昭和30年代!!
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映画界を代表する二枚目スター 上原謙

上原 謙(うえはら けん、1909年11月7日 - 1991年11月23日、本名 池端 清亮(いけはた きよあき))は、日本の俳優。戦前戦後の映画界を代表する天下の二枚目スター。

東京市牛込区納戸町の職業軍人の家に生まれる。父親は鹿児島出身の陸軍大佐だが、上原が中学生の時に死亡する。成城学校(新宿区原町)卒業後、1929年に立教大学入学、学生時代は大学内のオーケストラでトランペットを吹き活躍する。1933年、松竹蒲田の新人公募の広告に学友が無断で上原の写真を送り、その美男子ぶりから見事採用される。

1935年に大学を卒業後、松竹に入社し、新人作りの名手清水宏監督の「若旦那・春爛漫」でデビュー。次の「彼と彼女と少年達」(清水)で早速、主役を務め、この映画に共演した桑野通子とはアイアイ・コンビとファンから呼ばれ人気を博す。続いて、「恋愛豪華版」(清水)で従来にはなかった清新な若者像をつくり、1936年に清水の代表作となる「有りがたうさん」に人のいいバス運転手役で主演、順調なスタートを切る。しかし、この年に兵役となり台中で軍隊生活を送るが、原因不明の発熱で除隊となる。またこの同じ年に女優の小桜葉子と結婚、当初、小桜との結婚は松竹大船撮影所所長の城戸四郎に反対されるが、結局は上原の強情さに城戸が折れる形となった。しかし、小桜の踊りの師匠だった大女優の栗島すみ子は最後までこの結婚を喜ばず、栗島の稽古場に結婚の挨拶に来た上原を門前払いして以来、険悪な仲だった。翌年には長男加山雄三をもうける。

五所平之助監督の「新道」で佐分利信、佐野周二と初共演し、三人で松竹三羽烏を結成、1937年にこれを前面に押し出した島津保次郎監督の「婚約三羽烏」が大ヒットする。またこの頃、佐分利、佐野の他にも、徳大寺伸、近衛敏明、夏川大二郎と第八芸術(=映画)にちなんだ研究会8クラブを結成し、毎月、演劇や音楽関係の有識者を呼んで、講演会を開いていた。続く「浅草の灯」(島津)でオペラ歌手を演じ好評となり、自他共に認める戦前の代表作となった。この他にも島津作品では「せめて今宵は」「男性対女性」「朱と緑」に出演、そして1938年、川口松太郎原作、野村浩将監督のメロドラマ「愛染かつら」の津村浩三役で田中絹代と共演、霧島昇とミス・コロンビアが歌う主題歌「旅の夜風」共に、空前の大ヒット作となる。

しかし、上原自身はこの映画を自分の出演作の中で最も嫌いな映画と明言していて、当初、この映画の脚本を読んだ時、その理屈では到底考えられないような展開にばかばかしくなり、役を降りようとさえ思ったという。その後、続編も作られる程、この映画で上原の人気はさらに高まったが同時に役柄も制限されるようになり、良くも悪くも「愛染かつら」は俳優・上原謙の代表作といえる。1940年に吉村公三郎監督の「西住戦車長伝」では戦車隊長に扮して国策映画ながらも人間的側面を見せ、1943年の木下恵介の監督デビュー作で劇作家・菊田一夫の戦前の代表作である「花咲く港」で東北弁丸出しの軽妙なペテン師を演じて新生面を開拓する。

戦後はいつまでも女性中心主義でいく会社の基本方針に不満を抱き、松竹を退社。映画俳優フリー第一号となり演技派への脱皮を志していく。1948年には主演したメロドラマ「三百六十五夜」(市川崑)が空前の大ヒット、翌49年には既に高額納税者のタレント部門トップに躍り出る活躍ぶりであった。1951年、成瀬巳喜男監督の「めし」で原節子と中年夫婦を演じて好評を得て以降、名作への出演が相次ぎ、1953年に「煙突の見える場所」(五所)、1954年に「晩菊」「山の音」(成瀬)、1956年に「夜の河」(吉村、山本富士子共演)で市井の人間を演じた。これらはいずれも日本映画史の傑作で、上原にとっても代表作となる。1957年に東宝と本数契約してから脇に回るが、1959年、舞台上でメニエール症候群で倒れる。また息子の加山の映画界入り以降は、大きな子供を持つ父親というイメージのため、二枚目として主要な役を得ることが困難となる。

