昭和30年代!!
宅ふぁいる便 ご存知?

か行

ドル箱「座頭市」で一世を風靡した男 勝新太郎!

勝 新太郎(かつ しんたろう、1931年11月29日 - 1997年6月21日)は、日本人の俳優。歌手活動もしていた。本名は奥村利夫(おくむら としお)。愛称は「かつしん」。長唄三味線の杵屋勝東治の次男。東京都江東区深川の生まれ。妻は中村鴈治郎 (2代目)の長女で同じ大映の女優・中村玉緒。兄は若山富三郎。長男は鴈龍太郎。

10代は長唄と三味線の先生として、深川の芸者に稽古をつける。長唄名は杵屋勝丸(2代目)。1954年アメリカ巡業の最後に、撮影所で紹介されたジェームス・ディーンと出会い映画俳優になることを決意し、転向。23歳の時に大映京都撮影所と契約、1954年の『花の白虎隊』でデビュー。大映社長永田雅一は勝を可愛がり、白塗りの二枚目として市川雷蔵に次ぐ役者として熱心に主要な役を与え続けたがさっぱり人気は出なかった。同年代の雷蔵、山本富士子、若尾文子が早々と大スターとなり君臨する中、憧れの長谷川一夫そっくりのメークも板につかず、客があまりに入らないので映画館の館主達からは「いい加減に勝を主役にした映画を作るのはやめてくれ」と苦情が絶えなかったほどだった。

しかし白塗りの二枚目を捨てた1960年の『不知火検校』で勝は本領を発揮しはじめる。翌1961年、中村玉緒と婚約。一匹狼のやくざ・朝吉役で主演した『悪名』(田中徳三監督、今東光原作、依田義賢脚本、田宮二郎共演)で共演。その中で肉屋の女中・お絹役の玉緒に朝吉が「きっと妻にします」と一札を入れるシーンがある。この映画が最初の大ヒットとなりシリーズ化。1962年3月5日、永田の媒酌で結婚。 続く『座頭市』『兵隊やくざ』で絶大なる人気を獲得し、1963年には、長谷川、山本が大映を退社する中、勝は一躍大映の大黒柱の一人となる。特に一連の座頭市シリーズでの演技は評価が高く、日本のみならずアジア各地でも上映され、勝の代表作にまでなる。

1967年に勝プロダクションを設立、自ら映画製作に乗り出す。大手五社によるブロックブッキング体制・五社協定崩壊の中、三船敏郎の三船プロ、石原裕次郎の石原プロ、中村錦之助(萬屋錦之介)の中村プロなどスター・プロの流れに呼応。 当時、経営が傾いていた大映が飛びついていた若者向けの暴力・エロ・グロ路線とは一線を画し、三隅研次、安田公義、森一生、増村保造ら大映出身の監督たちと時代劇の伝統を絶やさぬよう製作を続け、勅使河原宏、斎藤耕一、黒木和雄らアバンギャルドな異才とも製作で手を組んだ。また『男一匹ガキ大将』、実兄・若山富三郎主演の『子連れ狼』、自身も主演した『御用牙』など、マンガ・劇画を映画化するという新機軸の中にはヒットしたものもあり、テレビドラマ製作にも進出。1970年代前半には映画製作者として一時代を築き、日本のみならず東南アジアの映画マニアに影響を与えた。 1971年、大映の最末期に製作・監督・脚本・主演をこなした『顔役』は撮影所での映画作りの決まりごとをすべて破って作られている。

1974年から1979年にかけて座頭市をテレビドラマとして合計4シーズン、全100話を製作する。

プライベートでのトラブルが絶えず、1978年に、アヘンの不法所持で書類送検される。

1979年には黒澤明監督の映画「影武者」の主役に抜擢されるが、監督と衝突して降板。

1981年に勝プロダクションは12億の負債を残し倒産した。会見時に「勝新太郎は負けない」と述べ、借金と戦っていくことを宣言する。翌年1982年中村玉緒を社長とした勝プロモーションを設立する。

1989年に長年の沈黙を破り、自らの製作・監督・脚本・主演により『座頭市』を完成させたが、長男・奥村雄大(現・雁龍太郎)が真剣を使い殺陣の撮影中、死体となっている役の役者を刺し死亡させてしまう。これが勝新太郎の最後の製作映画となった。1990年の黒木和雄監督の『浪人街』が最後の映画出演となり、以後は舞台などで主演を務める。

1990年1月16日にアメリカ合衆国ハワイ州のホノルル空港で、下着にマリファナとコカインを入れていて、現行犯逮捕される。記者会見で「今後は同様の事件を起こさないよう、もうパンツをはかないようにする」「なぜ、私どもの手にコカインがあったのかって事を知りたい。俺が知りたい。」と最後までとぼけ通した。結局誰から麻薬を受け取ったのか、最後まで口を割ることはなかった。裁判では「傍聴者」を「観客」と呼び、客を楽しませる台本まで考えてから出廷したといわれている。

1982年に母・八重子が死去した際、「俺を産んでくれたところに顔を埋めてキスをしたよ」と発言。1992年、兄、若山が死去、納骨式の際、カメラの前で兄の遺骨を食べ、涙を流した。1996年、父であり長唄の長老、杵屋勝東治が死去。父がなくなる数日前から添い寝し、施主も務めた勝は墓前での納骨式の際、火葬場でこっそり懐に入れた遺骨の一部を取り出して泣きながら食べ、「とうとうお別れだけど、これで父ちゃんは俺の中に入った」とコメント。このように、勝の肉親への強い思い入れを改めて印象付けた。

1996年7月に下咽頭癌を発病し手術をせずに、抗癌剤と放射線治療を行なった。入院中も外出を繰り返し寿司や酒を楽しみ、煙草は絶対に止めなかった。約4ヶ月後の同年11月の手術後の記者会見では「煙草はやめた」と言いながら堂々と喫煙した。(一説には療養中は禁煙し、後の喫煙はパフォーマンスだったとも言われている)

晩年は、トライデントシュガーレスガムのCMにも出演していた。

最後の舞台は大阪新歌舞伎座で、中村玉緒と「夫婦善哉」で夫婦役を演じた。

1997年6月21日、下咽頭癌で死去。享年65。

余談
晩年は好きだったB'zのライブにも度々顔を出していた。もともとB'zを聴くようになるきっかけとして、B'zのボーカル稲葉浩志との出会いがある。とある居酒屋で勝が飲んでいたところ、そこに稲葉が来店し、その瞬間一目惚れをしたらしい。「裕次郎以来、最高の男を見た気分だ」と稲葉を絶賛、俳優としてデビューさせようと試みるも、稲葉がB'zのボーカルであった事が分かり諦める。その後、時間の許す限り自ら購入したチケットでライブに訪れていた。ある横浜でのライブに感動した勝はいきなりステージに上がり、稲葉に兄・富三郎の形見の品であるテンガロンハットをプレゼントしている。このテンガロンハットは今現在も稲葉の宝物として、稲葉のプライベートスタジオに大事に飾られていると稲葉本人が発言。病気の療養の為入院した時も、稲葉から贈られた彼のソロアルバム「マグマ」を亡くなるまで何度も聴いた。勝の亡くなった後、B'zは勝へ捧げたとされる曲(「Shower」〜アルバム「SURVIVE」に収録〜)を製作した。また、中村玉緒は「最後にもう一度だけでいい、稲葉さんに会わせてあげたかった」と発言している。
生前、カーペンターズの曲をよく聴いていた。その為、妻・中村玉緒がトリビアの泉にゲスト出演し、カーペンターズに関するネタが出た時「(私、これだけは英語でもよく聴いていました。)主人がよく聴いてて・・…」と言っていた。
60年代後半にはいると大映で雷蔵、京マチ子、若尾に次ぐギャラをもらうようになっており、永田社長に「これだけギャラを上げてくれ」と指2本を出したが、永田は断った。そのため、ストライキを敢行し、結果的に永田が折れる形で決着が着いた。しかし、ギャラが映画1本に付き200万上がり500万円になったため勝は驚いた。何故なら、「20万円上げて欲しかった」事を勘違いされたのである。これで長らく大スターに君臨する同期の雷蔵をも上回る大映NO.1となったと勝は語る。しかしすぐに雷蔵のギャラも500万円となり並んだ。全盛期をとっくに過ぎた映画界としては珍しい太っ腹なエピソードである。三隅研次監督は「経営不振にもかかわらず、永田社長がいかにどんぶり勘定で経営していたかを示すエピソードのひとつだ」と語る。ちなみに入社当時の勝のギャラは1本に付き3万円、雷蔵は1本に付き30万円+ハイヤーの送迎付きであった。雷蔵にライバル心を燃やす勝は自費でハイヤーに乗っていた。
ブレイク前のミスターマリックのショーに感激し、そのときの全ての所持金の約50万円をチップで渡した事がある。
「俺から遊びを取ったら、何も残らない」と豪語し、豪遊は当たり前だった。実兄の若山は下戸であるが、勝は若い頃から大酒のみで座持ちは抜群。得意の三味線や歌、愉快な話を披露し、芸者達をも楽しませた。しかも、取り巻きが飲んでいる間に徐々に増え、最初10人ほどだったのが100人近くに増えることはザラだったという。もちろん、勝が全て支払っていた。同期入社で若い頃より長者番付に入っていた雷蔵がスタッフを飲みに連れて行っても割り勘であったのとは大違いであった。不摂生な生活で肥満し役柄も限定されるようになり、大映倒産後は、時代を追うごとに収入が大幅に減り、借金取りに追われる生活であるにもかかわらず、大スター気分が抜けず、借金で豪遊、高級車に高級な服と外見は豪勢な生活を続けた。そのため債権者や妻の玉緒らに迷惑をかけ、とうとう死ぬまで返済できなかった。
舞台『不知火検校』で、主役でありながら悪行を重ねる不知火検校役で、あまりの填りきった演技に「バカヤロー!死んじまえ!」と、観客から本気と思える野次がとんだ。
石原裕次郎とは、「きょうらい(兄弟をもじった言葉)」と呼び合う仲で、良き友人だった。しかし、ある酒宴の席で大げんかになってしまった。そして、勝が一言「いい芝居だったな、きょうらい?」と言うと、裕次郎も「あ、ああ、いい芝居だった。」と言い、それで手打ちとなった。
1971年、玉緒に対し一方的に離婚宣言。しかし玉緒に相手にされなかったため離婚成立せず。
晩年、妻・中村玉緒に対し、「中村玉緒は勝新太郎無しでも存在し得るが、勝新太郎は中村玉緒無しでは存在し得ない」と最高の賛辞を送った。
死後に残った莫大な借金は、香典代わりにチャラにした債権者も中にはいるという噂もある。

フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 出演作品

映画
座頭市シリーズ

座頭市物語(1962)
続・座頭市物語(1962)
新・座頭市物語(1963)
座頭市兇状旅(1963)
座頭市喧嘩旅(1963)
座頭市千両首(1964)
座頭市あばれ凧(1964)
座頭市血笑旅(1964)
座頭市関所破り(1964)
座頭市二段斬り(1965)
座頭市逆手斬り(1965)
座頭市地獄旅(1965)
座頭市の歌が聞こえる(1966)
座頭市海を渡る(1966)
座頭市鉄火旅(1967)
座頭市牢破り(1967)
座頭市血煙り街道(1967)
座頭市果たし状(1968)
座頭市喧嘩太鼓(1968)
座頭市と用心棒(1970)
座頭市あばれ火祭り(1970)
新座頭市 破れ!唐人剣(1971)
座頭市御用旅(1972)
新座頭市物語 折れた杖(1972)
新座頭市物語 笠間の血祭り(1973)
座頭市(1989)
悪名シリーズ
兵隊やくざシリーズ

