCMに長く出演していることも業界では広く知られており、2000年、28年という専属タレント契約としては世界最長の記録がギネスブック(国際版)に認定され、現在もその記録を更新中である。
プライベートではドラマ「本家のヨメ」(日本テレビ系)で共演したビビアン・スーと仲が良い。
2006年に放送されていたドラマ「花嫁は厄年ッ!」(TBS)で、長男・安土一郎役を演じていたナインティナインの矢部浩之とメル友になり、お笑いにも興味があるらしく、2007年2月15日OAの「ナインティナインのオールナイトニッポン」(ニッポン放送)では矢部が岩下からチョコメールをもらったことを告白した。
1967年3月3日、篠田監督と京都の大徳寺で白井昌夫松竹専務夫妻の媒酌で挙式。式は仏前結婚式で、般若心経を誦した後、数珠を交換した。三三九度は茶碗に薄茶を入れて行った。今年で結婚生活40年。1女あり。
出演
映画
『笛吹川』 (監督:木下恵介/出演:高峰秀子/1960年、松竹/※DVD発売)
『秋日和』 Late Autumn (監督:小津安二郎/出演:原節子、司葉子、佐田啓二/1960年、松竹/※DVD発売、ヒット)
『乾いた湖』 (出演:高千穂ひづる、鳳八千代/1960年、松竹/※ビデオ化)
『浮気のすすめ 女の裏窓』 (出演:高峰三枝子、伴淳三郎、山下洵一郎/1960年、松竹)
『真昼の罠』 (出演:佐々木功、日比野恵子/1960年、松竹)
『渦』 (原作:井上靖/出演:佐田啓二、島かおり、清川新吾/1961年、松竹)
『あの波の果てまで・前編』 (出演:津川雅彦、高峰三枝子、北上弥太朗/主題歌:藤本二三代/台湾でも上映された/1961年4月、松竹/大ヒット)
『あの波の果てまで・後編』 (出演:津川雅彦/1961年6月、松竹/大ヒット)
『あの波の果てまで・完結編』 (出演:津川雅彦/1961年11月、松竹/大ヒット)
『女舞』 (原作:円地文子/出演:佐田啓二、杉田弘子/1961年、松竹)
『わが恋の旅路』 (原作:曽野綾子/出演:月丘夢路/1961年、松竹)
『夕陽に赤い俺の顔』 (出演:平尾昌晃、小坂一也/1961年、松竹)
『好人好日』 (出演:高峰三枝子、笠智衆/1961年、松竹/ヒット/※ビデオ化)
『京化粧』 (共演:山本富士子、佐田啓二/1961年、松竹/※ビデオ化)
『切腹』 Harakiri (カンヌ国際映画祭審査員特別賞受賞作品/監督:小林正樹/1962年、松竹/※DVD発売)
『義士始末記』 (出演:宗方勝巳/1962年、松竹)
『山の讃歌 燃ゆる若者たち』 (出演:倍賞千恵子、山田五十鈴、山村聰/1962年、松竹)
『ちんじゃらじゃら物語』 (出演:伴淳三郎、フランキー堺、黒柳徹子、月丘夢路、星美智子/1962年、松竹/※ビデオ化)
『秋刀魚の味』 An Autumn Afternoon (監督:小津安二郎/共演:佐田啓二、笠智衆、岡田茉莉子、三上真一郎/1962年、松竹/※DVD発売。日本のみならず、世界各国でDVDが発売されている)
『千客万来』 (出演:佐田啓二、伴淳三郎、高千穂ひづる、桑野みゆき/1962年、松竹)
『この日美わし』 (出演:高峰三枝子、浦辺粂子/1962年、松竹)
『八十八夜の月 京子の初恋』 (出演:宗方勝巳、三益愛子、菅原文太、藤間紫、瞳麗子/1962年、松竹)
『三人娘乾杯!』 (出演:倍賞千恵子、鰐淵晴子、津川雅彦、高峰三枝子/1962年、松竹)
『学生芸者 恋と喧嘩』 (出演:寺島達夫、伴淳三郎、菅原文太、宗方勝巳/1962年、松竹)
『歌え若人達』 (監督:木下恵介/出演:津川雅彦、松川勉、佐田啓二/1963年、松竹/※DVD発売)
『古都』 Twin sisters of Kyoto (第36回アカデミー外国語映画賞本選ノミネート作品/原作:川端康成/出演:吉田輝雄/1963年、松竹/※DVD発売)
『風の視線』 (原作:松本清張/共演:園井啓介、佐田啓二、新珠三千代、山内明、松本清張/1963年、松竹/※DVD発売)
『あの人はいま』 (出演:丹波哲郎、園井啓介、山村聰、西田佐知子/1963年、松竹)
『花の咲く家』 (出演:佐田啓二、岡田茉莉子、山村聰、小坂一也/1963年、松竹/インドネシアロケが行われた。1993年の東海テレビの同名ドラマとは別作品)
『島育ち』 (田端義夫の同名ヒット曲の映画化/共演:寺島達夫、田端義夫/1963年、松竹/※ビデオ化)
『結婚式・結婚式』 (出演:佐田啓二/1963年、松竹)
『死闘の伝説』 (監督:木下恵介/出演:田中絹代/1963年、松竹/※DVD発売)
『100万人の娘たち』 (出演:津川雅彦、笠智衆、牧紀子/1963年、松竹)
『結婚の設計』 (出演:高橋幸治、清水まゆみ/1963年、松竹)
『暗殺』 (出演:佐田啓二/1964年、松竹/※DVD発売)
『五瓣の椿』 (1964年、松竹/※DVD発売)
『道場破り』 (出演:倍賞千恵子/1964年、松竹/※DVD発売)
『駆逐艦雪風』 (出演:勝呂誉、浦辺粂子/1964年、松竹/※ビデオ化)
『続・拝啓天皇陛下様』 (出演:渥美清、佐田啓二/1964年、松竹/※DVD発売)
『馬鹿が戦車でやってくる』 (監督:山田洋次/出演:ハナ肇、飯田蝶子/1964年、松竹/※DVD発売)
『いいかげん馬鹿』 (監督:山田洋次/出演:ハナ肇、犬塚弘/1964年、松竹/※DVD発売)
『寝言泥棒』 (出演:園井啓介/1964年、松竹)
『獣の剣』 (1965年、松竹/※ビデオ化)
『大根と人参』 (出演:有馬稲子、司葉子、桑野みゆき/1965年、松竹/※ビデオ化)