1965年、神奈川県茅ヶ崎市にパシフィックパークホテルを建てたことで有名。1970年には小桜と死別。その数ヵ月後にパシフィックパークホテルが倒産、息子の加山ともども莫大な負債を抱える等、不幸が続く。同年、東宝を退社。1975年に37歳年下の元クラブ歌手大林雅美(本名=雅子)と再婚するも亡くなる間際に離婚。雅美との間に生まれた娘の上原芽英子は女優として活動している。

また松竹時代からの共演者である高峰三枝子と共演した80年代初頭の旧国鉄(現JR)「フルムーンキャンペーン」のCMは非常に有名。当時としては往年の大スターが温泉につかるシーンはまさにセンセーショナルな事であった。

1991年5月、大林と離婚後は加山の家にひっそりと身を寄せ、8月には親子でニューヨークに旅行したが、11月23日、風呂場で倒れているところを家政婦が発見、三鷹市の杏林大学付属病院に救急車で運ばれるものの、蘇生する事はなく、午後3時44分に急性心不全で死去。享年82。会見で加山は「この一年半は心労が続き、静かな老後を送らせたかった。」と涙をこらえながら語った。

孫は俳優の山下徹大、元タレントの梓真悠子、女優池端えみ。

エピソード
松竹時代、先輩女優である吉川満子、飯田蝶子、栗島すみ子につけられたあだ名は「シルヴァーオックス(=銀ぎつね)」、「接待係の謙」、「ドアボーイの謙」だったという。接待係、ドアボーイの由来は上原が面倒見がいい事から来ている。ちなみに8クラブの他のメンバーにつけられたあだ名は佐分利が「海亀の信」、佐野が「アドバルーンの周二」、徳大寺が「三度笠の伸」、近衛が「置き物のトシ」、夏川が「級長面の大チャン」だった。

若い世代には「加山雄三の父親」というイメージだが、戦前戦後の全盛期は息子と比較するのも失礼なほどの絶世の二枚目スターだった。しかし晩年には男性用カツラのCMに堂々と出演し(自らカツラを着用していると宣言)、お笑いバラエティー番組にも熱心に登場。子供向け特撮番組にも出演している。共演しているコメディアンのギャグを「わたしもやりたい!」と懇願し、「大スターの上原さんにそこまでさせるのはまずい」と裏方スタッフを困らせるなど、飾らない庶民的な一面も見せていたという。元々、上原自身は駄洒落や冗談を言うのが大好きだったらしく、終戦後、地方公演をしていた時期には伴淳三郎と舞台でコント等をやっていたという。

ちなみに、喜劇映画に出たがっていた上原の念願かなって出演した『クレージー作戦 くたばれ!無責任』(1963年 坪島孝監督)では、チョビ髭にズーズー弁の社長という珍しい演技を見ることが出来る(この演技は本人の「ズーズー弁でやりたい」という希望によるもの)。なお晩年のお笑い番組への出演等は、借金返済も理由との見方がある。

「フルムーン」のCMでの高峰三枝子と二人で温泉につかるシーンでは、清純で上品なお嬢様役が多かった高峰の豊かな胸の谷間が大胆に披露されたこともあり、社会現象と言えるほどの人気を博す。このCMに、女優で自民党参議院議員の山東昭子が「シリコンを入れた年寄りの胸など見たくない」と不謹慎な発言をしたのも話題を呼んだ。間近で高峰の胸の谷間を見たはずの上原は「シリコンだなんて・・・」とやんわり疑惑を否定している。