テレビドラマ
警視-K(1980年)
独眼竜政宗(1987年)豊臣秀吉

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日記

数々の主演女優賞を独占したこともある女優 司葉子

司 葉子(つかさ ようこ、1934年8月20日 - )は日本の女優。日本大正村村長。本名相沢葉子(旧姓庄司)。共立女子短期大学卒業。東宝芸能所属。夫は元自由民主党衆議院議員の相沢英之。

鳥取県西伯郡渡村(現境港市渡町)に庄司繁二郎の三女として生まれる。6歳の頃父を亡くす。1954年、共立女子短期大学卒業後、大阪毎日放送局に入社。雑誌の表紙モデルをしたことでスカウトされ、東宝に入社。『君死に給うことなかれ』(1954年)で映画デビュー。デビュー後は東宝の看板女優として数多くの映画に出演し大活躍した。さらにテレビドラマ・舞台にも活躍の場を広げた。1966年に出演した映画「紀ノ川」(原作:有吉佐和子)では第40回キネマ旬報賞主演女優賞・第9回ブルーリボン主演女優賞・第22回毎日映画コンクール主演女優賞・日本映画記者会賞最優秀女優賞など数々の賞を受賞し、その年の演技賞を独占した。

1969年に当時大蔵官僚だった相沢英之と結婚。1999年に日本大正村の村長に就任。


出演作 

映画
君死に給うことなかれ(1954年)
天下泰平(1955年)
夫婦善哉(監督:豊田四郎。1955年 ※DVDあり)
へそくり社長(1956年)
続へそくり社長(1956年)
はりきり社長(1956年)
日蝕の夏(共演:石原慎太郎。1956年)
青い山脈 新子の巻(1957年)
続青い山脈 雪子の巻(1957年)
忘却の花びら(1957年1月。 ※ビデオあり)
忘却の花びら 完結篇(1957年7月。 ※ビデオあり)
美貌の都(1957年。 ※ビデオあり)
社長三代記(1958年)
続社長三代記(1958年)
鰯雲(監督:成瀬巳喜男。1958年。 ※ビデオあり)
すずかけの散歩道(1959年。 ※ビデオあり)
愛妻記(1959年。 ※ビデオあり)
大学のお姐ちゃん(1959年。 ※ビデオあり)
日本誕生(1959年。 ※ビデオあり)
秋日和 Late Autumn (監督:小津安二郎。1960年。 ※DVDあり)
地の涯てに生きるもの(1960年。 ※ビデオあり)
サラリーマン忠臣蔵(1960年。※DVDあり)
続サラリーマン忠臣蔵(1961年 ※DVDあり)
用心棒 The Bodyguard (ヴェネチア国際映画祭男優賞(三船敏郎)受賞作品。監督:黒澤明。 ※DVDあり)
小早川家の秋 The End of Summer (監督:小津安二郎。1961年)
サラリーマン清水港(1962年)
続サラリーマン清水港(1962年)
その場所に女ありて(1962年)2007年ケーブルテレビで放送
忠臣蔵 花の巻 雪の巻(1962年。 ※DVDあり)
社長紳士録(1964年)
続社長紳士録(1964年)
社長忍法帖(1965年)
続社長忍法帖(1965年)
大根と人参(1965年。 ※ビデオあり)
社長行状記(1966年)
続社長行状記(1966年)
ひき逃げ(監督:成瀬巳喜男。1966年)
紀ノ川(1966年。 ※DVDあり)
上意討ち 拝領妻始末 Samurai Rebellion (ヴェネチア国際映画祭国際映画批評家連盟賞受賞作品。監督:小林正樹。1967年)
乱れ雲(監督:成瀬巳喜男。1967年。 ※DVDあり)
社長千一夜(1967年)
続社長千一夜(1967年)
社長繁盛記(1968年)
続社長繁盛記(1968年)
社長えんま帖(1969年)
続社長えんま帖(1969年)
新選組(1969年)
社長学ABC(1970年)
続社長学ABC(1970年)
ノストラダムスの大予言(1974年)
獄門島(1977年)
女王蜂(監督:市川崑。1978年。 ※DVDあり)
残照(1978年)
生きてはみたけれど 小津安二郎伝(1983年。 ※ビデオあり)
愛の陽炎(1986年。 ※ビデオあり)
勝利者たち(1992年)
福耳(共演:宮藤官九郎。2003年。 ※DVDあり)

舞台
海抜三二○○米
華岡青洲の妻
紀ノ川
和宮様御留
一弦の琴
いまが女ざかり
女はおんな
風まかせ女まかせ

テレビドラマ
細雪(1965年、日本テレビ)
武蔵野夫人(1965年、日本テレビ)
春の坂道(1971年、NHK)
大忠臣蔵(1971年、テレビ朝日)
氷壁(1972年、NHK)
横溝正史シリーズU 仮面劇場(1978年、毎日放送)
赤い魂(1980年、TBS)
大奥(1983年、フジテレビ)
斜陽(1993年、原作:太宰治、テレビ東京)

その他のテレビ番組
「SMAP×SMAP」 ※ビストロSMAPゲスト(フジテレビ)
「森田一義アワー 笑っていいとも!」(※テレフォンショッキングゲスト。フジテレビ)
「さんまのまんま」(関西テレビ系。※星由里子と2人で出演)
「3時のあなた」(1977年-1978年(メイン司会者)。フジテレビ)
「すばらしき仲間」(TBS)
「奥さま8時半です」(TBS)
「徹子の部屋」(テレビ朝日)
「丈晴・富士子のさわやかサロン」(テレビ朝日。山本富士子夫妻のトーク番組)
「よみがえる青春スター」(NHK衛星第2テレビジョン)
「クイズ面白ゼミナール」(NHK総合)
「すてきな出逢い いい朝8時」(毎日放送系全国ネット)
「それは秘密です」(1975年-1987年、日本テレビ)
「いつみても波瀾万丈」(日本テレビ)
「ザ!情報ツウ」(日本テレビ)
「知ってるつもり?!」(日本テレビ)
「モーニングアップル」(フジテレビ系)
「クイズ!年の差なんて」(1988年−1994年、フジテレビ)
「ライオンのごきげんよう」(フジテレビ)
「世界馬紀行」(ナレーション。テレビ東京)
「たけしの誰でもピカソ」(2006年10月20日。テレビ東京)

以上、フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より転載。





ま行

世界的な名俳優はこの人 三船敏郎

三船 敏郎(みふね としろう、1920年4月1日 - 1997年12月24日)は世界の映画史に残る日本の俳優。

ベネチア国際映画祭主演男優賞を2度受賞するなど海外での評価も高く、「世界のクロサワ」の黒澤明と共に「世界のミフネ」と呼ばれた。米映画「グラン・プリ」、70mm「太平洋の地獄 Hell in the Pacigic」フランス映画「レッド・サン」など海外作品出演も多数。稼ぎも歴代の日本のスターの中で別格であり、経営する三船プロダクションは東京世田谷に大手の映画会社に次ぐ規模のスタジオを所有し、大勢のスタッフを常時雇用していた。

元俳優で映画プロデューサーの三船史郎、女優の三船美佳は内縁の妻との間にできた子供。

中国・山東省青島で貿易商、写真業を営む三船徳造の長男として生まれる。父は秋田県鳥海町出身。若い頃から、良い意味でも悪い意味でもワルだったと言う。その後大連に移り住み、大連中学卒業後、甲種合格で兵役につく。満州陸軍第七航空隊に入隊。写真の経験・知識があるということから写真部に配属され航空写真を扱う。後年もカメラに対するこだわりは深かったという。この時期に知り合った鷺巣富雄とは、その後生涯にわたる交友関係となる。熊本の特攻隊基地で終戦を迎える。日本の敗戦を耳にし、「ざまあみろ」と思った話は有名。

東京の東宝撮影所撮影部にいる先輩である大山年治から「戦後、仕事に困ったら尋ねてきなさい」と言われていた為、カメラマン助手の仕事を依頼。履歴書を提出したところ、「何かの手違いで」東宝第一期ニューフェイス募集に回されていたため、面接を受けることになった。人を食ったような態度(笑ってみて、と審査員に言われた時「面白くもないのに笑えませんよ」と答えたという)で不合格になりかけたが、山本嘉次郎監督が審査員をしていた中、山本の弟子ともいえる黒澤明がたまたまそれを目撃した。黒澤は「彼を採用してくれ。駄目だったら俺が全て責任をとる」とまで直訴。太々しさの中に見える大器の可能性も買われて補欠採用され、思わぬ形で役者の世界に入った。

1947年に黒澤が脚本、黒澤の盟友・谷口千吉が監督をつとめた映画「銀嶺の果て」でデビュー。雪山で遭難する三人の内の一人を演ずるが、二人目は志村喬だった。翌1948年にはデビュー三作目として黒澤監督「酔いどれ天使」に、破滅的な生き方をするチンピラ役で登場した。主演は医師役の志村だったが、ぎらぎらした野性味あふれる演技で圧倒、一躍人気が上昇する。

その後黒澤作品には欠かせぬ存在となり「酔いどれ天使」から「赤ひげ」までの16年間、出演しなかった黒澤映画は「生きる」一作のみである。現代劇、時代劇問わぬ黒澤映画の顔であったが、黒澤との確執も伝えらた。三船の死後、黒澤は「会って、三船君、本当によくやったなあ、と褒めてあげたかった。あんな素晴らしい俳優はもういません」と悔やんでいる。ちなみに三船がこの世を去った半年後に黒澤もこの世を去っている。

黒澤作品以外にも稲垣浩監督の「戦国無頼」 (1952) 、「宮本武蔵」 (1954) 、「無法松の一生」 (1958) 、岡本喜八監督の「侍」 (1965) 、「赤毛」 (1969) 、熊井啓監督の「千利休 本覺坊遺文」 (1989) など数多くの作品に主演。初期のころは「七人の侍」の影響か豪放な役が多かったがその後、戦国武将や東郷平八郎・山本五十六といった軍人・偉人の役が多くなった。

晩年は山田洋次監督「男はつらいよ知床慕情」 (1987) の頑固者の老獣医師や、市川崑監督の「竹取物語」 (1987) の竹の造翁など渋い演技を見せた。撮影に入る前に台詞・演技を全て体に覚えさせ、撮影に台本を持参しないことも多い、という高いプロ意識でも知られた。

私生活では、1950年に、東宝第一期ニューフェイスで同期だった女優・吉峰幸子と結婚。その後、女優・喜多川美佳との交際が発覚して幸子夫人と別居。実態は家庭内暴力に悩まされた幸子夫人により、三船が追い出された形だったが、本心は三船の改心を望んでいたという。しかし、三船側より離婚訴訟が起こされるに及んで、家庭内の振る舞いが暴露されることになり、そのイメージが大きく低下した。この間、内縁関係にあった喜多川との間にもうけた娘が、現在の三船美佳である。その後1992年に心筋梗塞で倒れたのをきっかけに、三船は正妻のもとに戻った。

1962年には三船プロダクションを設立し映画「五十万人の遺産」で自ら初監督。映画「黒部の太陽」(石原プロモーションと合同で制作)のほか、「桃太郎侍」「荒野の素浪人」「大忠臣蔵」などテレビドラマを制作した。しかし、1979年に内紛で分裂し、その後は振るわなかった。

1986年春の叙勲で紫綬褒章を、1993年春の叙勲で勲三等瑞宝章を受章。1997年12月24日全機能不全のため死去。享年77。晩年は軽度の認知症を発症していたといわれる。遺作は1995年の「深い河」(熊井啓監督)だった。

