昭和30年代!!
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日本映画界を代表する大女優 岡田 茉莉子

岡田 茉莉子(おかだ・まりこ。1933年1月11日 - )は日本の女優。本名:吉田鞠子(旧姓・田中)。父は戦前の二枚目俳優・岡田時彦。母は元宝塚歌劇団の田鶴園子。夫は映画監督の吉田喜重。 新潟市立沼垂高等学校(現新潟市立万代高等学校)卒

東京市渋谷区代々木生まれ。1938年、母の田鶴がダンス教師の資格をとり、上海で教えることになったため、東京市大森区北千足町に住む母の妹で宝塚スターだった御幸市子のもとで暮らすようになる。1940年に御幸が東宝映画計画部でプロデューサーをしていた山本紫朗と結婚したため、翌年、母のいる上海に渡る。戦争悪化のため1944年、単身帰国し、また御幸の下で暮らすようになる。 翌年、新潟に引っ越す。

新潟で女学生の頃に映画館で古い作品が流れており、家に帰ってその映画の話をすると母が泣き出したという。その時、初めてその映画の主演である岡田時彦が自分の父である事を知らされ、慌ててもう一度、今度は自分の父を見る為に映画館へ脚を運んだというエピソードがある。

1951年、東宝の第三期ニューフェイスとして、小泉博らと共に東宝演技研究所入り。入所して二十日後、成瀬巳喜男監督の映画「舞姫」の準主役に抜擢される。以降、父親譲りの美貌と演技力で東宝映画の主演スターとなる。

1957年3月にフリーとなり、同年9月に松竹と専属契約。女性映画を得意とする松竹では数々のメロドラマに主演し大活躍。先に東宝から松竹に移籍していた有馬稲子と共に松竹の二枚看板となる。1962年、自らプロデュースし主演した映画「秋津温泉」が大ヒットし多くの映画賞も獲得。会社の意向で助監督に戻されていた吉田喜重を監督に起用した作品であった。翌年、吉田監督と婚約。

1964年(昭和39年)6月21日、旧西ドイツのバイエルン州アスカウ村で吉田監督と海外挙式。民族衣裳を着た現地の村人たちもアルプスホーンで2人を祝福した。新婚旅行は40日間のヨーロッパ1周だった。

1965年、松竹とは2本の本数契約とし事実上のフリーとなる。1966年、吉田と現代映画社を創立し、映画「女のみづうみ」を発表。同年10月、東宝演芸部と年間4本の専属契約を結んで以後は商業演劇を中心に活躍する。

映画が斜陽になった1970年代以降もコンスタントに映画出演を続けており、現在も日本映画界を代表する大女優である。

父娘とも芸名の名付け親は作家の谷崎潤一郎である。お父さんの芸名を付けたのだから君の名前も私が付けましょうと言って付けてくれたそうである。しかし新聞や雑誌で「茉莉子」の「茉」の文字が、誤印刷で下の横棒が長く印刷される事が多かったという。その度に几帳面な谷崎潤一郎から、岡田茉莉子のもとに「君の名前の文字は上の棒が長いのです」と叱った手紙を頂戴したそうな。後年「私のせいじゃないのにね」と愉快に岡田茉莉子は語っている。


受賞歴
1958年(昭和33年) - 映画『悪女の季節』
第13回毎日映画コンクール  助演女優賞
1962年(昭和37年) - 映画『今年の恋』&映画『霧子の運命』
第36回キネマ旬報賞  主演女優賞
1962年(昭和37年) - 映画『今年の恋』&映画『秋津温泉』
第17回毎日映画コンクール  主演女優賞
1998年(平成10年) - 第8回日本映画批評家大賞  ゴールデン・グローリー賞