受章・受賞歴
1953年:第8回毎日映画コンクール・主演男優賞 『妻』、『夫婦』
1983年:勲四等瑞宝章
1992年:第15回日本アカデミー賞・会長特別賞

出演作品

テレビ
いちばん太鼓(1985年 - 1986年・NHK朝の連続テレビ小説)
忠臣蔵(1985年・日本テレビ)
森田一義アワー笑っていいとも!(フジテレビ、テレフォンショッキングゲスト(最年長第3位))
超人機メタルダー(1987年・テレビ朝日)
春を待つ家(1990年・フジテレビ)

映画
有りがたうさん(1936年、松竹蒲田)
浅草の灯(1937年、松竹大船)
婚約三羽烏(1937年、松竹大船)
愛染かつら(1938年、松竹大船)
桜の国(1941年、松竹大船)
花咲く港(1943年、松竹大船)
そよかぜ(1945年、松竹大船)
花ひらく(1948年、新東宝)
四谷怪談(1949年、松竹京都)
めし(1951年、東宝)
煙突の見える場所(ベルリン国際映画祭国際平和賞受賞作品。1953年)
夫婦(1953年、東宝)
妻(1953年、東宝)
山の音(1954年、東宝)
晩菊(1954年、東宝)
夜の河(1956年、大映京都)
氷壁(1958年、大映東京)
大学の山賊たち(1960年、東宝)
モスラ(1961年、東宝)
妖星ゴラス(1962年、東宝)
海底軍艦(1963年、東宝)
時をかける少女(1983年)
花の季節(1990年)

以上、フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より転載。





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才色兼備の偉大な女優 山本富士子

山本 富士子(やまもと・ふじこ。1931年12月11日 - )は昭和中期から平成期(1950年代後半-)の日本の俳優。日本一の美女と言われ、昭和時代の美人の代名詞であった。大阪府和泉市の阪和線沿線出身。その象徴的な名前である山本富士子は本名。愛称はお富士さん。

少女時代、花柳禄寿門下の花柳禄之助について日本舞踊を習う。大阪府立泉大津高等学校→京都府立第一高女(現・京都府立鴨沂高等学校)卒業。1950年、700人近い応募者の中から見事、第1回ミス日本の座に輝く。そのずば抜けた美貌は審査員達の間でも話題の的で、決定は満場一致で短時間で済んだという逸話が残っている。この第1回ミス日本コンテストは終戦から間もない当時の日本の明るい話題だった。審査や授賞式の模様を伝えたニュースフィルム(モノクロ)が現存している。同年、ミス日本として公式訪米し、アメリカでもその美貌が話題になった。ミス日本に選ばれた後、映画界からスカウトが相次ぐが彼女には女優になる意思はなかった。しかし、悩んだ末、姉・喜代子の「これからの女性は仕事を持つことよ」という言葉に女優になる決心をする。ちなみに、その喜代子も薬剤師の仕事に就き、富士子と同じく家庭を持った後も仕事を続けた。

1953年、映画会社各社の争奪戦の末、大映に入社。契約内容は「1本あたりのギャラはスライド制で1年目が10万円、2年目が20万円、3年目が30万円と安いかわりに3年たったら自由契約」であったが、3年後の自由契約の約束は守られなかった。同年、映画「花の講道館」で長谷川一夫の相手役としてデビュー。戦後ミスコン出身女優第1号と言われている。

1954年に「金色夜叉」(島耕二監督、根上淳共演)、1955年には「婦系図 湯島の白梅」(衣笠貞之助監督、鶴田浩二共演)と後世に語り継がれる映画のヒロインとして活躍。1956年の映画「夜の河」(吉村公三郎監督、上原謙共演)が大ヒットし、美人というだけでなく演技者としても高い評価を受けるようになる。以後も大映の看板女優として大活躍し、日本を代表する女優となる。