海外で空港税関係員に「Do you have any spirits?(あなたはアルコール類を持っていますか?)」と質問され、「Yes! I have Yamato-Damashii!(そうだ、俺は大和魂を持っている)」と堂々と答えたことがある。

達筆で知られ、自社の事務所の掃除も自ら進んでする(訪問者が三船本人と気付かなかったという逸話がある)程の掃除好きだった。

酒癖が悪く、酒を飲むと性格が一変した。酔ってタクシー内で安藤昇に殴りかかり、逆に殴り返され、顔が腫れて翌日は撮影にならなかったこともある。

硬派なイメージの強い三船だが、実際には気さくな一面もあった。

「ダウンタウンDX」に娘の美佳が出演した際、彼のプライベート映像が放送され、美佳にオヤジギャグを言う姿も披露された。
1980年のTBS正月特番ドラマだった「関ヶ原」の宣伝の一環として「8時だョ!全員集合」にゲスト出演。鎧甲を付けた戦国武将の扮装で番組冒頭のコント劇に出演し、同じく戦国武将役のいかりや長介と二言三言の会話を交わして(この時、三船が「カラスの歌を聞きたい」と言ったのでいかりやは志村けんを三船の前に呼び出して「♪カラスの勝手でしょ〜」を歌わせた)舞台袖に退場していったのだが、なんと退場しながら同番組名物だったヒゲダンスを披露。世界的な大スターがドリフターズのギャグを演じたことに対し、客席からは笑いではなく深いどよめきが起きた。これは事前の打ち合わせにはない全くのアドリブだったようで、いかりやは舞台上で「ああいう人が、ああいうことをやるなんて・・・」と真顔で驚嘆した。三船は冒頭コント劇の後で「早口言葉」コーナーにも出演し、真顔でドスの効いた声で「生麦生米生卵・・・」と歌って一同を爆笑の渦に巻き込んだ。

「世界のミフネ」
1951年に「羅生門」がベネチア国際映画祭で金獅子賞を受賞し、クロサワとともにミフネの名も世界に知れ渡った。1961年に初の海外作品「価値ある男」(メキシコ映画)でメキシコ人役で主演。その後の海外の名優との競演は、以下の作品などが挙げられる。

1967年「グラン・プリ」(ジョン・フランケンハイマー監督)イブ・モンタン
1968年「太平洋の地獄」(ジョン・ブアマン監督)リー・マービン
1971年 フランス映画「レッド・サン」(テレンス・ヤング監督)アラン・ドロン、チャールズ・ブロンソン
1976年「ミッドウェイ」チャールトン・ヘストン、ヘンリー・フォンダ
1976年「太陽にかける橋 ペーパータイガー」デビッド・ニーブン
1979年「ウィンターキルズ」ジェフ・ブリジッス
1979年「1941」(スティーブン・スピルバーグ監督)ジョン・ベルーシ
1980年「将軍」リチャード・チェンバレン
1980年「インチョン!」(テレンス・ヤング監督)ローレンス・オリビエ
1980年「最後のサムライ ザ・チャレンジ」(ジョン・フランケンハイマー監督)スコット・グレン
1980年「兜KABUTO」(ゴードン・ヘスラー監督)ショー・コスギ
1994年「シャドー・オブ・ウルフ」ドナルド・サザーランド
1995年「ピクチャーブライド」(カヨ・ハッタ監督)
アラン・ドロンは自らがプロデュースするブランドの香水「サムライ SAMOURAI」の香りのイメージを、「三船敏郎を基調とした日本のサムライ」とした。またマーロン・ブランドは飛行機に乗っていた際、三船が同乗している事を知るや自分から挨拶に行ったというエピソードがあり、三船が死去した時も弔辞を述べている。

しかし黒澤に薫陶を受けたジョージ・ルーカス監督の「スター・ウォーズ」(1977) で、重要な役どころのダース・ベイダー役(当初はオビ=ワン・ケノービ役という説もあったが、娘の三船美佳の証言により「ダース・ベイダー」が正しかったようだ)の申し出を断った逸話は有名。もっとも当時のルーカスは現在ほどの巨匠ではなく、「スター・ウォーズ」もあれほどの大ヒットになるかどうか全く予想できなかった時点(製作前)での話であることに注意が必要。またルーカスが「黒澤に薫陶を受けた」というのは、一人のファンとして黒澤を熱愛し影響を受けたという意味であって、当時(70年代)のルーカスが黒澤と直接会ったり教えを受けたりしていたわけではない。オファーを受けた三船にしてみれば「知らない監督の、わけの分からないSF活劇映画」という印象でしかなかったと言われている。

その後、同じくハリウッド映画の寵児・ スティーヴン・スピルバーグ監督の「1941」(1979) に日本人潜水艦長役で出演するが、興行的には失敗に終わった。その後、「スター・ウォーズ/ジェダイの復讐」(1983) にてダース・ヴェイダーの素顔、アナキン・スカイウォーカーの役をオファーされるが、これも辞退。(余談だが、出演拒否されると思ってなかった制作側は三船をイメージした商品を許諾、このため最初期のアナキンのアクションフィギュアのパッケージは思いっ切り三船顔になっているのが興味深い。)さらに「ベストキッド」(1984)のミヤギ役を断っている(代わりに出演した日系人俳優パット・モリタはアカデミー助演男優賞にノミネートされた。)

米国人に最も有名なのはテレビドラマ「SHOGUN 将軍」(1980) の将軍役で、ミフネ=サムライのイメージが固定した。1980年代のアメリカの人気テレビショー・サタデー・ナイト・ライブではジョン・ベルーシが用心棒の主役の物まねで人気を博した。 米国産コンピュータRPGのウィザードリィには、敵役サムライの首領的存在として「ミフネ」が登場してくる。また「マトリックス・リローデッド」「マトリックス・レボリューションズ」には「ミフネ船長」なる人物も登場し、アジア系ではないが容姿の良く似た俳優が起用されている。

海外での受賞やノミネート歴は、1955年「七人の侍」で英国アカデミー賞主演男優賞(外国語)ノミネート。1961年「用心棒」でヴェネチア映画祭主演男優賞、シネマヌーヴァ金額賞。1965年「赤ひげ」でヴェネチア映画祭主演男優賞、1980年「将軍」で米国エミー賞主演男優賞ノミネート。その他、フランスの芸術文化勲章、モントリオール映画祭特別グランプリ、マニラ映画祭では「最もセクシーな俳優」に選ばれた事もある。

三船は多くの日本の俳優(渡辺謙や松田優作を含む)と違い、海外からの出演オファーは数え切れないほど多く、晩年においても一年で通常の段ボール箱が一杯になるほど依頼が殺到していた。三船の出演を決断させる要素は「日本人を茶化さない」、「三船プロの運営に支障をきたさない(デルス・ウザーラやスター・ウォーズの出演辞退はこれに該当)」、「制作サイドの誠意ある交渉」等があり、それらの条件をクリアした相手に対しては「出演させていただきます」というような誠意をもって応えた。

晩年は米映画「Shadow of the Wolf」 (1993) のイヌイット族長役や 「Picture Bride(ピクチャー・ブライド)」 (1994) の日本人弁士役としても出演し、老境の渋みをみせた。なお、死後の1999年には、ミフネの演じたサムライへのオマージュともいえるデンマーク映画「ミフネ」がベルリン映画祭銀熊賞を受賞した。


主な出演作品

映画
★印は黒澤監督作品。

「銀嶺の果て」(1947年)
★「酔いどれ天使」(1948年)
★「静かなる決闘」(1949年)
★「野良犬」(1949年)
★「醜聞(スキャンダル)」(1950年)
★「羅生門」(1950年)ヴェネチア映画祭金獅子賞、米アカデミー賞外国語映画賞、米アカデミー賞美術賞ノミネート、ナショナル・ボード・オブ・レビュー監督賞・外国語映画賞
★「白痴」(1951年)
「馬喰一代」(1951年)
「西鶴一代女」(1952年)ヴェネチア映画祭国際賞
「戦国無頼」(1952年)
「太平洋の鷲」(1953年)
★「七人の侍」(1954年)ヴェネチア映画祭銀獅子賞、米アカデミー賞美術賞・衣装デザイン賞ノミネート
「潮騒」(1954年)
「宮本武蔵」(1954年)米アカデミー賞外国語映画賞
★「生きものの記録」(1955年)カンヌ映画祭コンペティション
「暗黒街」(1956年)
★「蜘蛛巣城」(1957年)ヴェネチア映画祭コンペティション、ロサンゼルス映画賞
「柳生武芸帳」(1957年)
★「どん底」(1957年)
「無法松の一生」(1958年)ヴェネチア映画祭金獅子賞
★「隠し砦の三悪人」(1958年)ベルリン映画祭監督賞、国際批評家連盟賞
「独立愚連隊」(1959年)
「日本誕生」(1959年)
★「悪い奴ほどよく眠る」(1960年)ベルリン映画祭コンペティション
「ハワイ・ミッドウェイ大海空戦 太平洋の嵐」(1960年)
★「用心棒」(1961年)ヴェネチア映画祭主演男優賞、米アカデミー賞衣装デザイン賞ノミネート
「価値ある男」(1961年、メキシコ映画)米アカデミー賞外国語映画賞ノミネート、ゴールデングローブ賞外国語映画賞
★「椿三十郎」(1962年)
「太平洋の翼」(1963年)
★「天国と地獄」 (1963) ヴェネチア映画祭コンペティション
「五十万人の遺産」(1963年、製作・監督も担当)
「大盗賊」(1963年)
「侍」(1965年)
★「赤ひげ」(1965年)ヴェネチア映画祭主演男優賞・サンジョルジュ賞
「太平洋奇跡の作戦 キスカ」(1965年)
「奇巌城の冒険」(1966年)
「日本のいちばん長い日」(1967年)
「グラン・プリ」(1967年)米アカデミー賞編集賞・音響賞・音響効果編集賞
「黒部の太陽」(1968年)
「連合艦隊司令長官 山本五十六」(1968年)
「太平洋の地獄」(1968年)
「風林火山」(1969年)
「日本海大海戦」(1969年)
「赤毛」(1969年)
「新選組」(1970年)
「座頭市と用心棒」(1970年)
「幕末」(1970年)
「激動の昭和史・軍閥」(1970年)
「待ち伏せ」(1971年)
「レッド・サン」(1971年、フランス映画)
「太陽にかける橋・ペイパー・タイガー」(1976年、イギリス映画)
「ミッドウェイ」(1976年、アメリカ映画)山本五十六役
「人間の証明」(1977年)
「柳生一族の陰謀」(1978年)
「赤穂城断絶」(1978年)
「水戸黄門」(1978年)
「Winter Kills」(1979年、アメリカ映画)
「金田一耕助の冒険」(1979年)
「1941」(1980年、アメリカ映画)
「インチョン!」(1980年、アメリカ映画)
「二百三高地」(1980年)
「SHOGUN 将軍」(1980年、アメリカ映画)
「日本海大海戦 海ゆかば」(1983年)
「海燕ジョーの奇跡」(1984年)
「シャタラー」(1987年、日本・イタリア合作映画)
「男はつらいよ 知床慕情」(1987年)
「竹取物語」(1987年)
「千利休 本覺坊遺文」(1989年)ヴェネチア映画祭銀獅子賞
「兜KABUTO」(1991年、アメリカ映画)
「深い河」(1995年)モントリオール映画祭エキュメニカル賞
「Shadow of Wolf」(1996年、フランス・カナダ合作映画)
「ピクチャーブライド」(1996年日本公開、アメリカ映画)カンヌ映画祭コンペティション