主な出演作品

映画
 『舞姫』(原作:川端康成。監督:成瀬巳喜男。1951年)
 『青春会議』(1952年)
 『おかる勘平』(1952年)
 『金の卵』(1952年)
 『思春期』(1952年)
 『結婚案内』(1952年)
 『足にさわった女』(監督:市川崑。1952年) 
 『春の囁き』(監督:豊田四郎。1952年)
 『七色の街』(1952年)
 『ああ青春に涙あり』(1952年)
 『吹けよ春風』(脚本:黒澤明。1953年)
 『夫婦』(監督:成瀬巳喜男。1953年)
 『江戸っ子判官』(監督:中川信夫。1953年)
 『夜の終り』(1953年)
 『白魚』(1953年)
 『坊っちゃん』(原作:夏目漱石。マドンナ役。1953年)
 『サラリーマンの歌』(1953年)
 『花の中の娘たち』(1953年。初のカラー映画出演)
 『愛人』(監督:市川崑。1953年)
 『女心はひと筋に』(1953年)
 『ママの日記』(1954年)
 『さらばラバウル』(監督:本多猪四郎。1954年。 ※DVD発売)
 『芸者小夏』(1954年。ヒット)
 『やくざ囃子』(1954年)
 『恋愛特急』(1954年)
 『宮本武蔵』 Samurai I: Musashi Miyamoto (第28回アカデミー賞名誉賞(最優秀外国語映画)受賞作品。1954年。大ヒット。 ※DVD発売)
 『次郎長三国志 第九部 荒神山』(1954年。 ※ビデオ化)
 『新・鞍馬天狗 第一話 天狗出現』(1954年)
 『新・鞍馬天狗 第二話 東寺の決闘』(1954年)
 『結婚記』(1954年)
 『男性NO.1』(1955年)
 『男ありて』(1955年。 ※ビデオ化)
 『渡り鳥いつ帰る』(1955年。 ※ビデオ化)
 『恋化粧』(監督:本多猪四郎。1955年)
 『宮本武蔵 一乗寺決闘』(1955年。大ヒット。 ※DVD発売)
 『芸者小夏 ひとり寝る夜の小夏』(1955年)
 『旅路』(1955年)
 『浮雲』(監督:成瀬巳喜男。キネマ旬報ベストテン第1位。1955年 ※DVD発売)
 『あすなろ物語』(脚本:黒澤明。1955年 ※ビデオ化)
 『朝霧』(1955年)
 『青い果実』(1955年)
 『宮本武蔵 決闘巌流島』(1956年。大ヒット。 ※DVD発売)
 『花嫁会議』(1956年)
 『黒帯三国志』(1956年)
 『幸福はあの星の下に』(1956年)
 『逃げてきた花嫁』(1956年) 
 『白井権八』(1956年)
 『女房族は訴える』(1956年)
 『ならず者』(1956年)
 『森繁よ何処へ行く』(1956年)
 『新婚第一課』(1956年)
 『囚人船』(1956年)
 『女囚と共に』(1956年。大ヒット)
 『流れる』(監督:成瀬巳喜男。キネマ旬報ベストテン第8位。1956年。ヒット。 ※DVD発売)
 『山鳩』(1957年)
 『顔』(1957年。 ※DVD発売)
 『大安吉日』(1957年)
 『柳生武芸帳』(1957年。 ※ビデオ化。ヒット)
 『おしゃべり社長』(1957年)
 『刃傷未遂』(1957年)
 『土砂降り』(1957年。 ※ビデオ化)
 『嵐の中の抱擁 おもかげは遙かなり』(1957年)
 『青い花の流れ』(1957年)
 『ただいま零匹』(1957年)
 『集金旅行』(1957年。 ※ビデオ化。ヒット)
 『娘三羽烏』(1957年。 ※ビデオ化)
 『花嫁のおのろけ』(監督:野村芳太郎。1958年。ヒット)
 『柳生武芸帳 双龍秘剣』(1958年。 ※ビデオ化。ヒット)
 『日日の背信』(1958年)
 『どろんこ天国』(1958年。 ※ビデオ化)
 『花のうず潮』(1958年)
 『現代無宿』(1958年) 
 『モダン道中 その恋待ったなし』(監督:野村芳太郎。1958年)
 『悪女の季節』(1958年)
 『春を待つ人々』(1958年)
 『愛の濃淡』(1958年)
 『橋』(1959年)
 『三羽烏三代記』(出演:津川雅彦、十朱幸代。1959年。大ヒット。 ※ビデオ化)
 『ある落日』(1959年。 ※ビデオ化)
 『海の地図』(1959年)
 『素晴らしき十九才』(1959年)
 『海流』(1959年)
 『霧ある情事』(1959年)
 『春の夢』(監督:木下恵介。1960年。 ※DVD発売)
 『恋人』(1960年)
 『四万人の目撃者』(1960年)
 『バナナ』(1960年)
 『暴れん坊三羽烏』(1960年)
 『女の坂』(監督:吉村公三郎。1960年)
 『離愁・「青衣の人」より』(1960年)
 『秋日和』 Late Autumn (監督:小津安二郎。キネマ旬報ベストテン第5位。1960年。ヒット。 ※DVD発売)
 『猟銃』(1961年。ヒット。 ※ビデオ化)
 『渦』(1961年)
 『斑女』(共演:ささきいさお。1961年。ヒット)
 『水溜り』(1961年。 ※ビデオ化)
 『女舞』(1961年)
 『禁猟区』(1961年) 
 『河口』(1961年)
 『熱愛者』(岡田は企画も担当した。1961年)
 『愛情の系譜』(1961年)
 『千客万来』(1962年) 
 『今年の恋』(共演:田村正和。監督:木下恵介。1962年。 ※DVD発売)
 『愛染かつら』(1962年。ヒット)
 『霧子の運命』(1962年)
 『秋津温泉』(監督:吉田喜重。キネマ旬報ベストテン第10位。岡田は企画と衣裳も担当した。1962年。 ※DVD発売)
 『愛と悲しみと』(1962年)
 『義士始末記』(1962年)
 『続・愛染かつら』(1962年)
 『秋刀魚の味』 An Autumn Afternoon (監督:小津安二郎。キネマ旬報ベストテン第8位。1962年。 ※DVD発売)
 『歌え若人達』(監督:木下恵介。1963年。 ※DVD発売)
 『無宿人別帳』(1963年。 ※DVD発売)
 『二人だけの砦』(1963年)
 『花の咲く家』(1963年。インドネシアロケが行われた。1993年の東海テレビの同名ドラマとは別作品。)
 『結婚式・結婚式』(1963年)
 『真赤な恋の物語』(1963年)
 『残菊物語』(1963年。 ※ビデオ化)
 『香華 前後篇』(監督:木下恵介。キネマ旬報ベストテン第3位。1964年。大ヒット。 ※DVD発売)
 『大根と人参』(1965年。 ※ビデオ化)
 『四谷怪談』(監督:豊田四郎。1965年)
 『花のお江戸の法界坊』(1965年)
 『喜劇 各駅停車』(1965年)
 『水で書かれた物語』(監督:吉田喜重。キネマ旬報ベストテン第10位。1965年。 ※DVD発売)
 『女のみづうみ』(原作:川端康成。監督:吉田喜重。1966年。 ※DVD発売)
 『雌が雄を喰い殺す かまきり』(1967年)
 『妻二人』(監督:増村保造。1967年。 ※ビデオ化)
 『情炎』(監督:吉田喜重。1967年。 ※DVD発売)
 『女たちの庭』(監督:野村芳太郎。1967年)
 『毒薬の匂う女』(1967年)
 『雌が雄を喰い殺す 三匹のかまきり』(1967年)
 『炎と女』(監督:吉田喜重。1967年。 ※DVD発売)
 『樹氷のよろめき』(監督:吉田喜重。1968年。 ※DVD発売)
 『不信のとき』(監督:今井正。1968年)
 『さらば夏の光』(監督:吉田喜重。1968年。 ※DVD発売)
 『戦いすんで日が暮れて』(1970年)
 『エロス+虐殺』(監督:吉田喜重。キネマ旬報ベストテン第4位。1970年。 ※DVD発売)
 『喜劇 度胸一番』(1970年)
 『煉獄エロイカ』(監督:吉田喜重。1970年。 ※DVD発売)
 『波止場女のブルース』(1970年)
 『喜劇 命のお値段』(1971年。 ※ビデオ化)
 『告白的女優論』(監督:吉田喜重。1971年。 ※DVD発売)
 『黒の奔流』(共演:松坂慶子。1972年。※DVD発売)
 『吾輩は猫である』(原作:夏目漱石。監督:豊田四郎。1975年。 ※ビデオ化)
 『凍河』(共演:石原裕次郎。1976年)
 『日本の仁義』(1977年。 ※ビデオ化) 
 『人間の証明』(共演は松田優作、そして、映画『オール・ザ・キングスメン』でアカデミー主演男優賞を受賞した名優ブロデリック・クロフォード(Broderick Crawford)も出演している。1977年。大ヒット。 ※DVD発売)
 『赤穂城断絶』(監督:深作欣二。1978年。 ※DVD発売)
 『金田一耕助の冒険』(監督:大林宣彦。1979年。 ※DVD発売)
 『制覇』(1982年。 ※ビデオ化)
 『生きてはみたけれど 小津安二郎伝』(1983年。 ※ビデオ化)
 『序の舞』(原作:宮尾登美子。1984年。 ※DVD発売)
 『タンポポ』(監督:伊丹十三。1985年。 ※DVD発売) 
 『マルサの女』(監督:伊丹十三。キネマ旬報ベストテン第1位。1987年。大ヒット。 ※DVD発売)
 『激動の1750日』(1990年。 ※DVD発売)
 『おもちゃ』(監督:深作欣二。1999年。 ※ビデオ化)
 『鏡の女たち』(監督:吉田喜重。キネマ旬報ベストテン第6位。2003年。 ※DVD発売)
 『エリ・エリ・レマ・サバクタニ』(共演:浅野忠信、宮崎あおい。監督:青山真治。2006年。 ※DVD発売)