『あねといもうと』 (出演:倍賞千恵子、山村聰、轟夕起子、中村晃子/1965年、松竹)
『雪国』 (原作:川端康成/出演:木村功、加賀まりこ/1965年、松竹/念願だった駒子役を演じる/※DVD発売)
『素敵な今晩わ』 (出演:中村晃子/1965年、松竹)
『処刑の島』 (1966年/※DVD発売)
『暖春』 (原作:小津安二郎/出演:川崎敬三、桑野みゆき、倍賞千恵子、森光子、三ツ矢歌子/1966年、松竹/ヒット/※ビデオ化)
『紀ノ川 花の巻/文緒の巻』 (原作:有吉佐和子/出演:司葉子、丹波哲郎/ハワイでも上映された/1966年、松竹/大ヒット/※DVD発売)
『春一番』 (出演:桑野みゆき、倍賞千恵子/1966年、松竹)
『暖流』 (原作:岸田國士/出演:倍賞千恵子、平幹二朗、細川俊之、小川真由美/1966年、松竹/3度目の映画化で志摩啓子役/ヒット/※ビデオ化)
『命果てる日まで』 (出演:生田悦子、山口崇、香山美子、桑野みゆき、倍賞千恵子/1966年、松竹/※DVD発売)
『おはなはん・(第1部)』 (同名のNHK朝の連続テレビ小説の映画化/共演:栗塚旭、渥美清/ヒット/1966年7月、松竹/※ビデオ化)
『おはなはん・第2部』 (共演:栗塚旭、宗方勝巳、笠智衆/ヒット/1966年10月、松竹/※ビデオ化)
『あかね雲』 (1967年)
『智恵子抄』 Portrait of Chieko (第40回アカデミー外国語映画賞本選ノミネート作品/原作:高村光太郎/出演:丹波哲郎、島かおり/1967年、松竹)
『激流』 (監督:井上梅次/出演:水戸光子/1967年、松竹)
『女の一生』 (原作:ギ・ド・モーパッサン/共演:栗塚旭/1967年、松竹/※DVD発売)
『宴』 (監督:五所平之助/出演:水戸光子、菅原文太/1967年、松竹/ヒット/※ビデオ化)
『春日和』 (出演:栗塚旭、森光子/1967年、松竹)
『祇園祭』 (出演:美空ひばり/1968年、松竹)
『爽春』 (出演:生田悦子/1968年、松竹)
『心中天網島』 (1969年)
『でっかいでっかい野郎』 (出演:渥美清/1969年、松竹/※DVD発売)
『七つの顔の女』 (岩下が様々なコスプレに挑戦したコメディー映画/共演:緒形拳/1969年、松竹/※ビデオ化)
『わが恋わが歌』 (出演:中村勘三郎 (17代目)、八千草薫/1969年、松竹)
『日も月も』 (原作:川端康成/出演:久我美子、笠智衆/1969年、松竹)
『影の車』 (1970年)
『その人は女教師』 (出演:三船史郎、中北千枝子/1970年、東宝)
『誰かさんと誰かさんが全員集合!!』 (「全員集合!!」シリーズ第6作目でマドンナ役/出演:ザ・ドリフターズ、倍賞美津子、若水ヤエ子、正司敏江・玲児/1970年、松竹/※DVD発売)
『婉という女』 (監督:今井正/1971年/※DVD発売)
『嫉妬』 (共演:浅丘ルリ子/1971年、松竹/※ビデオ化)
『その人は炎のように』 (出演:岡田裕介、南風洋子/1972年、東宝)
『辻が花』 (原作:立原正秋/出演:松坂慶子、三崎千恵子/1972年、松竹)
『流れの譜 第1部・動乱』 (出演:司葉子、笠智衆/1974年、松竹)
『鬼畜』 (1978年)
『聖職の碑』 (1978年)
『悪霊島』 (監督:篠田正浩/1981年)
『この子の七つのお祝に』 (1982年/セーラー服姿あり)
『疑惑』 (共演:山田五十鈴/1982年)
『鬼龍院花子の生涯』 (1982年)
『迷走地図』 (1983年)
『魔の刻』 (1985年)
『極道の妻たち シリーズ』 (1986年〜1998年)
『桜の樹の下で』 (1989年)
『少年時代』 (1990年)
『写楽』 (1995年)
『霧の子午線』 (共演:吉永小百合、山本耕史/原作:高樹のぶ子/主題歌:中島みゆき「一隻の舟」/吉永とは、この作品が初共演で話題になった。大掛かりなノルウェーロケも行われた/1996年/※ビデオ化)
『お墓がない!』 (出演:安達祐実、森山良子/老け役にも挑戦したコメディー映画/1999年/※DVD発売)
『梟の城』 (2000年)
『スパイ・ゾルゲ』 (2003年)
テレビドラマ
バス通り裏 (1958年 - 1963年、NHK ※女優デビュー作。 共演:宗方勝巳、大森暁美、織賀邦江。 主題歌:中原美紗緒)
花いちもんめ(1968年、フジテレビ 共演:荒木一郎、佐野周二、川崎敬三、河原崎長一郎、石立鉄男)
晩秋
草燃える(1979年 NHK大河ドラマ)
さよならお竜さん
早春スケッチブック(1983年、フジテレビ)
独眼竜政宗(1987年、NHK大河ドラマ)
花の降る午後(NHK、原作:宮本輝)
夜に抱かれて(1994年、日本テレビ 共演:東山紀之(少年隊)、山口達也(TOKIO)、大森暁美)
葵徳川三代(2000年、NHK大河ドラマ)
検察官 沢木穂乃歌
本家のヨメ 本家之嫁 (2001年、日本テレビ 共演:ビビアン・スー(徐若)、ジュディ・オング(翁倩玉)、酒井法子、小松拓也。 ※台湾でも放映され大ヒットし、日本のドラマの中で最高の視聴率を獲得した。)
優雅な悪事 シリーズ
夏の日の恋〜Summer Time〜(2002年、NHK)
ああ!離婚式(2004年、フジテレビ)
花嫁は厄年ッ!(2006年、TBS 安土幸恵役 共演:篠原涼子、矢部浩之(ナインティナイン)、小沢真珠)
舞台
「オセロ」 (原作:ウィリアム・シェイクスピア。演出:浅利慶太) - デズデモーナ役