テレビドラマ
「大忠臣蔵」 (1971)
「荒野の素浪人」 (1972)
「荒野の用心棒」 (1973)
人魚亭異聞 無法街の素浪人(1976年、NET/三船プロダクション)
「隠し目付参上」 (1976)
「江戸の鷹 御用部屋犯科帖」 (1978)
「赤穂浪士」 (1979)
「江戸の牙」 (1979 - 1980)
「関ヶ原」 (1981)
「素浪人罷り通る」 (1981)
「勇者は語らず いま、日米自動車戦争は」 (1983)
「山河燃ゆ」 (1984)







か行

グランプリー女優の異名をとった女優!! 京マチ子

京 マチ子(きょう まちこ、本名:矢野元子(やの・もとこ)1924年3月25日 - )は、日本の女優。大阪府大阪市出身。血液型O型。

OSK(大阪松竹歌劇団、娘役)を経て、1949年、大映に入社し女優デビュー。後輩の若尾文子、山本富士子と共に大映の看板女優として大活躍。「羅生門」(1950年)、「地獄門」(1953年)など、海外の映画祭で主演作が次々と受賞し「グランプリ女優」と呼ばれる。1971年の大映倒産以降はテレビドラマと舞台に活動の場を移す。80歳を過ぎた現在も舞台で主演を続けている。

長谷川一夫は共演する女優に熱心に演技をつけたが、その影響から脱皮するのに苦労する女優が多いなか、京はむしろ積極的に継承し、生涯信奉に近い長谷川への敬愛を持ち続けたという。

私生活では、一人っ子として出生も5歳で父が蒸発により生別、母と祖母の手で成長した経緯を持つ。大映社長永田雅一との恋愛関係が憶測された時期もあったが、デビュー以来今日まで独身を通す。


受賞・受章歴
1950年:第5回毎日映画コンクール・主演女優賞 『羅生門』、『偽れる盛装』
1964年:第19回毎日映画コンクール・主演女優賞 『甘い汗』
1987年:紫綬褒章
1994年:勲四等宝冠章
1995年:第18回日本アカデミー賞・会長特別賞

出演作品

映画
団十郎三代(1944年、松竹)
最後に笑う男(1949年、大映)
花くらべ狸御殿(1949年、大映)
地下街の弾痕(1949年、大映)
三つの真珠(1949年、大映)
痴人の愛(1949年、大映)
蛇姫道中(1949年、大映)
続・蛇姫道中(1950年、大映)
遙かなり母の国(1950年、大映)
浅草の肌(1950年、大映)
美貌の海(1950年、大映)
復活(1950年、大映)
羅生門(ヴェネチア国際映画祭グランプリ(サン・マルコ金獅子賞)、イタリア批評家賞受賞作品。アカデミー賞名誉賞(最優秀外国語映画)受賞作品/監督:黒澤明/1950年、大映)
火の鳥(1950年、大映)
偽れる盛装(監督:吉村公三郎/1951年、大映)
源氏物語(カンヌ国際映画祭撮影賞受賞作品/原作:紫式部/監督:吉村公三郎/1951年、大映)
自由学校(監督:吉村公三郎/1951年、大映)
恋の阿蘭蛇坂(1951年、大映)
情炎の波止場(1951年、大映)
牝犬(1951年、大映)
馬喰一代(1951年、大映)
浅草紅団(1952年、大映)
長崎の歌は忘れじ(監督:田坂具隆/1952年、大映)
滝の白糸(1952年、大映)
美女と盗賊(1952年、大映) 
大仏開眼(1952年、大映)
総理大臣と女カメラマン 彼女の特ダネ(1952年、大映)
地獄門  Gate of Hell (カンヌ国際映画祭グランプリ受賞作品。第27回アカデミー賞衣裳デザイン賞、名誉賞(最優秀外国語映画)受賞作品/初のカラー映画出演/1953年、大映)
黒豹(1953年、大映)
あにいもうと(監督:成瀬巳喜男/1953年、大映)
雨月物語(ヴェネチア国際映画祭サン・マルコ銀獅子賞、イタリア批評家賞受賞作品/第28回アカデミー賞衣裳デザイン賞白黒映画部門ノミネート作品/監督:溝口健二/1953年、大映)
或る女(監督:豊田四郎/1954年、大映)
愛染かつら(1954年、大映)
春琴物語(1954年、大映)
浅草の夜(1954年、大映)
千姫(1954年、大映)
馬賊芸者(1954年、大映)
春の渦巻(1954年、大映)
薔薇はいくたびか(1955年、大映)
楊貴妃(監督:溝口健二/1955年、大映)
藤十郎の恋(1955年、大映)
新女性問答(1955年、大映)
新・平家物語 義仲をめぐる三人の女(1956年、大映)
虹いくたび(1956年、大映)
赤線地帯(監督:溝口健二/1956年、大映)
月形半平太 花の巻/嵐の巻(1956年、大映)
八月十五夜の茶屋 The Teahouse of the August Moon (第14回ゴールデングローブ賞 主演女優賞 (ミュージカル・コメディ部門)ノミネート/共演:マーロン・ブランド(Marlon Brando)、グレン・フォード(Glenn Ford)、エディ・アルバート(Eddie Albert)/1956年) - MGM、アメリカ映画
いとはん物語(1957年、大映)
スタジオはてんやわんや(1957年、大映)
踊子(1957年、大映)
女の肌(1957年、大映)
地獄花(1957年、大映)
夜の蝶(監督:吉村公三郎/1957年、大映)
穴(監督:市川崑/1957年、大映)
有楽町で逢いましょう(1958年、大映)
悲しみは女だけに(監督:新藤兼人/1958年、大映)
母(1958年、大映)
忠臣蔵(1958年、大映)
大阪の女(1958年、大映)
赤線の灯は消えず(1958年、大映)
夜の素顔(監督:吉村公三郎/1958年、大映)
娘の冒険(1958年、大映)
あなたと私の合言葉 さよなら、今日は(監督:市川崑/1959年、大映)
女と海賊(1959年、大映)
夜の闘魚(1959年、大映)
次郎長富士(1959年、大映)
鍵(カンヌ国際映画祭審査員特別賞受賞作品/監督:市川崑/1959年、大映)
浮草 Floating Weeds (監督:小津安二郎/1959年、大映)
細雪(2度目の映画化/1959年、大映)
女経・第三話「恋を忘れていた女」(監督:吉村公三郎/1960年、大映)
足にさわった女(監督:増村保造/1960年、大映)
流転の王妃(監督:田中絹代/1960年、大映)
ぼんち(監督:市川崑/1960年、大映)
三人の顔役(1960年、大映)
顔(原作:丹羽文雄/1960年、大映)
お伝地獄(1961年、大映)
婚期(監督:吉村公三郎/1961年、大映)
女の勲章(1961年、大映)
濡れ髪牡丹(1961年、大映)
小太刀を使う女(1961年、大映)
釈迦(1961年、大映)
黒蜥蜴(原作:三島由紀夫/1962年、大映)
仲よし音頭 日本一だよ(1962年、大映)
女の一生(監督:増村保造/1962年、大映)
女系家族(原作:山崎豊子/1963年、大映)
現代インチキ物語 ど狸(1964年、大映)
甘い汗(監督:豊田四郎/1964年、東宝)
沈丁花(1966年、東宝)
小さい逃亡者(1966年、大映)
他人の顔(監督:勅使河原宏/1966年、東宝)
千羽鶴(原作:川端康成/監督:増村保造/1969年、大映)
玄海遊侠伝 破れかぶれ(1970年、大映)
華麗なる一族(原作:山崎豊子/監督:山本薩夫/1974年、東宝) - 万俵大介の愛人・高須相子役
ある映画監督の生涯 溝口健二の記録(※ドキュメンタリー映画/監督:新藤兼人/1975年、近代映画協会)
金環蝕(監督:山本薩夫/1975年、大映)
妖婆(監督:今井正。1976年、大映)
男はつらいよ 寅次郎純情詩集(監督:山田洋次/1976年、松竹) - シリーズ第18作、マドンナ役。
化粧(1984年、松竹)

テレビドラマ
あぶら照り(1964年・フジテレビ)
蘭の殺人(1970年・日本テレビ)
嫁ふたり(1972年・朝日放送)
まんまる四角(1973年・TBS)
横溝正史シリーズ・犬神家の一族(1977年・毎日放送)
家路−Mama Don't cry(1979年・TBS)
家路PART2(1979年 - 1980年・TBS)
必殺シリーズ(朝日放送)
必殺仕舞人(1981年)
新・必殺仕舞人(1982年)
必殺仕切人(1984年)
ああ離婚(1982年 - 1983年・TBS)
花王名人劇場・姥ざかり(1986年 - 1988年・関西テレビ)
凪の光景(1990年・テレビ朝日)
花の乱(1994年・NHK大河ドラマ)
元禄繚乱(1999年・NHK大河ドラマ/共演:滝沢秀明、東山紀之、萩原健一ほか)
晴れ着ここ一番(晴れ着、ここ一番)(2000年・NHK総合/共演:瀬戸朝香、及川光博、菅原文太、赤西仁(KAT-TUN)ほか/主題歌:竹内まりや) - ※DVD発売

その他のテレビ番組出演
「三枝の爆笑美女対談」(1980年〜1987年、フジテレビ系)
「徹子の部屋」(テレビ朝日)
「もっともっと関西」(ゲストとして生出演。2006年7月7日、NHK大阪)

舞台
黄昏
夕やけ小やけでまだ日は暮れぬ
喜劇 ああ離婚
夏しぐれ
「女たちの忠臣蔵」(2006年9月1日〜9月22日 東京・明治座。2006年11月1日〜26日 名古屋・名鉄ホール。共演:森光子、池内淳子、宇津井健、江原真二郎、植草克秀、涼風真世、えなりかずき)

以上、フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より転載。







な行

日本を代表する俳優のひとり 仲代達矢

仲代 達矢(なかだい たつや、1932年(昭和7年)12月13日 - )は日本の俳優。本名・仲代 元久(なかだい もとひさ)。東京都出身。

劇団俳優座出身で、俳優座のエースとして舞台で活躍した後、「無名塾」を主宰し後進の育成にも務める。演劇面以外でも、黒澤明監督や小林正樹監督の映画作品を中心に多数の主演作品を持つ。主演作の『影武者』がカンヌ映画祭グランプリを受賞するなど海外の評価も高く、日本を代表する俳優のひとりである。映画スターとしては彼以上の人気やヒットを誇るライバルが存在しないわけではないが、同時に舞台俳優としてもトップに君臨し続けたという点では無二の存在である。フリーの強みを生かし、その年のベストテンに入るような名作がフィルモグラフィーを飾る一方、肩の凝らない娯楽作品への出演も少なくない。ヒーロー役だけでなく悪役やダメ男役も得意とする。出演映画が米国アカデミー賞と世界三大映画祭(カンヌ・ヴェネチア・ベルリン)のすべてで受賞しており、四冠を達成している(下記参照)。

父は茨城県の農家出身で東京でハイヤー会社を自営していた仲代忠雄、母は五反田小町と呼ばれた薬局の看板娘・愛子。富裕層の多い青山の青南小学校に通うも、一家は極貧状態で弁当のおかずもなく、孤独な少年時代をすごす。戦後は親戚や弟と、ポン菓子屋、中華そば製麺所を起こしたり、小学校用務員、大井競馬場警備員などのかたわら青南小学校卒業後、北豊島工業学校、東京重機学校などを経て、学制改革ののち、東京都立千歳高等学校(現東京都立芦花高等学校)定時制卒業。民主主義を謳いながら賄賂を要求する小学校教師や一攫千金の夢にとりつかれた競馬狂の姿をみて、コンプレックスや人間不信にさいなまれながらも観察眼を養う。