テレビドラマ
「浮舟(源氏物語)」(1957年、TBS)
「細雪」(1966年、フジテレビ)
「三姉妹」(1967年、NHK大河ドラマ、大河ドラマ史上初の女性主役)
「徳川おんな絵巻」(1970年-1971年、フジテレビ系)
「楡家の人びと」(1972年、NHK銀河テレビ小説)
「元禄太平記」(1975年、NHK大河ドラマ)
「女系家族」(1975年、毎日放送)
「横溝正史シリーズII・女王蜂」(1978年、毎日放送)
「土曜ワイド劇場・西村京太郎トラベルミステリー」(1983年、テレビ朝日)
「真田太平記」(1985年 - 1986年、NHK新大型時代劇)
「土曜ワイド劇場・家政婦は見た!」(1987年、テレビ朝日)
「火曜サスペンス劇場・花園の迷宮」(1988年3月、日本テレビ・東映)秋元多恵役
「函館のおんな」(1990年1月9日、テレビ朝日)
「犬神家の一族」(1990年、テレビ朝日)
「土曜ワイド劇場・家政婦は見た!」(同シリーズ2度目の出演。1992年、テレビ朝日)
「珠玉の女」(1992年10月〜1993年3月、よみうりテレビ・VSO)
「憲法はまだか」(1996年、NHK)
「火曜サスペンス劇場 取調室9」(1998年、日本テレビ・宝映企画)
「なごや千客万来」(2000年、NHK)
「月曜ミステリー劇場・金田一耕助シリーズ・白蝋の死美人」(2004年4月、TBS・東阪企画)
「土曜ワイド劇場 温泉若おかみの殺人推理」シリーズ(テレビ朝日。最新作は2007年4月14日)
「芋たこなんきん」(2007年、NHK朝の連続テレビ小説)
「浅草ふくまる旅館」(第1話ゲスト。2007年、TBS。劇中に出てきた白黒写真(アップの方)は本物の昔の岡田のブロマイド。)
「病院のチカラ〜星空ホスピタル〜」(第3回・第4回ゲスト。2007年、NHK)