バラエティー番組
スター千一夜(フジテレビ)
さんまのまんま(関西テレビ)
新伍&紳助のあぶない話(フジテレビ系)
SMAP×SMAP(フジテレビ)
徹子の部屋(テレビ朝日)
女ひとり旅(テレビ朝日系)
大橋巨泉のワールド・スタークイズ(日本テレビ)
ダウンタウンDX(日本テレビ)
スター爆笑Q&A(日本テレビ)
11PM(日本テレビ)
旅の香り 時の遊び(テレビ朝日。ビビアン・スーとの台湾紀行)
以上、フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より転載。
東京都出身。東京都立武蔵高等学校から明星学園高等学校へ編入。成城大学文芸学部中退。父は、同じく俳優の野々村潔。四代目河原崎長十郎は義理の伯父に当たる。現在はグランパパプロダクション所属。夫は映画監督の篠田正浩。
趣味は、旅行と携帯電話のメール。
女優デビューは、テレビドラマの方が先で1958年のNHKドラマ「バス通り裏」、映画では2年後の1960年の「笛吹川」(木下恵介監督)。映画界では松竹の看板女優として大活躍。松竹には1960年から1976年まで16年の長きにわたり在籍し、その屋台骨を支えた。
1960年の映画「秋日和」の数シーンで岩下を起用した小津安二郎監督は、彼女の女優としての素質を誰よりも真っ先に見抜き、『10年に1人の逸材だから大切に育てるように』と松竹の幹部達に語ったという。
映画「極道の妻たち」シリーズへの出演が有名だが、日本メナード化粧品のCMに長く出演していることも業界では広く知られており、2000年、28年という専属タレント契約としては世界最長の記録がギネスブック(国際版)に認定され、現在もその記録を更新中である。
プライベートではドラマ「本家のヨメ」(日本テレビ系)で共演したビビアン・スーと仲が良い。
2006年に放送されていたドラマ「花嫁は厄年ッ!」(TBS)で、長男・安土一郎役を演じていたナインティナインの矢部浩之とメル友になり、お笑いにも興味があるらしく、2007年2月15日OAの「ナインティナインのオールナイトニッポン」(ニッポン放送)では矢部が岩下からチョコメールをもらったことを告白した。
1967年3月3日、篠田監督と京都の大徳寺で白井昌夫松竹専務夫妻の媒酌で挙式。式は仏前結婚式で、般若心経を誦した後、数珠を交換した。三三九度は茶碗に薄茶を入れて行った。今年で結婚生活40年。1女あり。
出演
映画
『笛吹川』 (監督:木下恵介/出演:高峰秀子/1960年、松竹/※DVD発売)
『秋日和』 Late Autumn (監督:小津安二郎/出演:原節子、司葉子、佐田啓二/1960年、松竹/※DVD発売、ヒット)
『乾いた湖』 (出演:高千穂ひづる、鳳八千代/1960年、松竹/※ビデオ化)
『浮気のすすめ 女の裏窓』 (出演:高峰三枝子、伴淳三郎、山下洵一郎/1960年、松竹)
『真昼の罠』 (出演:佐々木功、日比野恵子/1960年、松竹)
『渦』 (原作:井上靖/出演:佐田啓二、島かおり、清川新吾/1961年、松竹)
『あの波の果てまで・前編』 (出演:津川雅彦、高峰三枝子、北上弥太朗/主題歌:藤本二三代/台湾でも上映された/1961年4月、松竹/大ヒット)
『あの波の果てまで・後編』 (出演:津川雅彦/1961年6月、松竹/大ヒット)
『あの波の果てまで・完結編』 (出演:津川雅彦/1961年11月、松竹/大ヒット)
『女舞』 (原作:円地文子/出演:佐田啓二、杉田弘子/1961年、松竹)
『わが恋の旅路』 (原作:曽野綾子/出演:月丘夢路/1961年、松竹)
『夕陽に赤い俺の顔』 (出演:平尾昌晃、小坂一也/1961年、松竹)
『好人好日』 (出演:高峰三枝子、笠智衆/1961年、松竹/ヒット/※ビデオ化)
『京化粧』 (共演:山本富士子、佐田啓二/1961年、松竹/※ビデオ化)
『切腹』 Harakiri (カンヌ国際映画祭審査員特別賞受賞作品/監督:小林正樹/1962年、松竹/※DVD発売)
『義士始末記』 (出演:宗方勝巳/1962年、松竹)
『山の讃歌 燃ゆる若者たち』 (出演:倍賞千恵子、山田五十鈴、山村聰/1962年、松竹)
『ちんじゃらじゃら物語』 (出演:伴淳三郎、フランキー堺、黒柳徹子、月丘夢路、星美智子/1962年、松竹/※ビデオ化)
『秋刀魚の味』 An Autumn Afternoon (監督:小津安二郎/共演:佐田啓二、笠智衆、岡田茉莉子、三上真一郎/1962年、松竹/※DVD発売。日本のみならず、世界各国でDVDが発売されている)
『千客万来』 (出演:佐田啓二、伴淳三郎、高千穂ひづる、桑野みゆき/1962年、松竹)
『この日美わし』 (出演:高峰三枝子、浦辺粂子/1962年、松竹)
『八十八夜の月 京子の初恋』 (出演:宗方勝巳、三益愛子、菅原文太、藤間紫、瞳麗子/1962年、松竹)
『三人娘乾杯!』 (出演:倍賞千恵子、鰐淵晴子、津川雅彦、高峰三枝子/1962年、松竹)
『学生芸者 恋と喧嘩』 (出演:寺島達夫、伴淳三郎、菅原文太、宗方勝巳/1962年、松竹)
『歌え若人達』 (監督:木下恵介/出演:津川雅彦、松川勉、佐田啓二/1963年、松竹/※DVD発売)
『古都』 Twin sisters of Kyoto (第36回アカデミー外国語映画賞本選ノミネート作品/原作:川端康成/出演:吉田輝雄/1963年、松竹/※DVD発売)
『風の視線』 (原作:松本清張/共演:園井啓介、佐田啓二、新珠三千代、山内明、松本清張/1963年、松竹/※DVD発売)