愛称の「モヤ」は、母が仲代の本名・元久のモと、「ねえや」「ばあや」のヤをかけあわせて呼び始めた。


俳優の道へ
俳優座公演を観劇した際、千田是也の演技に感銘を受け、1952年、高校卒業と同時に俳優座養成所に第4期生として入所。同期生に佐藤慶、佐藤允、中谷一郎、宇津井健などがおり、仲代はバーで働きながら役者修行に励んだ。

養成所時代に、黒澤明監督『七人の侍』(1954年)で、セリフなしの浪人役をつとめて映画デビュー。1955年、養成所を卒業(前年既に初舞台)、俳優座に入団した。異母姉の命名で芸名は「達矢」を名乗る。同年秋の公演『幽霊』で抜擢されて好演、一躍新進舞台俳優となる。この舞台『幽霊』を見た女優の月丘夢路が推薦し、月丘の夫である井上梅次監督に誘われて、同監督の映画『火の鳥』(1956年、日活)で月丘の相手役という大役で映画界にも本格デビューを果たす。翌1957年、小林正樹監督の松竹映画『黒い河』での冷酷なやくざ・通称人斬りジョーの演技などで新進俳優としての評価を更に高めた。

1959年、俳優座所属の女優・宮崎恭子と結婚。


主演俳優に
1959年、小林監督による六部(上映は1961年まで)に及ぶ超大作(総上映時間・約10時間)『人間の條件』で主人公・梶に起用される。撮影1年半に及んだこの作品(原作:五味川純平)で仲代は、戦場においても強い反戦思想のゆえ苦悩する男を演じきり、監督も感服する出来に仕上げ、重量感とスケールを感じさせる俳優としてスターの座を揺るぎないものとした。同年には不敵な犯罪者に扮した『野獣死すべし』も公開。当時、映画会社数社から専属契約を打診されつつも断っている。


名監督たちと
黒澤明監督にも注目され、黒澤映画の常連だった主演スター・三船敏郎に対抗できる敵役俳優として、1961年『用心棒』、翌年『椿三十郎』に連続起用される。ぎらついた悪役ぶりを存分に見せ、仲代の風格を買った監督の期待に応えた。1963年にも黒澤作品『天国と地獄』で誘拐事件を追う刑事役を熱演。

一方、映画では市川崑監督の『鍵』(1959年)、成瀬巳喜男監督の『娘・妻・母』(1960年)、『女が階段を上る時』(1960年)、小林監督の『切腹』(1962年)、『怪談』(1964年)、『上意討ち 拝領妻始末』(1967年)、豊田四郎監督の『憂愁平野』(1963年)、『四谷怪談』(1965年)、岡本喜八監督の『大菩薩峠』(1966年)、『殺人狂時代』(1967年)など、映画会社に縛られない身で名監督たちとの仕事が続く。1968年にはイタリア映画『野獣暁に死す』に出演、東洋人離れした容貌からアメリカ人の悪役を演じている。

1970年代には山崎豊子原作・山本薩夫監督による大作映画『華麗なる一族』(1974年)・『不毛地帯』(1976年)で悲劇的人物を熱演、強烈な印象を残す。

映画会社とは一切専属契約は結ばなかったが、結果的には東宝映画への出演が飛びぬけて多い。これは、岡本、黒澤らとの親交もあるが、仲代の俳優としての資質と同社のモダニズムと共鳴する部分が少なくなかった結果ともなっている。

一方、長らく空白だったテレビドラマでも、1972年のNHK大河ドラマ『新・平家物語』で平清盛を演じ、清盛が出家する後半では実際に剃髪して熱演。


俳優そして俳優養成塾主宰
俳優座の看板俳優だった1975年に、恭子夫人と共に「無名塾」を創立。俳優座では師・千田の信頼も厚く、俳優座の次期主宰者に嘱望されていたが、複雑な人間関係を嫌う仲代は1979年に俳優座を退団してしまった。以後は無名塾公演で、シナリオ・演出を妻に任せ、自分が出演する形で舞台活動を継続してきた。

映画では、1980年の黒澤監督の大作『影武者』で、監督との確執で降板した勝新太郎の代役として急遽主役に抜擢されるが、重圧を跳ね返し見事に好演し、カンヌ映画祭でグランプリを受賞する。

同年には舛田利雄監督の戦争巨編『二百三高地』にも主演、乃木希典司令官を人間味豊かに演じている。さらに、1982年には五社英雄監督『鬼龍院花子の生涯』で、土佐の侠客・鬼政こと鬼龍院政五郎を演じ、彼の火花のような人生を体現するなど、全くタイプの異なる役柄を演じ分け、名実ともに日本を代表する俳優となった。

1985年の黒澤作品『乱』でも主演し“戦国版リア王”として悲劇をたどる秀虎役で、国際的評価を確立した。

時代劇、現代劇を問わず演じられる貴重な俳優として、テレビでは『忠臣蔵』(1991年、大石内蔵助を演じた)、中国残留孤児となった子を探し続ける父親を演じた『大地の子』(1995年)、『秀吉』(1996年、千利休を演じた)などで近年も存在感を存分に発揮している。

俳優座時代、また無名塾公演でも多くのシェイクスピア作品に主演しており、日本を代表するシェイクスピア俳優の一人でもある。

海外での受賞歴は、シシリア・タオルミナ映画祭賞(1971年)、カンヌ映画祭グランプリ(1980年)、マニラ映画祭主演男優賞(1982年)、フランス文化賞シュパリエ芸術勲賞(1992年)など。


家族
恭子夫人とは、1955年に舞台『森は生きている』の共演で急接近し、1959年に結婚。その後、家庭と無名塾の公私両面を二人三脚で乗り切る。夫人が1962年に死産してから夫婦に子がなかったため、夫人の妹宮崎総子(アナウンサー)の娘・奈緒を養女に迎えている(総子は奈緒の実父と離婚している)。奈緒は仲代奈緒の名で歌手になった。1996年、長年連れ添った恭子夫人を癌で失う。

自叙伝『遺し書き』によると、テレビ東京のドキュメンタリー『ネシアの旅人』で太平洋全域の島を訪れ、生きることの意味を再発見して仕事に復帰したという。

脚本家で演出家だった恭子夫人死後の無名塾公演は演出家を招くか、時に仲代自身が演出を兼ねる形で続いている。

弟はシャンソン歌手の仲代圭吾。


逸話
仲代の少年時代からの愛称“モヤ”は養成所時代、また芸能界でも多くの人々に用いられてきている。理由は、仲代の本名の他、仲代の顔の、つかみどころのない独特の雰囲気、また声に抑揚があまりない、という特徴を言い表わした愛称だったためという。
俳優座養成所時代、宇津井健とは性格が随分違っていたゆえに、かえって仲が良かった。『七人の侍』では、ともに浪人役のエキストラとして共演している。
仲代は温厚な性格で知られるが、若き日には共演者の三船敏郎や萬屋錦之介と酒を飲んで、演技論を戦わせた末にケンカした、という血気盛んな逸話を自ら語っている。丹波哲郎も「ケンカが強いのは仲代」と述べている。
映画『黒い河』『椿三十郎』『鬼龍院花子の生涯』など傲岸不遜な役も多かった仲代だが、素顔は全く逆で繊細。妻の宮崎恭子も女優であり、また、数々の女優達とも共演してきたが、めずらしいバラエティー番組出演の『さんまのまんま』(関西テレビ系)では「女優さんって、みんなどうしてあんなに強いんだろうねぇ…。」と語っている。明石家さんまは元妻の女優・大竹しのぶを思い出してか、飲み物を吹き出していた。
大河ドラマ『風林火山』で武田信虎を演じたとき、映画『影武者』で晩年の武田信玄を演じたことを引き合いに出し、「こういった信玄像もあるのか」としきりに感心していた。

主な出演作品

映画
火の鳥(1956年)
サザエさんシリーズ(1956年〜)…ノリスケ
炎上(1958年)…戸刈
裸の太陽 (ベルリン国際映画祭青少年向映画賞受賞作品。1958年)
鍵 (カンヌ国際映画祭審査員賞、ゴールデングローブ賞外国語映画賞受賞作品。1959年)
人間の條件 第一部〜第六部 (ヴェネチア国際映画祭サン・ジョルジョ賞、イタリア批評家賞受賞作品。1959年〜1961年)
野獣死すべし(1959年)…伊達邦彦
女が階段を上る時(1960年)
用心棒(ヴェネチア国際映画祭主演男優賞、アカデミー賞衣装デザイン賞ノミネート。1961年)
椿三十郎(1962年)
切腹(カンヌ国際映画祭審査員特別賞受賞作品。1962年)
天国と地獄(1963年)
怪談 (カンヌ国際映画祭審査員特別賞受賞、アカデミー賞外国語映画賞ノミネート作品。1964年)
東海道四谷怪談(1965年)…伊右衛門
大菩薩峠(1966年)…机竜之助
他人の顔(1966年)
殺人狂時代(1967年)…桔梗信治
上意討ち (ヴェネチア国際映画祭国際映画批評家連盟賞受賞作品。1967年)
野獣暁に死す(1968年、イタリア映画)
地獄変(1969年)
日本海大海戦(1969年)…明石元二郎
いのちぼうにふろう(1971年)
人間革命(1973年)…日蓮
華麗なる一族(1974年)…万俵鉄平
吾輩は猫である(1975年)…珍野苦沙弥
金環蝕(1975年)…星野康雄
吶喊(1975年)…土方歳三
不毛地帯(1976年)…壱岐正
女王蜂(1978年)
火の鳥(1978年)…ニニギ
ブルークリスマス(1978年)
影武者 (カンヌ国際映画祭グランプリ、アカデミー賞美術賞・外国語映画賞ノミネート、セゼール賞外国語映画賞、英国アカデミー賞監督賞受賞作品。1980年)…影武者、武田信玄
二百三高地(1980年)…乃木希典
鬼龍院花子の生涯(1982年)
乱 (アカデミー賞衣裳デザイン賞(ワダ・エミ)受賞作品。1985年)…一文字秀虎
ハチ公物語(1987年)
優駿 ORACION(1988年)…和具平八郎
戦場にかける橋2(1989年、イギリス映画)
226(1989年)…参謀本部次長・杉山元
豪姫(1992年)…古田織部
遠き落日(1992年)…小林栄
妖獣都市 香港魔界編(1992年、香港映画)
子連れ狼 その小さき手に…(1993年)…柳生烈堂
月光の夏(1993年)…風間森介
欽ちゃんのシネマジャック 〜蛍の光〜(1994年)
EAST MEETS WEST(1995年)…勝麟太郎
宮澤賢治-その愛-(1996年)…宮澤静次郎
金融腐蝕列島 呪縛(1999年)…佐々木英明
雨あがる(2000年)
助太刀屋助六(2001年)
白い犬とワルツを(2002年)
陽はまた昇る(2002年)…松下幸之助
阿修羅のごとく(2003年)
男たちの大和/YAMATO(2005年)…老後の神尾元特別年少兵
犬神家の一族(2006年)…犬神佐兵衛