舞台
「旗本退屈男 雪華の舞」(1986年)
「極楽ホームへいらっしゃい」(2007年4月13日〜4月27日、三越劇場)

その他のテレビ番組
「スター爆笑Q&A」(日本テレビ)
「徹子の部屋」(テレビ朝日) - 一番最近の出演は2007年4月16日
「いちばんきれいなとき」(NHK衛星第2テレビジョン) - 岡田を含む5人の女優たちのインタビュー番組。語り:佐藤藍子
「スタジオL」(NHK総合)
「山城新伍のおんな専科」(テレビ東京)
「日曜ビッグスペシャル」(テレビ東京)
「新伍のわがまま大好き」(テレビ朝日系)
「おはようワイド・土曜の朝に」(テレビ朝日系)
「あの日 昭和20年の記憶」(NHK衛星第2テレビジョン)
「スタジオパークからこんにちは」(NHK総合) - 2007年1月4日
「女優は語る 岡田茉莉子」(衛星劇場) - 2007年4月

エピソード
ズケズケものを言うはっきりとした性格で知られ、近年のインタビューでも、「最近、テレビに出ている若い女優さんについてどう思われますか?」という質問に、「あの方たちは女優じゃありません。タレントさんです。」と発言。
この発言は岡田の気質の表れとともに、十分な演技の勉強を経ないで映画・テレビドラマへ進出する芸能人が多い風潮を憂慮した演技者の発言としても多方面から話題を呼んだ。
仕事で和服を着る機会が多い反動からか、近年プライベートいずれのシーンの服をすべて山本耀司の製品で統一している。
大の阪神タイガースファンとしても有名。
無声映画のフィルムしか残っていない父・岡田時彦の声を、近年、NHK放送技術研究所でレコードで聞いた。