1963年1月、大映との契約更改を月末に控え、前年と同じ条件の「年に大映2本、他社2本出演」の契約を主張したが受け入れられず、1月末の契約切れを待ってフリーを主張。大映の社長・永田雅一は烈火の如く怒り、彼女を解雇し五社協定にかけると脅した。それに対し山本はフリー宣言をし、同年2月28日、帝国ホテルでの記者会見で「そんなことで映画に出られなくなっても仕方ありません。自分の立場は自分で守ります。その方が生きがいがあるし、人間的であると思います。」と語り、永田社長に詫びを入れろとの周囲の声に耳を貸さなかった。それに対し永田は彼女を一方的に解雇し、五社協定を使って他社や独立プロの映画や舞台にも出演できなくした。この事は当時の国会でも取り上げられ、世間でも「人権蹂躙」と非難の声が上がった。

看板女優の彼女を失った大映の映画館は空席が目立つようになり、大映倒産そして日本映画界全体の斜陽化の遠因となった。この後、彼女はテレビドラマに活路を求め、「山本富士子アワー」などに主演して好評を博した後、舞台に新境地を開き、現在まで舞台一筋で主演を続けている。

なお、五社協定から44年が経った2007年の今も映画界には復帰していない。

2002年12月、日本経済新聞で「私の履歴書」を連載。

1962年、作曲家の山本丈晴氏(旧姓・古屋)と結婚。一男あり。

エピソード
鋭い感性を持ち、美女だろうと女性には大変厳しいことで知られる作家の三島由紀夫は自分の小説「にっぽん製」(1953年)の映画化の時、主演する山本と会って話をした。三島はその時の山本の印象を「外見だけでなく内面も素晴らしい女性」と絶賛している。

山本の実家には男兄弟がなく、また、姉も結婚し他家に嫁いでいたので、夫・丈晴は婿養子となり『山本』姓を名乗るようになった。
山本は日本銀行の就職試験をうけるも不採用となった経験がある。理由は長年不明であったが、後年、当時を知る日銀関係者がさる雑誌のインタビューで『適性など能力には全く問題がなかった。ただあの美貌ゆえ、男子行員達が落ち着かなくなるのではと心配されて採用が見送られた。』と明らかにした。

インタビューで質問に対して、否定の意味の「とんでもございません」を初めて使った人物であるとされる(日本語の誤用#不適切な敬語表現)。“良家の子女でミスにもなった彼女が使うのだから正しいはず”と広まった。

1956年(昭和31年) - 映画『夜の河』
NHK 主演女優賞
1958年(昭和33年) - 映画『白鷺』、『彼岸花』
第9回ブルーリボン賞 主演女優賞
1960年(昭和35年) - 映画『女経』、『東綺譚』
第34回キネマ旬報賞 主演女優賞
1996年(平成8年) - 第6回日本映画批評家大賞 ゴールデン・グローリー賞
2001年(平成13年) - 紫綬褒章