テレビドラマ
ゴメスの名はゴメス
新・平家物語(1972年NHK大河ドラマ 平清盛役)
砂の器(1977年 今西栄太郎役)
丹下左膳 剣風!百万両の壺
樅ノ木は残った
飢餓海峡
友よ静かに瞑れ
忠臣蔵 風の巻・雲の巻
清左衛門残日録
大地の子
秀吉(1996年NHK大河ドラマ 千利休役)
春が来た
世界の中心で、愛をさけぶ - 松本謙太郎役
大化改新(2005年NHKドラマ 南淵請安役)
星に願いを〜七畳間で生まれた410万の星〜(2005年フジテレビ 若宮崇令 役)
新・人間交差点-(2006年NHK、寺島由次役)
風林火山(2007年、NHK大河ドラマ。武田信虎役)

 舞台
赤いランプ
幽霊
ハムレット(ハムレット役)
オセロ(オセロ役)
令嬢ジュリー(下男ジャン役)
東海道四谷怪談(民谷伊右衛門役)
愛の眼鏡は色眼鏡(赤医者役)
友達("男"役)
オイディプス王(オイデップス役)
マンドラゴラ 毒の華
マクベス(マクベス役)
どん底(サーチン役)
プァーマーダラー
ルパン(ルパンとルブランの2役)
肝っ玉おっ母と子供たち(おっ母役)
シラノ・ド・ベルジュラック(シラノ役)
リチャード三世(リチャード役)
ソルネス(ソルネス役)
いのちぼうにふろう物語(幾三役)
愛は謎の変奏曲(ズノルコ役)
セールスマンの死(ウィリー・ローマン役)
ドライビング・ミス・デイジー(ホーク役)

バラエティー番組
SMAP×SMAP(フジテレビ)
さんまのまんま(関西テレビ系)
土曜スタジオパーク(NHK総合)
今日もワクワク(日本テレビ)

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や行

お嫁さんにしたい女優さんの一番手 八千草薫

八千草 薫(やちぐさ かおる、1931年1月6日 - )は、昭和後期・平成期(1940年代後半-)の女優。大阪府出身。夫は映画監督の谷口千吉。本名・谷口瞳。

思春期がちょうど戦時中であり、自宅も空襲で焼け、「色のある・夢のある世界」に飢えていたことから華やかな世界にあこがれた。プール学院在学中に宝塚音楽学校に合格。
1947年から1957年まで宝塚歌劇団で娘役として舞台に立つ。愛称は本名からヒトミ(ちゃん)。
入団当初は『分福茶釜』の狸などコミカルな役を当たり役としたが、1952年源氏物語の初演で可憐で無垢な若紫(光源氏生涯の伴侶紫の上の少女時代)を内・外面とも見事に表現し絶大な評判と人気を博した。以降は美貌・清純派の娘役として宝塚の一時代を風靡。
また宝塚在団中から映画など外部出演をこなし、当時の『お嫁さんにしたい有名人』の統計でたびたび首位に輝いた。
退団後も、舞台をはじめ映画・テレビ・ナレーションなど総合女優として幅広く活躍している。ドラマでは“浮世離れしたお嬢さん出の奥様”役が多い。

人物
高齢になっても、純情可憐という言葉がぴったり。
宝塚時代の経験が、仕事はもちろん、趣味の山歩きでも活きているという。自然環境保全審議会委員を務めたこともある。
穏やかな外見とは裏腹に、テレビドラマ『赤い疑惑』では、主演の山口百恵のスケジュールの都合で、細切れ断片的な収録を余儀なくされたことに納得せず、自ら途中降板するなど、仕事に妥協しない厳しい一面も持っている。

授賞歴
1977年:テレビ大賞主演女優賞『岸辺のアルバム』
家族に隠れて竹脇無我と不倫する主婦を演じた。それまでの良妻賢母的なイメージを打ち破り新たな役どころを開拓。
1986年:菊田一夫賞
1987年:都民文化栄誉賞
1997年:紫綬褒章
2003年:旭日小綬章
2004年:第27回日本アカデミー賞「優秀助演女優賞」(『阿修羅のごとく』)
2004年:毎日映画コンクール「田中絹代賞」

出演作品

映画
『宮本武蔵』 Samurai I - Musashi Miyamoto (第28回アカデミー賞名誉賞(最優秀外国語映画)受賞作品。1954年。初のカラー映画出演。大ヒット。 ※DVD発売)
『蝶々夫人』 Madama Butterfly (リッツォーリ・フィルム、ガローネ・プロ、東宝によるイタリア&日本合作映画。プッチーニ原作の世界的に有名な同名オペラの舞台をそのまま映画のセットで表現した忠実な映画化で、主役の「蝶々さん」役。撮影は全てイタリアのチネチッタ(Cinecittà)で行われ、八千草も渡伊した。1955年)
『雪国』(東宝・1957年)
『ガス人間第一号』(東宝・1960年)
『男はつらいよ 寅次郎夢枕』(1972年)マドンナ役
『田園に死す』(1974年)
『不毛地帯』(1976年)
『ハチ公物語』(1987年)
『サトラレ』(2001年)
『阿修羅のごとく』(2003年)
『交渉人 真下正義』(2005年)
『しゃべれどもしゃべれども』(2007年)
『きみにしか聞こえない』 (2007年)野崎さち役

テレビドラマ
『銭形平次』・お静役(フジテレビジョン系・1966年)
『けったいな人々』(日本放送協会・1973年)
『赤い疑惑』(東京放送系・1975年)
『俺たちの旅』(日本テレビ放送網・1975年)
『岸辺のアルバム』(東京放送系・1977年、主演)
『阿修羅のごとく』(日本放送協会・1979年、主演の里見巻子役)
『ちょっとマイウェイ』・浅井朋子役(日本テレビ放送網・1979年〜1980年)
『源氏物語』(TBS・1980年 桐壷、藤壷二役)
『茜さんのお弁当』(TBS系・1981年、主演)
『季節が変わる日』(日本テレビ系・1982年、主演)
大河ドラマ『徳川家康』・華陽院役(NHK・1983年)
NHK朝の連続テレビ小説『ロマンス』(NHK・1984年、ナレーション)
『風祭』(フジテレビ系、主演)
シャツの店(1986年、NHK)
『私の可愛いひと』(フジテレビ・1986年、主演)
大河ドラマ『独眼竜政宗』・北政所(ねね)役(NHK・1987年)
世にも奇妙な物語 『40年』(1991年、フジテレビ系)
NHK朝の連続テレビ小説『君の名は』(日本放送協会・1991年)
『お玉・幸造夫婦です』(よみうりテレビ・1994年、主演)
橋田壽賀子ドラマ『女の言い分』(東京放送系・1994年、主演)
NHK朝の連続テレビ小説『やんちゃくれ』(・1998年)
『フードファイト』三好悠子役(日本テレビ放送網系・2000年)
『アンティーク 〜西洋骨董洋菓子店〜』(フジテレビジョン系・2001年)
『愛と青春の宝塚』ナレーター(フジテレビジョン系)
『恋人はスナイパー』島村市江役(テレビ朝日系・2001年・2002年、東映・2004年)
大河ドラマ『利家とまつ〜加賀百万石物語〜』・たえ役(日本放送協会・2002年)
『東京物語』(フジテレビジョン系・2002年)
『ビッグマネー!〜浮世の沙汰は株しだい〜』(フジテレビジョン系・2002年)
『愛し君へ』(フジテレビジョン系・2004年)
『星野仙一物語 〜亡き妻へ贈る言葉〜』(TBS系・2005年)
『象列車がやってきた』(日本放送協会・2005年)ナレーター
『二十四の瞳』(日本テレビ放送網系・2005年)
『恋の時間』(東京放送系・2005年)
『白夜行』(東京放送系・2006年)
『拝啓、父上様』(フジテレビジョン系・2007年)

アニメ
『アガサ・クリスティーの名探偵ポワロとマープル』(NHK・2004年)ミス・マープル役(もう一方の主役のエルキュール・ポワロは、里見浩太朗。)

バラエティー番組
「森田一義アワー 笑っていいとも!」(※テレフォンショッキングゲスト、2007年3月14日に5回目の出演。フジテレビ)
「さんまのまんま」(関西テレビ系)
「ライオンのごきげんよう」(※記念すべき第1回ゲスト、1991年1月7日。フジテレビ)
「おしゃれ」(日本テレビ)
「土曜スタジオパーク」(NHK総合)
「生活ほっとモーニング」(2007年4月5日、NHK総合)

エピソード
上記の映画『蝶々夫人』は、有名なオペラとして世界各地で上演されているが、日本文化の描かれ方がめちゃくちゃで、映画を通じて、世界に正しい日本文化やこの作品の情景を伝えようという旨で制作された。そのため、日本家屋のセットはすべて日本から空輸して、現地(チネチッタ)で渡伊した日本人スタッフ(東宝のスタッフ)が組み立てた本格的なもの。もちろん、八千草もヒロイン像にふさわしい「日本人女性の象徴」としてのキャスティングである。また、八千草と共に助演で出演した寿美花代、東郷晴子、伊吹友木子ら当時の宝塚歌劇団団員約30名も一緒に渡伊した。1954年(昭和29年)10月2日、八千草を含む一団が羽田空港(旧・東京国際空港)からイタリアへ出発。ローマ空港に到着した模様や映画撮影中の模様を伝えるニュースフィルム(モノクロ)は今でも現存している。そして、全撮影を終え、同年11月12日、一団は約40日ぶりに日本に帰ってきた。映画制作費は当時の約2億円。

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た行

黄門さまで人気を集めた東野英治郎

東野 英治郎(とうの えいじろう、1907年9月17日 - 1994年9月8日)は日本の俳優。群馬県富岡市出身。明治大学卒業後、新築地劇団に入団。

東野英治郎の実家は日野商人(近江商人)の家系で、出身地とされている群馬県富岡市は店の所在地で、実際の本宅は滋賀県蒲生郡日野町。長男は俳優の東野英心。1944年、小沢栄太郎、千田是也らと共に俳優座を結成。以後、舞台のみならず、映画・テレビで主に貴重な脇役として活躍。

36年以上も続いているTBSテレビ系列の人気時代劇『水戸黄門』で、主役の徳川光圀(水戸光圀)を番組開始の1969年8月4日から1983年4月11日まで演じ、足かけ14年(途中、他の番組と交代している時期もある)、全381回、世直し旅で全国を行脚する黄門様を演じ続けた。月形龍之介に代表されるこれまでの堅く重々しい黄門様のイメージを一新し、頑固だがユーモア溢れる田舎の好々爺的な雰囲気と、事が丸く収まった後の「かっかっかっ!」という明るい高笑いで人気を集めた。

日本テレビの演芸番組『笑点』で林家木久蔵が大喜利で「東野が演じた水戸黄門」の物まねを披露した事があるが、世代を問わず水戸黄門=東野が演じた黄門という共通認識が存在している様である。一世一代の当たり役と言えるだろう。

水戸黄門役が定着していた頃、地方ロケ等に行くと、黄門に扮した東野を手を合わせて拝む老人もいたという。東野はインタビューで「私は役柄と違い、拝んでいただく様な立派な人間ではありませんよと、恐縮し申し訳なく思う」等と発言している。私生活では息子・英心を産んだ妻と離別し別の女性を選んだ為、英心との関係も複雑だったと言われている。

1982年7月、高齢による気力体力の減退等を理由に黄門役から降りる事を表明した。特に台詞覚えが悪くなったのが大きかったらしい。後輩の西村晃にバトンタッチした。

その後も散発的に俳優活動を行っていたが、1994年9月8日、自宅で心不全のため死去。享年86。

亡くなった後、テレビ東京で1994年10月5日に放送された『荒木又右衛門 男たちの修羅』が遺作となる。

晩年に演じた厳しくも優しい水戸黄門役のイメージが強く、俳優としては善人役が定番だと思われがちだが、それ以前、数多くの映画に出演した時はむしろ狡っ辛い悪役が定番だった。これは西村や、月形にも共通している。