関連書籍
「水野晴郎と銀幕の花々」(近代文芸社。水野による岡田を含む女優達のインタビュー集)
「君美わしく 戦後日本映画女優讃」(川本三郎著。文藝春秋社。川本による岡田を含む女優達のインタビュー集)
「麗しの銀幕スタア」(秋山庄太郎著。小学館)
「成瀬巳喜男 演出術」(村川英編。ワイズ出版)
「小津安二郎新発見 松竹編」(講談社) ISBN 4-06-206681-5
「いま、小津安二郎」(小学館。岡田のインタビュー掲載)
「成瀬巳喜男と映画の中の女優たち」(ぴあ)
「「20世紀を輝いた美女たち」スター青春グラフィティ 池谷朗[昔]写真館」 ISBN 4-87709-374-5
「「銀幕の名花」 20世紀のビッグスタア3 平凡特別編集」(マガジンハウス) ISBN 4-8387-1210-3

以上、フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より転載。

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謎の男 渥美清

渥美 清(あつみ きよし、1928年(昭和3年)3月10日 - 1996年(平成8年)8月4日)は、日本の俳優。本名、田所 康雄(たどころ やすお)。

東京市下谷区車坂町(現・東京都台東区上野七丁目)出身。

1928年3月10日に上野の車坂に生まれる。父は新聞記者、母は教員であった。

1934年、上野の尋常小学校に入学。1936年、一家で板橋区志村清水町に転居。それに伴い、志村第一尋常小学校へ転入。小学生時代は所謂欠食児童であったという。加えて、病弱でもあり小児腎臓炎、小児関節炎、膀胱カタル等の様々な病を患っていた。その為、学校は欠席がちで、3年次と4年次では長期病欠であった。欠席中は、日がな一日ラジオに耳を傾け徳川夢声や落語を聴いて過ごした。戦争の色濃くなる1940年に巣鴨中学校に入学。卒業後は工員として働きながら、一時期、担ぎ屋やテキ屋の手伝いもしていた(親友の谷幹一には、かつて自分は霊岸島桝屋一家に身を寄せていた、と語った事がある)。この幼少期に培った知識が後の「男はつらいよ」シリーズの寅次郎のスタイルを産むきっかけになったといえる。 その後、中央大学経済学部へ進学したが、船乗りになるため退学する。しかし、母親に猛反対されたため船乗りになる事を断念。知り合いの伝手を頼って旅回りの演劇一座に入り喜劇俳優の道を歩むことになった。

なお、当初の芸名は「渥美悦郎」であったが、無名時代の極初期に参加した公演で、座長が観客に向けて配役紹介を行う際になぜか「悦郎」を忘れてしまい、「清」ととっさに言ったものをそのまま使用したといわれている。芸名の"渥美"は愛知県の渥美半島から採ったとされる。

1951年、東京都台東区浅草のストリップ劇場(百万弗劇場)の専属コメディアンとなる。

1953年には、フランス座へ移籍。この頃のフランス座は、長門勇、東八郎、関敬六など後に一線で活躍するコメディアンたちが在籍し、コント作家として井上ひさしが出入りしていた。

1954年、肺結核で右肺を摘出手術しサナトリウムで約2年間の療養生活を送る。このサナトリウムでの療養体験が後の人生観に多大な影響を与えたと言われている。また、復帰後すぐに今度は胃腸を患い中野の立正佼成会病院に1年近く入院する。再復帰後は酒や煙草、コーヒーさえも一切やらなくなり過剰な程の摂生に努めた。

1956年にテレビデビュー、1958年に『おトラさん大繁盛』で映画にデビュー。

1959年にはストリップ小屋時代からの盟友である谷幹一、関敬六とスリーポケッツを結成。しかし、数ヵ月後には脱退している。

1961年から1966年までNHKで放映された『夢であいましょう』に出演。コメディアン・渥美清の名を全国区にした。

1962年公開の映画『あいつばかりが何故もてる』にて映画初主演を務める。 同年、ヤクザ(フーテン)役で出演した『おったまげ人魚物語』のロケにおいて、海に飛び込むシーンでは右肺を摘出していたため海に飛び込めず、唯一代役を立てたシーンとも言われている。 当時、複数の映画が同じ地域で撮影を行っており、この時の撮影現場では、映画『切腹』(仲代達矢、岩下志麻、三国連太郎、丹波哲郎)の撮影現場の宿に泊まり、同宿した多くの俳優や監督と接することとなる。

1963年の野村芳太郎監督の映画『拝啓天皇陛下様』で、愛すべき無垢な男を演じ、俳優としての名声を確立する(続編では阪急や近鉄で活躍したロベルト・バルボンが連合国兵士役で出演した)。