『あの人はいま』 (出演:丹波哲郎、園井啓介、山村聰、西田佐知子/1963年、松竹)
『花の咲く家』 (出演:佐田啓二、岡田茉莉子、山村聰、小坂一也/1963年、松竹/インドネシアロケが行われた。1993年の東海テレビの同名ドラマとは別作品)
『島育ち』 (田端義夫の同名ヒット曲の映画化/共演:寺島達夫、田端義夫/1963年、松竹/※ビデオ化)
『結婚式・結婚式』 (出演:佐田啓二/1963年、松竹)
『死闘の伝説』 (監督:木下恵介/出演:田中絹代/1963年、松竹/※DVD発売)
『100万人の娘たち』 (出演:津川雅彦、笠智衆、牧紀子/1963年、松竹)
『結婚の設計』 (出演:高橋幸治、清水まゆみ/1963年、松竹)
『暗殺』 (出演:佐田啓二/1964年、松竹/※DVD発売)
『五瓣の椿』 (1964年、松竹/※DVD発売)
『道場破り』 (出演:倍賞千恵子/1964年、松竹/※DVD発売)
『駆逐艦雪風』 (出演:勝呂誉、浦辺粂子/1964年、松竹/※ビデオ化)
『続・拝啓天皇陛下様』 (出演:渥美清、佐田啓二/1964年、松竹/※DVD発売)
『馬鹿が戦車でやってくる』 (監督:山田洋次/出演:ハナ肇、飯田蝶子/1964年、松竹/※DVD発売)
『いいかげん馬鹿』 (監督:山田洋次/出演:ハナ肇、犬塚弘/1964年、松竹/※DVD発売)
『寝言泥棒』 (出演:園井啓介/1964年、松竹)
『獣の剣』 (1965年、松竹/※ビデオ化)
『大根と人参』 (出演:有馬稲子、司葉子、桑野みゆき/1965年、松竹/※ビデオ化)
『あねといもうと』 (出演:倍賞千恵子、山村聰、轟夕起子、中村晃子/1965年、松竹)
『雪国』 (原作:川端康成/出演:木村功、加賀まりこ/1965年、松竹/念願だった駒子役を演じる/※DVD発売)
『素敵な今晩わ』 (出演:中村晃子/1965年、松竹)
『処刑の島』 (1966年/※DVD発売)
『暖春』 (原作:小津安二郎/出演:川崎敬三、桑野みゆき、倍賞千恵子、森光子、三ツ矢歌子/1966年、松竹/ヒット/※ビデオ化)
『紀ノ川 花の巻/文緒の巻』 (原作:有吉佐和子/出演:司葉子、丹波哲郎/ハワイでも上映された/1966年、松竹/大ヒット/※DVD発売)
『春一番』 (出演:桑野みゆき、倍賞千恵子/1966年、松竹)
『暖流』 (原作:岸田國士/出演:倍賞千恵子、平幹二朗、細川俊之、小川真由美/1966年、松竹/3度目の映画化で志摩啓子役/ヒット/※ビデオ化)
『命果てる日まで』 (出演:生田悦子、山口崇、香山美子、桑野みゆき、倍賞千恵子/1966年、松竹/※DVD発売)
『おはなはん・(第1部)』 (同名のNHK朝の連続テレビ小説の映画化/共演:栗塚旭、渥美清/ヒット/1966年7月、松竹/※ビデオ化)
『おはなはん・第2部』 (共演:栗塚旭、宗方勝巳、笠智衆/ヒット/1966年10月、松竹/※ビデオ化)
『あかね雲』 (1967年)
『智恵子抄』 Portrait of Chieko (第40回アカデミー外国語映画賞本選ノミネート作品/原作:高村光太郎/出演:丹波哲郎、島かおり/1967年、松竹)
『激流』 (監督:井上梅次/出演:水戸光子/1967年、松竹)
『女の一生』 (原作:ギ・ド・モーパッサン/共演:栗塚旭/1967年、松竹/※DVD発売)
『宴』 (監督:五所平之助/出演:水戸光子、菅原文太/1967年、松竹/ヒット/※ビデオ化)
『春日和』 (出演:栗塚旭、森光子/1967年、松竹)
『祇園祭』 (出演:美空ひばり/1968年、松竹)
『爽春』 (出演:生田悦子/1968年、松竹)
『心中天網島』 (1969年)
『でっかいでっかい野郎』 (出演:渥美清/1969年、松竹/※DVD発売)
『七つの顔の女』 (岩下が様々なコスプレに挑戦したコメディー映画/共演:緒形拳/1969年、松竹/※ビデオ化)
『わが恋わが歌』 (出演:中村勘三郎 (17代目)、八千草薫/1969年、松竹)
『日も月も』 (原作:川端康成/出演:久我美子、笠智衆/1969年、松竹)
『影の車』 (1970年)
『その人は女教師』 (出演:三船史郎、中北千枝子/1970年、東宝)
『誰かさんと誰かさんが全員集合!!』 (「全員集合!!」シリーズ第6作目でマドンナ役/出演:ザ・ドリフターズ、倍賞美津子、若水ヤエ子、正司敏江・玲児/1970年、松竹/※DVD発売)
『婉という女』 (監督:今井正/1971年/※DVD発売)
『嫉妬』 (共演:浅丘ルリ子/1971年、松竹/※ビデオ化)
『その人は炎のように』 (出演:岡田裕介、南風洋子/1972年、東宝)
『辻が花』 (原作:立原正秋/出演:松坂慶子、三崎千恵子/1972年、松竹)
『流れの譜 第1部・動乱』 (出演:司葉子、笠智衆/1974年、松竹)
『鬼畜』 (1978年)
『聖職の碑』 (1978年)
『悪霊島』 (監督:篠田正浩/1981年)
『この子の七つのお祝に』 (1982年/セーラー服姿あり)
『疑惑』 (共演:山田五十鈴/1982年)
『鬼龍院花子の生涯』 (1982年)
『迷走地図』 (1983年)
『魔の刻』 (1985年)
『極道の妻たち シリーズ』 (1986年〜1998年)
『桜の樹の下で』 (1989年)
『少年時代』 (1990年)
『写楽』 (1995年)
『霧の子午線』 (共演:吉永小百合、山本耕史/原作:高樹のぶ子/主題歌:中島みゆき「一隻の舟」/吉永とは、この作品が初共演で話題になった。大掛かりなノルウェーロケも行われた/1996年/※ビデオ化)