出演作品

映画
花の講道館(1953。大ヒット。 ビデオ化)
関の弥太ッぺ (1953)
丹下左膳(監督:マキノ雅弘。1953。ビデオ化)
花の喧嘩状 (1953。大ヒット。ビデオ化)
春雪の門 (1953)
続・丹下左膳 (監督:マキノ雅弘。1953。 ビデオ化)
浅草物語 (原作:川端康成。1953)
銭形平次捕物控 金色の狼 (1953。 ビデオ化)
にっぽん製(原作:三島由紀夫。1953)
十代の誘惑(1953)
花の三度笠(1954。ビデオ化)
金色夜叉(1954。初のカラー映画出演。大ヒット。ビデオ化)
花のいのちを (1954)
知らずの弥太郎(1954。ビデオ化) 
月よりの使者(1954。大ヒット。ビデオ化)
火の女(1954)
新しき天(1954)
春の渦巻(1954)
伊太郎獅子(1954)
川のある下町の話(原作:川端康成。1955)
火の驀走 (1955)
風雪講道館(1955。ビデオ化)
薔薇いくたびか(1955。大ヒット。ビデオ化)
つばくろ笠(1955。ビデオ化)
踊り子行状記(1955。ビデオ化)
湯島の白梅 婦系図(1955。大ヒット。ビデオ化)
見合い旅行 (1955)
薔薇の絋道館 (1956)  
新・平家物語 義仲をめぐる三人の女(1956。ビデオ化)
恋と金(1956)
火花(1956)
花頭巾(1956。ビデオ化)
銭形平次捕物控 人肌蜘蛛(1956。ビデオ化)
スタジオは大騒ぎ(1956)  
夜の河(監督:吉村公三郎。キネマ旬報ベストテン第2位。1956。大ヒット。2007年3月、DVD発売予定)
日本橋(監督:市川崑。1956。ヒット。DVD化)
月形半平太 花の巻/嵐の巻(1956。大ヒット。ビデオ化)
続・花頭巾(1956。ビデオ化)
君を愛す(1956。ヒット)
銭形平次捕物控 まだら蛇(共演:美空ひばり。1957。ヒット。 DVD化)
銀河の都(1957)
続・銀河の都(1957)
スタジオはてんやわんや(1957。ビデオ化)
朱雀門(1957。ビデオ化)
源氏物語 浮舟(原作:紫式部。1957。ビデオ化)
夜の蝶(監督:吉村公三郎。1957。ヒット。2007年4月、DVD発売予定)
真昼の対決(1957)
鳴門秘帖(1957。ビデオ化)
雪の渡り鳥(1957。ビデオ化)
銭形平次捕物控 八人の花嫁(共演:八千草薫。1958。ビデオ化)
東京の瞳(1958)
春高樓の花の宴(1958)
母 (1958)
氷壁(監督:増村保造。1958。ヒット。ビデオ化)
忠臣蔵(1958。大ヒット。 DVD化)
天竜しぶき笠(1958)  
命を賭ける男(1958。ビデオ化)
渇き(1958)  
人肌孔雀(1958。ビデオ化)
彼岸花 (Equinox Flower) (監督:小津安二郎。キネマ旬報ベストテン第3位。1958。大ヒット。 DVD化)
都会という港(1958)  
娘の冒険(1958)  
白鷺 (Le Héron blanc) (カンヌ国際映画祭特別表彰受賞作品。毎日映画コンクール美術賞、色彩技術賞受賞作品。1958。ヒット。ビデオ化)
人肌牡丹(1958。ビデオ化)
細雪(1959。2度目の映画化。ヒット。ビデオ化)
情炎(1959。ヒット)
夜の闘魚 (1959)
いつか来た道(共演:ウィーン少年合唱団(Wiener Sängerknaben)、和波孝禧。1959)
次郎長富士(1959。 DVD化)
美貌に罪あり (監督:増村保造。1959。ビデオ化)
暗夜行路(監督:豊田四郎。1959。 ビデオ化)
かげろう絵図(1959。ビデオ化)
歌麿をめぐる五人の女(1959。ビデオ化)
旅情(ハワイロケが行われた。1959)
千姫御殿(1960。ビデオ化)
女経(「第二話〜物を高く売りつける女〜」に出演。監督:市川崑。1960。ヒット。ビデオ化)
東京の女性 (1960)
大江山酒天童子 (1960。 DVD化)
歌行燈 (1960。 DVD化)
女妖 (1960)
夜は嘘つき(1960。ヒット)  
東綺譚(監督:豊田四郎。1960。ヒット。 DVD化)
白子屋駒子(1960)
大菩薩峠(1960。 DVD化)
大菩薩峠 竜神の巻(1960。 DVD化)
猟銃(1961。ヒット。ビデオ化)
女は夜化粧する(おんなはよる、けしょうする)(1961。ヒット。ビデオ化)
みだれ髪(1961。ビデオ化)
黒い十人の女(監督:市川崑。キネマ旬報ベストテン第10位。1961。近年、リバイバル上映されヒット。 DVD化)
夜はいじわる(1961)  
女房学校(1961)  
お琴と佐助(1961。ビデオ化)
釈迦(1961。大ヒット。 DVD化)
京化粧(1961。ビデオ化)
女と三悪人(1962。ビデオ化)
夢でありたい(1962)
如何なる星の下に(監督:豊田四郎。1962)
仲よし音頭・日本一だよ(1962。ビデオ化)
宝石泥棒(1962)
秦・始皇帝(1962。大ヒット。 DVD化)
私は二歳(監督:市川崑。キネマ旬報ベストテン第1位。1962。 DVD化)
雪之丞変化(監督:市川崑。1963。 DVD化)
憂愁平野(監督:豊田四郎。1963。ビデオ化)