声優に良いイメージを持っていなかった為か「洋画の吹き替え、アニメのアフレコなど自分の尺で演技出来ない、芝居とは呼べない外道の所業」と評し永井一郎らに批判されたことがある。


出演作品

映画
自由学校(1951年)
東京物語(1953年)
潮騒(1954年)
七人の侍(1954年)
生きものの記録(1955年)
大番(1957年)
野獣死すべし(1959年)
日本誕生(1959年)
武器なき斗い(1960年)
用心棒(1961年)
安寿と厨子王丸(1961年、声の出演)
世界大戦争(1961年)
キューポラのある街(1962年)
秋刀魚の味(1962年)
天国と地獄(1963年)
古都(1963年)
クレージー作戦 くたばれ!無責任(1963年)
江分利満氏の優雅な生活(1963年)
馬鹿が戦車でやってくる(1964年)
赤ひげ(1965年)
無法松の一生(1965年)
白い巨塔(1966年)
クレージーの怪盗ジバコ(1967年)
太陽の王子 ホルスの大冒険(1968年、声の出演)
続・男はつらいよ(1969年)…坪内散歩先生
トラ・トラ・トラ!(1970年)…南雲忠一中将役
獄門島(1977年)
水戸黄門 (1978年)…水戸光圀
居酒屋兆治(1983年)
あげまん(1990年)

テレビ
泣いてたまるか・「子はかすがい」(1967年、TBS)
進め!青春(1968年、日本テレビ)
男はつらいよ(1968年〜1969年、フジテレビ系・寅さんの恩師・坪内散歩役)
水戸黄門(TBS・C.A.L.)
第1部〜第13部(1969年〜1983年)水戸光圀役
第8部 第4話「黄門さまに似た男・沼津」 喜助役(水戸光圀との二役)
第9部(1978年)第5話「黄門様のそっくりさん・仙台」 大島屋利右衛門役(水戸光圀との二役)
クイズダービー(TBS系・解答者)
荒木又右衛門 男たちの修羅(テレビ東京系・特別出演)

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か行

爽やかな演技で人気女優になった香川京子

香川 京子(かがわ きょうこ、本名;牧野香子、1931年12月5日 - )は、女優。茨城県行方郡麻生町(現行方市)に生まれ、東京都立第十高等学校(現・東京都立豊島高等学校)卒業。

高校卒業後の1949年東京新聞主催の「ニューフェイス・ノミネーション」に合格し、1950年に大日方傳監督の「窓から飛び出せ」でデ ビューする。

ニューフェースに応募したきっかけは高校卒業時に漠然と将来を考えた際に本来はバレリーナになりたかったらしいのだが、高校生から目指すのは遅すぎて、どうしよか考えあぐねている時に新聞の募集欄が目に止まり応募したと云う。

芸名の香川京子は映画会社で用意されていたものが、しっくり来ず,家族と香川自身が考えたもの。本名の"香"と言う文字はどうしても用いたく、また本名の"きょうこ"という音も用いられるこの芸名にしたと言う。

映画会社の協定(専属契約)がある時代に早くからフリーになれたおかげで、各映画会社の映画黄金期の多くの巨匠たちの作品に出演するという幸運に恵まれている。 この多くの巨匠の様々な役に自身がキャスティングされた事について、本人は個性のない普通の雰囲気が使いやすかったのだと思うと,謙遜して答えている。

女優として多くの作品に出演しているが「ひめゆりの塔」に出演した事が転機になったようで、この作品に出会ってから女優としての意義を意識するようになったと語っている。

成瀬巳喜男監督の作品に次々に出演し、さわやかな演技で人気女優となる。また、溝口健二監督の「近松物語」で主役を演じ、その卓越した演技力で賞賛を浴びた。黒澤明監督の作品にも多く出演した。

熊井啓監督の「式部物語」でキネマ旬報助演女優賞、「まあだだよ」で田中絹代賞、日本アカデミー賞最優秀助演女優賞を受ける。1998年には紫綬褒章も受けた。


出演作品

映画
稲妻(1952年)
おかあさん(1952年)
細雪(1950年)
ひめゆりの塔(1953年)
東京物語(1953年) ‐ 平山京子役
近松物語(1954年)
山椒大夫(1954年)ヴェネチア国際映画祭サン・マルコ銀獅子賞受賞作品
どん底(1957年)
人間の壁(1959年)
悪い奴ほどよく眠る(1960年)
モスラ(1961年) ‐ 花村ミチ役
天国と地獄(1963年)
赤ひげ (1965年)ヴェネチア国際映画祭サン・ジョルジョ賞、男優賞(三船敏郎)、ヴェネチア市賞、国際カトリック映画事務局賞受賞作品
華麗なる一族(1974年) ‐ 美馬一子役
男はつらいよ 寅次郎春の夢(1979年) ‐ マドンナ
まあだだよ(1993年)
深い河(1995年)
Shall we ダンス?(1996年) ‐ 岸川恵子役
阿弥陀堂だより(2002年) ‐ 幸田ヨネ役
天国の本屋〜恋火 ‐ 桧山幸役
赤い鯨と白い蛇(2005年) ‐ 雨見保江役

テレビドラマ
花の生涯(1963年、NHK大河ドラマ) ‐ 秋山志津役
樅ノ木は残った(1970年、NHK大河ドラマ) ‐ くみ役
明日がござる(1975年、TBS) ‐ 房子役
水色の時(1975年、NHK朝の連続テレビ小説) ‐ 房子役
春日局(1989年、NHK大河ドラマ) ‐ 寧々役
ふたりっ子(1996年〜1997年、NHK朝の連続テレビ小説) ‐ 有沢理佐子役
一絃の琴(2000年、NHK) ‐ 澤村袖役
はんなり菊太郎(2002年、NHK) ‐ 政江役
ちゅらさん(2001年、NHK朝の連続テレビ小説) ‐ 紺野真知子役
帰ってきたロッカーのハナコさん(2003年、NHK) ‐ 羽根田小春役
妻の旅立ち
オトナの男(1997年、TBS)
渡る世間は鬼ばかり(1993年〜1994年、TBS) ‐ 田村綾子役
家政婦は見た(第20作)(2002年、テレビ朝日) ‐ 叶茂子役
芋たこなんきん(2006年〜2007年、NHK朝の連続テレビ小説) ‐ 花岡和代役

バラエティー番組
「森田一義アワー 笑っていいとも!」(テレフォンショッキングゲスト。フジテレビ)
「2時のワイドショー」(日本テレビ系)
「徹子の部屋」(テレビ朝日)
「スタジオパークからこんにちは」(NHK総合)
「知ってるつもり?!」(日本テレビ)
「ごちそうさま」(日本テレビ)
「土曜スタジオパーク」(NHK総合)
「誘われて二人旅」(テレビ朝日)
「ノックは無用!」(関西テレビ)
「生活ほっとモーニング」(NHK総合、2007年3月29日)

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あ行

和製ジャン・マレーと呼ばれた男 岡田英次

岡田 英次(おかだ えいじ、1920年6月13日−1995年9月14日)は、昭和後期・平成期の俳優。

千葉県銚子市に生れる。慶応義塾大学経済学部卒業後、1946年、村山知義の第2次「新協劇団」に入る。1949年、『花の素顔』で映画デビュー。翌1950年、今井正監督の『また逢う日まで』で久我美子の相手役を好演し、一躍注目を浴びる。この映画での岡田と久我のガラス越しの接吻シーンは戦後の自由な映画を象徴するものとして有名である。「新協劇団」分裂後は1954年、「劇団青俳」を木村功らと設立。のち「現代人劇場」を経てフリーとなる。その間、1950年代には、『真空地帯』、『ここに泉あり』などの話題作に次々と出演し、評価を高める。

1959年、フランスのアラン・レネ監督の映画『二十四時間の情事』に出演し世界的にも知られるようになり、その後もいくつかの外国映画に出演し高い評価を得た。日本人離れした彫りの深い整った容姿の演技派として、勅使河原宏の『砂の女』のような芸術映画から娯楽映画まで幅広く活躍した。『和製ジャン・マレー(Jean Marais)』と云われている。1978年のテレビドラマ『白い巨塔』(フジテレビ)では、里見助教授の兄・里見清一を好演した。その他『高原へいらっしゃい』(TBS)、火曜サスペンス劇場『女検事霞夕子シリーズ2・白い影』(1986年、日本テレビ)などにも出演。

1995年9月14日、心不全のため死去。享年75。


主な出演作品

映画
花の素顔(1949年、松竹)
女の顔(1949年、大泉映画)
また逢う日まで(1950年、東宝)
拳銃の前に立つ母(1950年、大映)
風雪二十年(1951年、東映)
真空地帯(1952年、新星映画)
おかあさん(1952年、新東宝)
母を恋う歌(1952年、東宝)
魅せられたる魂(1953年、東映) - 原作:ロマン・ロラン
ひろしま(1953年、北星) - ベルリン国際映画祭長編劇映画賞受賞作品
若き日の啄木 雲は天才である(1954年、新東宝) - 石川啄木役
花と波涛(1954年、新東宝)
ここに泉あり(1955年、松竹)
花のゆくえ(1955年、日活)
暴力街(1955年、東映)
拳銃対拳銃(1956年、東映)
鞍馬天狗 白馬の密使(1956年、東映)
少年探偵団シリーズ(1956年 - 1957年、東映)
純愛物語(1957年、東映) - ベルリン国際映画祭監督賞受賞作品
不敵なる反抗(1958年、東映)
美しき姉妹の物語 悶える早春(1958年、東映)
二十四時間の情事 Hiroshima, mon amour(1959年、日本&フランス合作映画) - カンヌ国際映画祭国際批評家賞受賞作品、第33回アカデミー脚本賞ノミネート作品、原作&脚本:マルグリット・デュラス(Marguerite Duras)
素晴らしき娘たち(1959年、東映)
父と娘(1959年、東映)
丹下左膳 妖刀濡れ燕(1960年、東映)
水戸黄門 助さん格さん大暴れ(1961年、東映)
Du rififi à Tokyo(1962年、フランス&イタリア合作映画) - 共演:岸惠子、シャルル・ヴァネル(Charles Vanel) ※日本未公開
彼女と彼(1963年、岩波映画) - ベルリン国際映画祭女優賞(左幸子)、国際カトリック映画事務局賞受賞作品
侵略 The Ugly American(1963年、アメリカ映画) - 共演:マーロン・ブランド(Marlon Brando)
香華(1964年、松竹) 
砂の女(1964年、東宝) - カンヌ国際映画祭審査員特別賞受賞作品
恋人よ(1964年、松竹)
母の歳月(1965年、松竹)
空いっぱいの涙(1966年、松竹)
智恵子抄 Portrait of Chieko(1967年、松竹) - 第40回アカデミー外国語映画賞本選ノミネート作品
宇宙大怪獣ギララ(1967年、松竹)
バラ色の二人(1967、松竹)
黒部の太陽(1968年、日活)
弾痕(1969年、東宝)
女体(1969年、大映)
夕陽の恋人(1969年、松竹)
栄光への反逆(1970年、東宝)
甦える大地(1971年、松竹)
薔薇の標的(1972年、東宝)
辻が花(1972年、松竹)
修羅雪姫(1973年、東宝)
新座頭市物語 笠間の血祭り(1973年、東宝)
エスパイ(1974年、東宝)
涙のあとから微笑みが(1974年)
ザ・ヤクザ The Yakuza(1974年、アメリカ映画) - 共演:ロバート・ミッチャム(Robert Mitchum)、高倉健、岸惠子、リチャード・ジョーダン(Richard Jordan)、ブライアン・キース(Brian Keith)
我輩は猫である(1975年、東宝)
君よ噴怒の河を渉れ(1976年、松竹)
歌麿 夢と知りせば(1977年、日本ヘラルド映画)
青春の門 自立篇(1977年、東宝)
恋人岬(1977年、松竹)
若い人(1977年、東宝) - 原作:石坂洋次郎
ブルークリスマス(1978年、東宝)
皇帝のいない八月(1978年、松竹)
原子力戦争 Lost Love(1978年、ATG)
ふりむけば愛(1978年、東宝)
黄金の犬(1979年、松竹)
狂った果実(1981年、にっかつ)
南極物語(1983年、東宝)
オイディプスの刃(1986年、東宝)
グリーン・レクイエム(1988年、東北新社)
渋滞(1991年、アルゴプロジェクト)
遥かな時代の階段を(1995年、フォーライフレコード)
人でなしの恋(1995年、松竹)