1965年公開の『ブワナ・トシの歌』ではアフリカ各地で4ヶ月間に及ぶ長期ロケを敢行。この撮影以降、アフリカの魅力に取り付かれプライベート旅行で何度も訪れるようになる。この時期の主演作品としては、TBSのテレビドラマ『渥美清の泣いてたまるか』(1966年)や映画『喜劇列車シリーズ』(1967年〜1968年)なども有名である。

1968年、フジテレビにて、テレビドラマ『男はつらいよ』の放送開始。放送期間は1968年10月3日から1969年3月27日までの半年間。脚本は山田洋次と森崎東が担当した。最終回では「ハブに噛まれて寅さんが死ぬ」と言うストーリーに抗議が殺到。「罪滅ぼしの意味も含めて」同1969年、松竹で映画を製作。これが予想に反して大ヒットとなり、以降シリーズ化となって製作の始まった山田洋次監督の映画『男はつらいよ』シリーズにおいて、主演の車寅次郎("フーテンの寅")役を27年間48作に渡って演じ続ける事になる。この映画のシリーズは、国民的映画として日本中の多くの人たちに親しまれた。映画のシリーズでは最多記録の作品としてギネスブックにも載るなどの記録を成し遂げた。

1972年、渥美プロを設立し、松竹と共同で映画『あゝ声なき友』を自身主演で製作公開する。

1975年、松竹80周年記念として制作された映画『友情』に出演。

1977年にはテレビ朝日製作の土曜ワイド劇場『田舎刑事( 時間(とき)よとまれ)』にて久しぶりにテレビドラマの主演を務める。同作品は現在も続く人気番組土曜ワイド劇場の記念すべき第1回作品であると同時に、第32回文化庁芸術祭のテレビ部門ドラマ部の優秀作品にも選出されている。この成功を受けて同作品はシリーズ化され1978年に『田舎刑事(旅路の果て)』が、1979年には『田舎刑事(まぼろしの特攻隊)』がいずれも渥美主演で製作放送されている。

映画『男はつらいよ』シリーズの大成功以降は「渥美清」=「寅さん」の図式が固まってしまう。当初はイメージの固定を避けるために積極的に他作品に出演していたが、どの作品も映画『男はつらいよ』シリーズ程の成功は収める事が出来なかった。

1979年(昭和54年)4月14日にNHKで放映されたテレビドラマ『幾山河は越えたれど〜昭和のこころ 古賀政男〜』では作曲家、古賀政男の生涯を鮮烈に演じ高い評価を得るが、新たな役柄の幅を広げるにはいたらなかった。また、この時期、今村昌平監督が「復讐するは我にあり」の主役にオファーしたが、「寅さんのイメージを裏切りたくない」との理由で断っている。

1980年代以降になると、当時の松竹の思惑や渥美自身も他作品への出演に消極的になっていた事もあって、『男はつらいよ』シリーズ以外の主演は無くなっていく。

その後は、主演以外での参加も次第に減っていき、1993年に公開された映画『学校』が『男はつらいよ』シリーズ以外の作品への最後の出演作品となった(映画出演自体での遺作は亡くなる直前まで出演した男はつらいよ 寅次郎紅の花になる)。

後年は、松竹の看板としてかなりの無理をしての仕事であった。『男はつらいよ』42作目以降は、病気になった渥美に配慮して、立って演じるシーンは少なくされた。晩年は、立っていることもままならず、撮影の合間は寅さんのトランクを椅子代わりにして座っていることが多かった。44作目のころ「スタッフに挨拶されて、それに笑顔で答えることさえ辛いんです。スタッフや見物の方への挨拶を省略していただきたい」と山田洋次に語っている。ところがこのことを知らない映画撮影の見物客は、渥美に声をかけてもまったく反応してもらえなかったことから「愛想が悪い」との理由で渥美を批判することもあったという。体調が悪くなった42作から甥の満男を主役にしたサブストーリーが作られ、年2本作っていたシリーズを一本に減らし、満男の出番を増やして寅次郎の出番を最小限に減らしている。また体調が悪化してからの作品を見ると46作では坂を上るのがきつく(実際に急な坂ではあるが)、47作では歌声が枯れ、第48作では座ったままほとんど動かなくなるなど痛々しい演技である。