テレビ番組
この人・山本富士子ショー(NHK総合)
長谷川伸シリーズ『暗闇の丑松』(前・後編)(1973、NET)
一枚の写真(フジテレビ)
土曜大好き!830(フジテレビ系)
おしゃれ(日本テレビ)
芸能花舞台(NHK教育。ゲスト)
土曜ほっとモーニング(NHK総合。夫婦で出演)
徹子の部屋(テレビ朝日)
丈晴・富士子のさわやかサロン(テレビ朝日。夫婦で司会のトーク番組)
おはようワイド・土曜の朝に(テレビ朝日)
シネマパラダイス(NHK BS-2)
映像美の巨匠 市川崑(NHK BS-2)
あの日 昭和20年の記憶(NHK BS-2)
夕方5時ですとっておき関西(NHK大阪、関西ローカル。姉・喜代子も出演)

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かっての映画界の重鎮 長谷川一夫

長谷川 一夫(はせがわ かずお、1908年2月27日 - 1984年4月6日)は京都府京都市伏見区出身の俳優である。俳優の林成年は息子、長谷川稀世、長谷川季子は娘、長谷川裕見子(船越英二夫人で船越英一郎の母)は姪に当たる。戦前戦後の長きに渡って日本の二枚目の代名詞として大スターに君臨した。林長丸、林長二郎は旧芸名。

京都伏見の芝居小屋の子として生まれる。幼少時より、子役として舞台に立ち、初世中村鴈治郎の息子、林長三郎(後の林又一郎)の一座に加わり、「林長丸」の名で人気を博する。

1927年 松竹に入社。芸名を「林長二郎」と改め『稚児の剣法』で映画デビューする。抜群の美貌と若手時代劇スターを渇望していた松竹の社をあげての宣伝とが奏功し、たちまち、日本を代表するスターになる。特に、自ら女形出身の衣笠貞之助監督に重用され、特に『雪之丞変化』の演技は、全国民を魅了した。多数の映画に出演。二枚目の風貌で圧倒的な人気を得た。

1937年に東宝に移る約束をする。松竹が雇った暴力団員に顔を切りつけられ、再起不能といわれたが、芸名を本名の「長谷川一夫」に戻し、山本嘉次郎監督の『藤十郎の恋』で入江たか子と共演し、見事に復活する。『鶴八鶴次郎』など山田五十鈴との「黄金コンビ」でもヒットを飛ばす。その後、李香蘭と共演した『白蘭の歌』『支那の夜』など現代劇にも主演しヒットを続けた。

戦後は東宝、新東宝を経て1950年、大映に重役として迎えられ、衣笠貞之助監督の『地獄門』でカンヌ映画祭グランプリを受け、海外でも評価を高めた。1963年に映画界を引退するまで大映のトップスターであり続けた。時代劇では銭形平次などが当たり役だった。主演映画が301本と、他に類を見ない本数である。

一方、1955年からは、東宝歌舞伎の舞台に立ち、華やかな「歌舞伎レビュー」で魅了した。最晩年には、宝塚歌劇の「ベルサイユのばら」の演技指導も手がけた。

テレビにも高額のギャラで迎えられ、1964年には大河ドラマ『赤穂浪士』の大石内蔵助役などの当たり役を得た。

酒が体質的に飲めず、大の甘党であったこともあってか、晩年は糖尿病などの持病に悩まされ、1984年、2月に繁夫人との死別後、後を追うように同年4月6日逝去。享年76。没後、国民栄誉賞を植村直己とともに受賞。