『お墓がない!』 (出演:安達祐実、森山良子/老け役にも挑戦したコメディー映画/1999年/※DVD発売)
『梟の城』 (2000年)
『スパイ・ゾルゲ』 (2003年)
テレビドラマ
バス通り裏 (1958年 - 1963年、NHK ※女優デビュー作。 共演:宗方勝巳、大森暁美、織賀邦江。 主題歌:中原美紗緒)
花いちもんめ(1968年、フジテレビ 共演:荒木一郎、佐野周二、川崎敬三、河原崎長一郎、石立鉄男)
晩秋
草燃える(1979年 NHK大河ドラマ)
さよならお竜さん
早春スケッチブック(1983年、フジテレビ)
独眼竜政宗(1987年、NHK大河ドラマ)
花の降る午後(NHK、原作:宮本輝)
夜に抱かれて(1994年、日本テレビ 共演:東山紀之(少年隊)、山口達也(TOKIO)、大森暁美)
葵徳川三代(2000年、NHK大河ドラマ)
検察官 沢木穂乃歌
本家のヨメ 本家之嫁 (2001年、日本テレビ 共演:ビビアン・スー(徐若)、ジュディ・オング(翁倩玉)、酒井法子、小松拓也。 ※台湾でも放映され大ヒットし、日本のドラマの中で最高の視聴率を獲得した。)
優雅な悪事 シリーズ
夏の日の恋〜Summer Time〜(2002年、NHK)
ああ!離婚式(2004年、フジテレビ)
花嫁は厄年ッ!(2006年、TBS 安土幸恵役 共演:篠原涼子、矢部浩之(ナインティナイン)、小沢真珠)
舞台
「オセロ」 (原作:ウィリアム・シェイクスピア。演出:浅利慶太) - デズデモーナ役
バラエティー番組
スター千一夜(フジテレビ)
さんまのまんま(関西テレビ)
新伍&紳助のあぶない話(フジテレビ系)
SMAP×SMAP(フジテレビ)
徹子の部屋(テレビ朝日)
女ひとり旅(テレビ朝日系)
大橋巨泉のワールド・スタークイズ(日本テレビ)
ダウンタウンDX(日本テレビ)
スター爆笑Q&A(日本テレビ)
11PM(日本テレビ)
旅の香り 時の遊び(テレビ朝日。ビビアン・スーとの台湾紀行)
以上、フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より転載。
あ行
映画史上最高の時代劇スターと呼ばれた名優 市川雷蔵
市川 雷蔵(いちかわ らいぞう、1931年(昭和6年)8月29日 - 1969年(昭和44年)7月17日)は日本の歌舞伎役者、映画俳優。映画史上最高の時代劇スターと謳われた名優。
京都市堀川丸太町で商社員の父・商家出身の母との間に亀崎章雄(かめざき・あきお)として生まれる。しかし諸事情があり実の両親と相次ぎ離別を余儀なくされ、生後6ヶ月で父の親類筋であった歌舞伎俳優市川九団次(本名・竹内嘉三)に引き取られて養子となり、竹内嘉男(たけうちよしお)と改名(尚、更に1951年市川壽海 (3代目)(本名・太田照三)と養子縁組、このとき戸籍名を太田吉哉(おおた・よしや)に改名、他界までこの名が本名となる)。
旧制天王寺中学(現大阪府立天王寺高等学校)を中退し、15歳で大阪歌舞伎座、東西合同大歌舞伎『中山七里』(娘 お花)で初舞台。芸名、市川莚蔵(いちかわえんぞう)。雷蔵は歌舞伎俳優家の出身でなく、また九団次も脇役俳優ゆえ歌舞伎役者としての活動に様々な不利・制約を受け続けたが、雷蔵の実力を見抜いた評論家武智鉄二や寿海、松竹取締役(当時)・白井信太郎の引き立てで一躍関西歌舞伎の若手のホープの一人として躍り出る。
昭和26年、19歳で、当時の関西歌舞伎の頭領であった3代目市川壽海の養子となり、八代目市川雷蔵襲名。その年の6月に大阪歌舞伎座における『伊勢音頭恋寝刃・大太講』がその襲名披露の狂言であった。
当初、養父である市川九団次は市川新蔵(明治期に活躍した天才役者。九代目市川團十郎の養子となり、十代目の市川團十郎を継ぐだろうと言われていた)の名跡を継がせたいと考えていたが、市川猿之助(のちの市川猿翁)に、「どこの馬の骨とも知れぬ役者に新蔵の名跡はやれぬ」と反対され、やむなく市川雷蔵を襲名したという経緯がある。
こういった経験から、父の市川九団次は何とかして息子に名門の家柄を付けてやりたいと考えるようになり、後の市川寿海との養子縁組につながっていく。しかし保守的で血縁が重視される梨園の世界での活躍はやはり難しく、最終的には22歳で歌舞伎の舞台から離れて『花の白虎隊』で銀幕デビュー。これ以降は映画の世界に身を置くこととなり、結果的に歌舞伎の世界へは生涯戻ることがなかった。
雷蔵が歌舞伎と距離をおいたのは松竹創設者・大谷竹次郎との間に確執があったからとか、雷蔵が永年の養父・九団次を思慕するあまり、新たな養父・寿海に馴染めなかったからとも伝えられる。その上、関西では歌舞伎自体が興行不振による凋落傾向を見せ始めており、公演数も減少し、寿海が手をとって雷蔵に役を教える機会にも恵まれなかった。
また、当時松竹は若手のスターであった中村扇雀(現:坂田藤十郎_(4代目))と坂東鶴之助(現:中村富十郎_(5代目))の二人を「扇・鶴」として売り出し、不振の趣を見せ始めた関西歌舞伎の建て直しの起爆剤にしようと考えていたため、必然的に主役クラスの役はその二人に振られ、雷蔵へ付く役はいつまでたっても脇役扱いから脱却できなかった。裏を返せば、松竹は伝統に縛られるあまりに、歌舞伎俳優家の血ではない雷蔵の才能を見落としていた、あるいは軽視していたという事もいえ、現在では雷蔵の軽視と映画界への流出を、戦後の関西歌舞伎の凋落の一因として指摘する者もいる。