病気については1991年に肝臓癌が見つかり、1994年には肺に転移しているのがわかった。47作からは主治医からも出演は不可能だと言われていたが何とか出演した。1996年7月に体調を崩して同月末に手術を受けるが癌の転移が広がり手遅れの状態だった。山田監督の弔辞によれば病院で癌の手術が遅れの状態だった後、病室で震えていたとの事である。そして1996年8月4日、転移性肺癌のため東京都文京区の順天堂医院にて死去。享年69(68歳没)。「俺のやせ細った死に顔を他人に見せたくない。骨にしてから世間に知らせてほしい。」という渥美の遺言により、家族だけで密葬を行い、遺体は東京都荒川区内の火葬場で荼毘に付された。訃報は3日後の1996年8月7日に松竹から公表された。そして8月13日には松竹大船撮影所で「寅さんのお別れの会」が開かれ、山田洋次が弔辞を読み上げた。世間は、渥美清の死を寅さんの死と捉えて報道された。死後、日本政府から渥美に国民栄誉賞が贈られた。『男はつらいよ』シリーズを通じて人情味豊かな演技で広く国民に喜びと潤いを与えたことが受賞理由。俳優で国民栄誉賞が贈られるのは、1984年に死去した長谷川一夫に次いで2人目である。

又、妻は熱心なカトリック信徒で、彼自身も、亡くなる直前に病床でカトリックの洗礼を受けていた事も明らかになっている。

なお、渥美は死ぬまで芸能活動の仕事をプライベートに持ち込まなかった。そのためか、渥美の自宅は芸能・映画関係者や芸能界の友人にも知らされていなかった。


経歴についての異説
渥美清のプライベートは謎につつまれた点が多く、経歴にはいくつかの異説がある。小林信彦著の『おかしな男 渥美清』の略年譜によれば、1940年に志村第一尋常小学校を卒業後、志村高等小学校に入学する。1942年に卒業し、14歳で志村坂上の東京管楽器に入社するが退社し、その後は「家出をしてドサ回り」をしていたとのことである。

巣鴨学園関係者によると、戦前の在籍記録は戦災により焼失しており、在籍の有無は公式にはなんとも言えないという。しかし、何人かのOBの証言によれば、在籍はしていたが、卒業はしていないとのことである。


実像
「寅さん」の演技で見せる闊達さとは対照的に、実像は他者との交わりを避ける孤独な人物だった。「男はつらいよ」のロケ先で撮影に協力した地元有志が開く宴席に一度も顔を出したことがない話は良く知られており、身辺にファンが近寄ることも嫌っていた。タクシーで送られる際も「この辺りで」と言い、自宅から離れた場所で降りるのを常としていた。映画関係者ともプライベートで交際することはほとんどなく「男はつらいよ」シリーズで長年一緒だった山田洋次や黒柳徹子、渥美とは親友であった関敬六でさえ渥美の自宅も個人的な連絡先も知らず、仕事仲間は告別式まで渥美の家族との面識はなかった。これは渥美が生前、プライバシーを徹底的に秘匿し、「渥美清=”寅さん”」のイメージを壊さないためであった。

長男が公の場に顔を出すのは渥美の死後だった。結婚式は家族だけでささやかに行い、仕事仲間など呼ばなかった。結婚まで秘密にしていたため、他界の数年前も渥美が独身と思っていた人が多かったようである。

黒柳徹子はプライベートでも付き合いのある数少ない存在で、彼をお兄ちゃんと呼んでいたほか、夢であいましょうで競演していた時に熱愛疑惑が持ち上がったことがある。ちなみにその際それを報道したスポーツ新聞の紙面には、フランス座時代に幕間のコントで黒柳が小学生の頃いつも呼んでいたチンドン屋の格好をしていた時の写真が掲載された。これは当時マスコミにはその写真しかなかったためである。黒柳は1996年に開かれた「寅さん」とのお別れの会に出席したり、2006年は渥美が死んでから10年と節目の年であったためか渥美の事を話すこともしばしばあった。

2006年9月4日にNHKで放送されたプレミアム10『渥美清の肖像・知られざる役者人生』によると、松竹が映画の低迷期であったのも手伝い、突出して人気のあった「寅さん」のイメージを大事にしたいからと色々な企画を没にしたりして、それ以外の役柄に恵まれなかった。増村保造の映画『セックス・チェック第二の性』を元にして作中男だと疑われるスポーツ選手の女性が、本当に男だったという主演映画などが没になったアイディアの中にあった。