テレビドラマ
ある落日(1965年、THK)
おはなはん(1966年‐1967年、NHK朝の連続テレビ小説)
レモンのような女(1967年、TBS)
天と地と(1969年、NHK大河ドラマ) - 諏訪頼重役
樅ノ木は残った(1970年、NHK大河ドラマ) - 久世大和守役
キイハンター
第105話「世界殺人集団南国の決闘」(1970年、TBS)
第243話「情無用! 人殺しの神様」(1972年、TBS)
新・平家物語(1972年、NHK大河ドラマ) - 熊谷次郎直実役
子連れ狼
第1部 第1話「子貸し腕貸しつかまつる」(1973年、NTV)
第3部 第12話「武衛流抱え撃ち」(1976年、NTV)
非情のライセンス 第3話「兇悪の華」(1973年、NET)
アイフル大作戦 第13話「逃亡と追跡! 赤い唇100万$」(1973年、TBS)
助け人走る 第22話「父子大相剋」(1974年、ABC)
ウルトラマンレオ 第28話「帰ってきたひげ船長! 」(1974年、TBS)
おしどり右京捕物車 第22話「峠」(1974年、ABC)
必殺必中仕事屋稼業 第13話「度胸で勝負」・第14話「招かれて勝負」(1975年、ABC)
俺たちの旅(1975年、NTV)
高原へいらっしゃい(1976年、TBS)
水戸黄門
第7部 第11話「津軽こぎん・弘前」(1976年、TBS)
第7部 第20話「暴れ姫君・会津」(1976年、TBS)
第14部 第8話「陰謀砕いた薪能・盛岡」(1983年、TBS) - 高森将監役
必殺からくり人 第2話「津軽じょんがらに涙をどうぞ」(1976年、ABC)
太陽にほえろ!
第220話「ジュンの復讐」(1976年、NTV)
第276話「初恋」(1977年、NTV)
第380話「見込捜査」(1979年、NTV)
特捜最前線
第1話「愛の十字架」(1977年、ANB)
第10話「母・その愛の標的」(1977年、ANB)
第95話「爆破魔・傷だらけのアイドル! 」(1979年、ANB)
横溝正史シリーズ / 犬神家の一族(1977年、MBS)
横溝正史シリーズII / 真珠郎(1978年、MBS)
消えた巨人軍(1978年、NTV) - 読売ジャイアンツ・長谷川代表役
白い巨塔(1978年、CX) - 里見清一役
土曜ワイド劇場 / 黒水仙の美女 江戸川乱歩の「暗黒星」(1978年、ANB)
土曜ワイド劇場 / エマニエルの美女 江戸川乱歩の「化人幻戯」(1980年、ANB)
大捜査線 第13話「標的という名の女」(1980年、CX)
火曜サスペンス劇場 / 女検事霞夕子シリーズ2 白い影(1986年、NTV)
しゃぼん玉(1991年、CX)

以上、フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より転載。





た行

黎明期の日本映画界を支えた大スター 田中絹代

田中 絹代(たなか きぬよ、1909年12月29日 - 1977年3月21日)は、大正・昭和期の日本の女優・映画監督。黎明期の日本映画界を支えた大スターであり、日本映画史を代表する大女優の一人。また日本で二番目の女性映画監督でもある。

山口県下関市丸山町に父・田中久米吉、母・ヤスの四男四女の末娘として生まれる。母ヤスの実家小林家は下関で代々続く大地主の商家で、久米吉はそこの大番頭であった。二人は結婚して独立し、呉服商などを営む傍ら20軒ほども貸し家を持つ裕福な家であったが、絹代が3歳になって間もない1912年(明治45)1月、久米吉が病死。その後母は藤表(とうおもて)製造業を営んでいたが、使用人に有り金を持ち逃げされるなどの災難に遭い、一家の生活は徐々に暗転していった。1916年(大正5)絹代は下関市立大江尋常小学校に入学するが、経済的困窮のため充分な通学ができない状況だったという。この年20歳の長兄・慶介が兵役忌避をして失踪したことで田中一家は後ろ指を指されることになり、そのことが一家の経済事情を更に悪くした。翌1917年、一家の生活はついに行き詰まり、母ヤスの実兄を頼って大阪天王寺に移る。更に翌1918年4月、絹代は天王寺尋常小学校の三年に編入し、以後大阪で育つことになる。

戦前・戦中〜アイドルスターとしての成功
幼少時より、琵琶を習い、1919年に、大阪楽天地の琵琶少女歌劇の舞台に立つ。兄が松竹大阪支社で給仕として働いていた関係で、1924年に松竹下加茂撮影所に入所し、野村芳亭監督の『元禄女』でデビューする。まもなく、当時新進監督だった清水宏に『村の牧場』の主役に抜擢される。

松竹蒲田撮影所に移った後の1927年、五所平之助監督の『恥しい夢』が好評を博する。その後、当時の人気スター鈴木傳明とのコンビで売り出し、松竹のドル箱スターとなり、会社の幹部に昇進する。また、五所監督による日本初のトーキー映画、『マダムと女房』に主演し、トーキー時代になっても、スターとして迎えられる。

特に、上原謙とのコンビで1938年に公開された『愛染かつら』は空前の大ヒットとなり、シリーズ化された。1940年には、溝口健二監督の『浪花女』に出演し、溝口監督の厳しい注文に応え、自信を深める。

戦後〜演技派スター・女性監督へ
終戦後も、溝口監督の『女優須磨子の恋』や小津安二郎監督の『風の中の牝鶏』などに出演し、高い評価を得、1947年、1948年と連続して毎日映画コンクール女優演技賞を連続受賞する。

順調に見えた女優生活だったが、1950年、日米親善使節として滞在していたアメリカから帰国した際、サングラスに派手な服装で投げキッスを行い、激しい世論の反発を受けてしまう。それ以降、スランプに陥り、松竹も退社する。この時期、メディアからは「老醜」とまで酷評されて打撃を受けている。

1952年に溝口監督が彼女のために温めてきた企画である『西鶴一代女』に主演する。この作品はヴェネチア国際映画祭で国際賞を受賞し、彼女も完全復活を果たす。翌1953年には同じコンビで『雨月物語』を製作、ヴェネチア国際映画祭で銀獅子賞を受賞する。また、同年『恋文』を監督(日本で二人目の女性監督)。しかし、このことが溝口監督との仲を疎遠なものにしたといわれる。

その後も、木下恵介監督の『楢山節考』、小津監督の『彼岸花』への出演、京マチ子主演の『流転の王妃』の演出など、常に映画界をリードする活躍を続ける一方、1969年の『樅ノ木は残った』に出演以降、テレビドラマにも活躍の場を広げ、『前略おふくろ様』の主人公の母親役やNHK朝の連続テレビ小説『雲のじゅうたん』のナレーションなどで親しまれた。

1974年に主演した熊井啓監督の映画『サンダカン八番娼館 望郷』の円熟した演技は世界的に高く評価され、ベルリン国際映画祭主演女優賞、芸術選奨文部大臣賞を受賞した。

1977年3月21日、脳腫瘍のため死去。享年67。最晩年、病床についた彼女は「目が見えなくなっても、やれる役があるだろうか」と見舞いに来た者に尋ねたという。
死後、勲三等瑞宝章が授与された。同年3月31日、映画放送人葬が行われ、5000人が参列した。

墓所は神奈川県鎌倉市の円覚寺にある。

没後の顕彰
1985年には、従弟の小林正樹監督により、毎日映画コンクールに「田中絹代賞」が創設され、映画界の発展に貢献した女優に贈られることとなった。第1回受賞者は吉永小百合。

「恋多き女性」としても有名で、清水宏監督との同棲生活と破局、慶応野球部の花形スターだった水原茂とのロマンスなどは大きな話題となった。その波乱に富んだ一生は、1987年に市川崑監督、吉永小百合主演で『映画女優』というタイトルで映画化された。

代表作

おもな出演映画作品
元禄女(1924年、野村方亭、吉野二郎)
村の牧場(1924年、清水宏)
恥しい夢(1927年、五所平之助)
大学は出たけれど(1929年、小津安二郎)
伊豆の踊子(1933年、五所平之助)
愛染かつら・前後編(1938年、野村浩将)
暁に祈る(1940年、佐々木康)
簪(1941年、清水宏)
陸軍(1944年、木下恵介)
結婚(1947年、木下恵介)
女優須磨子の恋(1947年、溝口健二)
不死鳥(1947年、木下恵介)
夜の女たち(1948年、溝口健二)
風の中の牝鶏(1948年、小津安二郎)
銀座化粧(1951年、成瀬巳喜男)
西鶴一代女(ヴェネチア国際映画祭国際賞受賞作品。1952年、溝口健二)
おかあさん(1952年、成瀬巳喜男)
雨月物語(ヴェネチア国際映画祭サン・マルコ銀獅子賞、イタリア批評家賞受賞作品。第28回アカデミー賞衣裳デザイン賞白黒映画部門ノミネート作品。1953年、溝口健二)
煙突の見える場所(ベルリン国際映画祭国際平和賞受賞作品。1953年、五所平之助)
山椒大夫(ヴェネチア国際映画祭銀獅子賞受賞作品。1954年、溝口健二)
噂の女(1954年、溝口健二)
黄色いからす(第15回ゴールデングローブ賞 外国語映画賞受賞作品。1957年、川頭義郎)
楢山節考(1958年、木下恵介)
彼岸花 EQUINOX FLOWER (1958年、小津安二郎)
この天の虹(1958年、木下恵介)
おとうと(カンヌ国際映画祭フランス映画高等技術委員会表彰受賞作品。1960年、市川崑)
赤ひげ(ヴェネチア国際映画祭男優賞(三船敏郎)、サン・ジョルジョ賞、ヴェネチア市賞、国際カトリック映画事務局賞受賞作品。1965年、黒澤明)
三婆(1974年、中村登)
サンダカン八番娼館 望郷(ベルリン国際映画祭最優秀主演女優賞受賞作品。1974年、熊井啓)
大地の子守唄(1976年、増村保造)

出演テレビドラマ
樅ノ木は残った(1970年)
明日のしあわせ(1970年)
女人平家(1971年)
たった一人の反乱(1973年)
りんりんと(1974年)
前略おふくろ様(1975年):主人公の母親役
幻の町(1976年)
雲のじゅうたん(ナレーション)(1976年、NHK朝の連続テレビ小説)

監督映画作品
恋文(1953年)
月は昇りぬ(1955年)
乳房よ永遠なれ(1955年)
流転の王妃(1960年)
女ばかりの夜(1961年)
お吟さま(1962年)

以上、フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より転載。