他方、市川雷蔵の名は歌舞伎の世界にとっては軽い名跡とは言え、松竹の手を離れた後の映画界でその存在が大きく成り過ぎた事により、歌舞伎を牛耳る松竹にとっては甚だ扱にくいものになっているのか、その後の歌舞伎の世界では現在まで名を襲う者が無い、いわゆる「永久欠番」的な存在になっている。
一方、雷蔵の映画への転進については、雷蔵の役者としての才能を買い、また喪失させまいとした映画界(特に時代劇製作サイド)がアクションを起こしたからだといってよい。『朱雀門』で東南アジア映画祭ゴールデン・ハーベスト賞受賞。大映映画の屋台骨を支える大スターとして活躍。気品・風格(眠狂四郎シリーズや大菩薩峠では左記に加え喩え難い妖気すら)を表現しえた不世出の時代劇スターだったとの評価は高い。
私生活では1962年、日本女子大学の学生で大映社長永田雅一と養子縁組していた女性(一般人)と結婚、一男二女を授かった。映画俳優として脂がのりきり、また永年の念願だった歌舞伎復帰も検討された矢先の1969年、肝臓癌のため37歳の若さで夭折。前年より下血など健康を著しく害しており入院・手術等を繰り返していた。雷蔵の遺児は当時6歳(長女)・5歳(長男)、末子の二女にいたってはまだ1歳だった。「病み衰えた顔を見せたくない」が、末期の言葉だったという。
また、私生活はほとんど表に出さず、私生活での雷蔵の姿を見て、その人が雷蔵であると気付ける人はファンはもとより、映画業界やマスコミの人間にもほとんどいなかった。親交の深かった者の多くがインタビューなどで語るところでは、メーキャップが天才的に上手で、普段の雷蔵とカメラの前の雷蔵はまるで別人であり、普段は毒舌家ではあるものの優しい雷蔵がどうしてあれ程に冷たい演技をできるのか不思議な程であったという。ここにも不世出と言われた雷蔵の才能の一端を見る事ができる。
大映は1971年に倒産したが、これについても雷蔵の死が致命傷になったといわれている。作家の池波正太郎は、「大映は、死ぬ間際に無理矢理(映画「博徒一代 血祭り不動」を)一本撮らせたそうな」と自らの随筆に記しており、結果的に倒産を早めるきっかけを作ったのは他ならぬ大映自身だといえよう。また演技力・品格・風格を兼備しながら同じく37歳で癌死したという共通点から、雷蔵は和製ジェラール・フィリップと喩えられることもある。
当時の映画の共演者やスタッフには現在でも雷蔵を慕い、若くして失われたその才能を惜しむ者が多い。中でも歌舞伎時代以前からの親交があった中村玉緒は様々なインタビューで雷蔵の事を語っており、現在でも兄の様に慕っている事で有名である。
死後も時代を超え人々を魅了しつづけ、京都では毎年夏に映画イベント「市川雷蔵映画祭」が開催されている。
出演作品
約15年間に158本の映画に出演。
眠狂四郎シリーズ
花の白虎隊(1954)映画デビュー作。雷蔵22歳。悲劇の少年剣士役。
新・平家物語(1955)溝口健二監督作品。俳優としての力量を本格的に認められた出世作。
柳生連也斎・秘伝月影抄(1956)初の剣豪役。
源氏物語・浮舟(1957)匂宮。肉体派?!のドライな貴公子役。
弁天小僧(1958)歌舞伎の題材に取り組んだ時代劇。輝く雷さま。
若き日の信長(1959)野生の武者ぶり。知略にたけた若き武将の颯爽たる姿。気品。
お嬢吉三(1959)弁天に次ぐ歌舞伎もの。モテモテお嬢吉三。
かげろう絵図(1959)衣笠貞之助監督作品。原作は、松本清張の同名小説。
千羽鶴秘帳(1959)雷蔵デザインの「千羽鶴のスタイル」
ジャン有馬の襲撃(1959)キリシタン大名。
初春狸御殿(1959)カラー・シネマスコープ作品。
朱雀門(1957)初めての宮さま役。動乱期の愛の苦悩を生きる。
炎上(1958)初の本格的現代劇。これまでのイメージを一新し、俳優としての力と可能性を認められた。
忠臣蔵(1958)若手筆頭スターの役どころ、浅野内匠頭を凛とした気品が素晴らしく、魅力的。
薄桜記(1959)悲しい運命の愛を華麗に劇的に描いた時代劇。
ぼんち(1960)二度目の主演現代劇。
歌行灯(1960)能『海女』の仕舞いの稽古場面がみどころ。
切られ与三郎(1960)歌舞伎の世界から三作目。名場面だらけ。
安珍と清姫(1960)道成寺伝説から。雷蔵の坊主頭が印象的。
忠直卿行状記(1960)悲運の名君。雷蔵の表情が刻々と変貌する様も素晴らしい。
花くらべ狸道中(1961)
好色一代男(1961)雷蔵念願の西鶴もの時代劇。
おけさ唄えば(1961)瓢軽な味を見せる明朗股旅もの。
鯉名の銀平(1961)なんと、片思いに苦しんだ挙句失恋する役。
新源氏物語(1961)光源氏とはかくあるらん。
かげろう侍(1961)グランド・ホテル形式の捕り物時代劇。
濡れ髪牡丹(1961) ジャパニーズコメディの金字塔。『免許ぉ〜皆伝のぉ〜腕前だぁ〜、うん』ニヤリ
女と三悪人(1962)正月用オールスター作品。劇中劇「弁天小僧」。
婦系図(1962)恋と義理の板挟みで苦悩する明治のインテリ青年を爽やかに演じる。
破戒(1962)島崎藤村原作の文芸映画。苦悩する青年を熱演。
斬る(1962)代表作のひとつ。
剣に賭ける(1962)千葉周作を描く時代劇。
殺陣師段平(1962)いかにも当たり役の、沢田正二郎役。
忍びの者シリーズ
陽気な殿様(1962)明朗快活お馴染み若様もの。
新撰組始末記(1963)新撰組隊士、山崎烝役。
第三の影武者(1963)勇猛な城主とその影武者の二役を演じる。
手討(1963)愛する女を自分の手で殺さねばならなくなるというドラマが。格調高く描かれている。
剣(1964)三島由紀夫原作。久しぶりの現代劇。
昨日消えた男(1964)明朗時代劇。