また、永六輔とは少年時代から旧知の仲であり、永六輔によると渥美は永も所属していた不良グループのボスであったいう。更に永の言葉によると、渥美が役者を目指す様になったのにはある刑事の言葉があると言う。曰く、ある時、渥美が歩道の鎖を盗み、それを売ろうとして警察に補導された事があった。その時の刑事に、「お前の顔は、個性が強すぎて一度見たら忘れられない。その顔を生かして、犯罪者になるより役者になれ」と言われた事が役者を目指すきっかけになったとの事である(上記、『渥美清の肖像・知られざる役者人生』によれば、テキ屋稼業に没頭していた頃、浅草の小屋から声をかけられそれが転機のキッカケとなったとされている)。

長男の田所健太郎はニッポン放送の入社試験の際、履歴書の家族欄に『父 田所康雄 職業 俳優』と書いたことから、採用担当者は大部屋俳優の息子と思っていた。後に渥美清が彼の父親として来社したため、社内は騒然となった。

また晩年は俳句を趣味としていて『アエラ句会』(AERA主催)において「風天」の俳号でいくつかの句を詠んでいる。


出演

映画
おトラさん大繁盛(1958年)
大江戸評判記 美男の顔役(1962年)
あいつばかりが何故もてる(1962年)
おかしな奴(1963年)
つむじ風(1963年)
拝啓天皇陛下様(1963年)
無宿人別帳(1963年)
散歩する霊柩車(1964年)
続・拝啓天皇陛下様(1964年)
拝啓総理大臣様(1964年)
ブワナ・トシの歌(1965年)
沓掛時次郎 遊侠一匹(1966年)
喜劇列車シリーズ(1967年 - 68年、全3作)
父子草(1967年)
燃えつきた地図(1968年)
白昼堂々(1968年)
スクラップ集団(1968年)
喜劇 爬虫類(1968年)
でっかいでっかい野郎(1969年)
男はつらいよシリーズ(1969年 - 96年、全48作)
トラ・トラ・トラ!(1970年)※日本公開版のみ
あゝ声なき友(1972年)
故郷(1972年)
砂の器(1974年)ひかり座の支配人
ビューティフル・ピープル ゆかいな仲間(1974年)日本語版ナレーター
友情(1975年)
八つ墓村(1977年)
幸福の黄色いハンカチ(1977年)渡辺係長
皇帝のいない八月(1978年)
遙かなる山の呼び声(1980年)
キネマの天地(1986年)喜八
二十四の瞳 (映画)(1987年)ナレーター
ダウンタウンヒーローズ(1988年)ナレーター
学校(1993年)八百屋の親父

テレビ
第14回NHK紅白歌合戦(1963年) 応援ゲスト
渥美清の泣いてたまるか
東芝日曜劇場(多数出演)
ヨイショ(1974年6月 - 11月、TBS放映)
徹子の部屋(1979年1月3日放送分)
田舎刑事
「幾山河は越えたれど〜昭和のこころ 古賀政男〜」(古賀政男役)

CM
エーザイ
ブリヂストン 新・回転理論技術「DONUTS(ドーナツ)」 専属キャラクター
1995年から自身が逝去する直前まで、「ニッポンのタイヤが変わります」のキャッチフレーズでCM出演していた。
渥美清の逝去後は、歌手・女優の西田ひかるが後継キャラクターとして引き継いだ。
ロート製薬 「パンシロン」
ブリヂストンと同じく逝去直前に「パンシロン新胃腸薬」のCMに復帰出演していた。
中外製薬「バルサン」
いすゞ自動車 「エルフ」
日本テレコム
朝日新聞 - キャッチコピーは「歴史は、あっちこっちで作られる。」。コピーライターの仲畑貴志の作である。

親族
田所健太郎
長男。株式会社ニッポン放送に所属していたラジオディレクター。主な担当番組に伊集院光のOh!デカナイトがある 。現在は株式会社ニッポン放送を退社し、フリーのラジオディレクター。

演じた俳優
南原清隆

ものまねをする芸人
原一平 寅さんのものまねは、渥美本人も生前から認めていた、唯一の渥美清公認ものまね芸人。寅さんのものまねをする際に着用する衣装は渥美本人が映画で実際に使っていたのを譲り受けた物である。
フランクさな寅(フランクさな寅ブログ) 地元ですら知る人ぞ知る「広島の寅さん」。TSS「親子笑劇場電太郎一家」(ローカルミニドラマ。既に終了)にドラ猫のドラ役で出演していた。
野口よういち 山田洋次監督公認。
山口智充(「ワンナイR&R」にて)

参考文献
おかしな男 渥美清(小林信彦、新潮文庫)
知られざる渥美清(大下英治、廣済堂文庫)

以上、フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』転載。