無宿者(1964)網干場や岩場での決闘が印象深い。
若親分シリーズ
剣鬼(1965)雷蔵ならではの悲しみの結晶ゆえに、代表作のひとつに数えられるといえよう。
華岡青洲の妻(1967)
「陸軍中野学校」シリーズ
ある殺し屋(1967)代表作のひとつ。ある種フランス映画を思わせる。
ある殺し屋の鍵(1967)
大菩薩峠シリーズ
ひとり狼(1968)代表作といえる股旅時代劇。
博徒一代・血祭り不動(1969)最後の作品。
受賞歴
1959年1月『炎上』でキネマ旬報主演男優賞受賞
2月『炎上』『弁天小僧』でブルーリボン主演男優賞、NHK映画最優秀主演男優賞受賞
9月『炎上』の演技により、イタリアの映画誌『シネマ・ヌオボ』で最優秀男優賞受賞
1964年11月『剣』で京都市民映画祭主演男優賞受賞
1967年2月『華岡青洲の妻』でNHK映画最優秀男優賞受賞
『華岡青洲の妻』でキネマ旬報主演男優賞受賞
1968年11月『華岡青洲の妻』で京都市民映画祭主演男優賞受賞
1969年11月京都市民映画祭マキノ省三賞受賞
以上、フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より転載。
京都市堀川丸太町で商社員の父・商家出身の母との間に亀崎章雄(かめざき・あきお)として生まれる。しかし諸事情があり実の両親と相次ぎ離別を余儀なくされ、生後6ヶ月で父の親類筋であった歌舞伎俳優市川九団次(本名・竹内嘉三)に引き取られて養子となり、竹内嘉男(たけうちよしお)と改名(尚、更に1951年市川壽海 (3代目)(本名・太田照三)と養子縁組、このとき戸籍名を太田吉哉(おおた・よしや)に改名、他界までこの名が本名となる)。
旧制天王寺中学(現大阪府立天王寺高等学校)を中退し、15歳で大阪歌舞伎座、東西合同大歌舞伎『中山七里』(娘 お花)で初舞台。芸名、市川莚蔵(いちかわえんぞう)。雷蔵は歌舞伎俳優家の出身でなく、また九団次も脇役俳優ゆえ歌舞伎役者としての活動に様々な不利・制約を受け続けたが、雷蔵の実力を見抜いた評論家武智鉄二や寿海、松竹取締役(当時)・白井信太郎の引き立てで一躍関西歌舞伎の若手のホープの一人として躍り出る。
昭和26年、19歳で、当時の関西歌舞伎の頭領であった3代目市川壽海の養子となり、八代目市川雷蔵襲名。その年の6月に大阪歌舞伎座における『伊勢音頭恋寝刃・大太講』がその襲名披露の狂言であった。
当初、養父である市川九団次は市川新蔵(明治期に活躍した天才役者。九代目市川團十郎の養子となり、十代目の市川團十郎を継ぐだろうと言われていた)の名跡を継がせたいと考えていたが、市川猿之助(のちの市川猿翁)に、「どこの馬の骨とも知れぬ役者に新蔵の名跡はやれぬ」と反対され、やむなく市川雷蔵を襲名したという経緯がある。
こういった経験から、父の市川九団次は何とかして息子に名門の家柄を付けてやりたいと考えるようになり、後の市川寿海との養子縁組につながっていく。しかし保守的で血縁が重視される梨園の世界での活躍はやはり難しく、最終的には22歳で歌舞伎の舞台から離れて『花の白虎隊』で銀幕デビュー。これ以降は映画の世界に身を置くこととなり、結果的に歌舞伎の世界へは生涯戻ることがなかった。
雷蔵が歌舞伎と距離をおいたのは松竹創設者・大谷竹次郎との間に確執があったからとか、雷蔵が永年の養父・九団次を思慕するあまり、新たな養父・寿海に馴染めなかったからとも伝えられる。その上、関西では歌舞伎自体が興行不振による凋落傾向を見せ始めており、公演数も減少し、寿海が手をとって雷蔵に役を教える機会にも恵まれなかった。
また、当時松竹は若手のスターであった中村扇雀(現:坂田藤十郎_(4代目))と坂東鶴之助(現:中村富十郎_(5代目))の二人を「扇・鶴」として売り出し、不振の趣を見せ始めた関西歌舞伎の建て直しの起爆剤にしようと考えていたため、必然的に主役クラスの役はその二人に振られ、雷蔵へ付く役はいつまでたっても脇役扱いから脱却できなかった。裏を返せば、松竹は伝統に縛られるあまりに、歌舞伎俳優家の血ではない雷蔵の才能を見落としていた、あるいは軽視していたという事もいえ、現在では雷蔵の軽視と映画界への流出を、戦後の関西歌舞伎の凋落の一因として指摘する者もいる。
他方、市川雷蔵の名は歌舞伎の世界にとっては軽い名跡とは言え、松竹の手を離れた後の映画界でその存在が大きく成り過ぎた事により、歌舞伎を牛耳る松竹にとっては甚だ扱にくいものになっているのか、その後の歌舞伎の世界では現在まで名を襲う者が無い、いわゆる「永久欠番」的な存在になっている。
一方、雷蔵の映画への転進については、雷蔵の役者としての才能を買い、また喪失させまいとした映画界(特に時代劇製作サイド)がアクションを起こしたからだといってよい。『朱雀門』で東南アジア映画祭ゴールデン・ハーベスト賞受賞。大映映画の屋台骨を支える大スターとして活躍。気品・風格(眠狂四郎シリーズや大菩薩峠では左記に加え喩え難い妖気すら)を表現しえた不世出の時代劇スターだったとの評価は高い。
私生活では1962年、日本女子大学の学生で大映社長永田雅一と養子縁組していた女性(一般人)と結婚、一男二女を授かった。映画俳優として脂がのりきり、また永年の念願だった歌舞伎復帰も検討された矢先の1969年、肝臓癌のため37歳の若さで夭折。前年より下血など健康を著しく害しており入院・手術等を繰り返していた。雷蔵の遺児は当時6歳(長女)・5歳(長男)、末子の二女にいたってはまだ1歳だった。「病み衰えた顔を見せたくない」が、末期の言葉だったという。
また、私生活はほとんど表に出さず、私生活での雷蔵の姿を見て、その人が雷蔵であると気付ける人はファンはもとより、映画業界やマスコミの人間にもほとんどいなかった。親交の深かった者の多くがインタビューなどで語るところでは、メーキャップが天才的に上手で、普段の雷蔵とカメラの前の雷蔵はまるで別人であり、普段は毒舌家ではあるものの優しい雷蔵がどうしてあれ程に冷たい演技をできるのか不思議な程であったという。ここにも不世出と言われた雷蔵の才能の一端を見る事ができる。
大映は1971年に倒産したが、これについても雷蔵の死が致命傷になったといわれている。作家の池波正太郎は、「大映は、死ぬ間際に無理矢理(映画「博徒一代 血祭り不動」を)一本撮らせたそうな」と自らの随筆に記しており、結果的に倒産を早めるきっかけを作ったのは他ならぬ大映自身だといえよう。また演技力・品格・風格を兼備しながら同じく37歳で癌死したという共通点から、雷蔵は和製ジェラール・フィリップと喩えられることもある。
当時の映画の共演者やスタッフには現在でも雷蔵を慕い、若くして失われたその才能を惜しむ者が多い。中でも歌舞伎時代以前からの親交があった中村玉緒は様々なインタビューで雷蔵の事を語っており、現在でも兄の様に慕っている事で有名である。
死後も時代を超え人々を魅了しつづけ、京都では毎年夏に映画イベント「市川雷蔵映画祭」が開催されている。
出演作品
約15年間に158本の映画に出演。
眠狂四郎シリーズ
花の白虎隊(1954)映画デビュー作。雷蔵22歳。悲劇の少年剣士役。
新・平家物語(1955)溝口健二監督作品。俳優としての力量を本格的に認められた出世作。
柳生連也斎・秘伝月影抄(1956)初の剣豪役。
源氏物語・浮舟(1957)匂宮。肉体派?!のドライな貴公子役。
弁天小僧(1958)歌舞伎の題材に取り組んだ時代劇。輝く雷さま。
若き日の信長(1959)野生の武者ぶり。知略にたけた若き武将の颯爽たる姿。気品。
お嬢吉三(1959)弁天に次ぐ歌舞伎もの。モテモテお嬢吉三。
かげろう絵図(1959)衣笠貞之助監督作品。原作は、松本清張の同名小説。
千羽鶴秘帳(1959)雷蔵デザインの「千羽鶴のスタイル」
ジャン有馬の襲撃(1959)キリシタン大名。
初春狸御殿(1959)カラー・シネマスコープ作品。
朱雀門(1957)初めての宮さま役。動乱期の愛の苦悩を生きる。
炎上(1958)初の本格的現代劇。これまでのイメージを一新し、俳優としての力と可能性を認められた。
忠臣蔵(1958)若手筆頭スターの役どころ、浅野内匠頭を凛とした気品が素晴らしく、魅力的。
薄桜記(1959)悲しい運命の愛を華麗に劇的に描いた時代劇。
ぼんち(1960)二度目の主演現代劇。
歌行灯(1960)能『海女』の仕舞いの稽古場面がみどころ。
切られ与三郎(1960)歌舞伎の世界から三作目。名場面だらけ。
安珍と清姫(1960)道成寺伝説から。雷蔵の坊主頭が印象的。
忠直卿行状記(1960)悲運の名君。雷蔵の表情が刻々と変貌する様も素晴らしい。
花くらべ狸道中(1961)
好色一代男(1961)雷蔵念願の西鶴もの時代劇。
おけさ唄えば(1961)瓢軽な味を見せる明朗股旅もの。
鯉名の銀平(1961)なんと、片思いに苦しんだ挙句失恋する役。
新源氏物語(1961)光源氏とはかくあるらん。
かげろう侍(1961)グランド・ホテル形式の捕り物時代劇。
濡れ髪牡丹(1961) ジャパニーズコメディの金字塔。『免許ぉ〜皆伝のぉ〜腕前だぁ〜、うん』ニヤリ
女と三悪人(1962)正月用オールスター作品。劇中劇「弁天小僧」。
婦系図(1962)恋と義理の板挟みで苦悩する明治のインテリ青年を爽やかに演じる。
破戒(1962)島崎藤村原作の文芸映画。苦悩する青年を熱演。
斬る(1962)代表作のひとつ。
剣に賭ける(1962)千葉周作を描く時代劇。
殺陣師段平(1962)いかにも当たり役の、沢田正二郎役。
忍びの者シリーズ
陽気な殿様(1962)明朗快活お馴染み若様もの。
新撰組始末記(1963)新撰組隊士、山崎烝役。
第三の影武者(1963)勇猛な城主とその影武者の二役を演じる。
手討(1963)愛する女を自分の手で殺さねばならなくなるというドラマが。格調高く描かれている。
剣(1964)三島由紀夫原作。久しぶりの現代劇。
昨日消えた男(1964)明朗時代劇。
無宿者(1964)網干場や岩場での決闘が印象深い。
若親分シリーズ
剣鬼(1965)雷蔵ならではの悲しみの結晶ゆえに、代表作のひとつに数えられるといえよう。
華岡青洲の妻(1967)
「陸軍中野学校」シリーズ
ある殺し屋(1967)代表作のひとつ。ある種フランス映画を思わせる。
ある殺し屋の鍵(1967)
大菩薩峠シリーズ
ひとり狼(1968)代表作といえる股旅時代劇。
博徒一代・血祭り不動(1969)最後の作品。
受賞歴
1959年1月『炎上』でキネマ旬報主演男優賞受賞
2月『炎上』『弁天小僧』でブルーリボン主演男優賞、NHK映画最優秀主演男優賞受賞
9月『炎上』の演技により、イタリアの映画誌『シネマ・ヌオボ』で最優秀男優賞受賞
1964年11月『剣』で京都市民映画祭主演男優賞受賞
1967年2月『華岡青洲の妻』でNHK映画最優秀男優賞受賞
『華岡青洲の妻』でキネマ旬報主演男優賞受賞
1968年11月『華岡青洲の妻』で京都市民映画祭主演男優賞受賞
1969年11月京都市民映画祭マキノ省三賞受賞
以上、フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より転載。