主な出演映画
雪之丞変化(1935年)
藤十郎の恋(1938年)
鶴八鶴次郎(1938年)
白蘭の歌(1939年)
支那の夜(1940年)
三十三間堂 通し矢物語(1945年)
銭形平次 平次八百八町(1949年)
源氏物語(1951年)
治郎吉格子(1952年)
地獄門(1953年)
残菊物語 (1956年)

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引退して久しい永遠の処女 原節子

原 節子(はら せつこ、1920年6月17日 - )は、日本の女優。本名、会田 昌江(あいだ まさえ)。

神奈川県横浜市出身。テレビや雑誌で「永遠の処女・原節子」としばしば言われる。

戦前
横浜市立高等女学校(現・横浜市立桜丘高等学校)中退。1935年、『ためらふ勿れ若人よ』で日活から映画デビュー。

1937年、初の日独合作映画『新しき土』のヒロイン役にアーノルド・ファンク監督が選んで注目される。映画は話題を呼び、世界一周旅行に出かける。これを機に東宝に移籍した。基礎的な演技力がつく前に人気が先行した。

戦争中は、1942年の『ハワイ・マレー沖海戦』をはじめとする国策映画のヒロイン役に多数出演する。

戦後
1949年の『青い山脈』(今井正監督)では女性教師役を演じ、服部良一作曲の主題歌とともに大ヒット。

同年から1961年まで、小津安二郎監督と組んだ 6作品(下記参照)は、日本映画を代表するものとして、国際的にも評価が高い。

1962年の『忠臣蔵』を最後に「衰えた容姿を見せたくない」という言葉を残し、隠遁生活に入る。

1963年、小津安二郎監督の葬儀に姿を見せたのが、公の場に姿を見せた最後となった。

現在は神奈川県鎌倉市に親戚と2人でひっそり暮らしている。

2000年、キネマ旬報による『20世紀の映画スター・日本編』女優部門の1位に輝いた。

出演

映画

小津安二郎監督作品
晩春(1949年)
麦秋(1951年)
東京物語(1953年)
東京暮色(1957年)
秋日和(1960年)
小早川家の秋(1961年)

小津安二郎監督以外の作品
上海陸戦隊(1939年)
指導物語(1941年)
ハワイ・マレー沖海戦(1942年)
決戦の大空へ(1943年)
わが青春に悔いなし(1946年)
安城家の舞踏会(1947年)
お嬢さん乾杯!(1949年)
めし(1951年)
白痴(1951年)
など

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このあたりで日活を離れ 他社に目を向けよう 筆頭はこの人 笠智衆

笠 智衆(りゅう ちしゅう、1904年(明治37年)5月13日 - 1993年(平成5年)3月16日)は、日本の映画俳優。

熊本県玉名郡玉水村(現玉名市)立花で父淳心、母トシの次男として生まれる。生家は浄土真宗本願寺派来照寺。「笠智衆」(りゅう ちしゅう)というやや変わった名前は本名である。玉水村立玉水尋常小学校、熊本県立玉名中学校(現熊本県立玉名高等学校)を卒業後、旧制の東洋大学印度哲学科に入学。大学は実家の寺を継ぐために進学すると両親には告げていたが、実際にはその気はなかったという。

1925年(大正14年)に中退、松竹キネマ蒲田撮影所の第一期研究生として入所。俳優になることは本心ではなく、住職以外ならどのような職業でもよかったのだという。それでも同年7月に父淳心の死で一度住職を継ぐが、結局兄にその座を譲り1926年(大正15年)再度上京。以来、松竹映画の俳優としての道を歩み出す。しかし当初は大部屋俳優時代がしばらく続き、映画は大半が端役での出演であった。

小津安二郎監督の『一人息子』(1936年公開)で初めて老け役を演じ、好演。この老け役の成功が、笠の俳優としての地位を築くものとなる。そして『父ありき』(1942年公開)では小津作品で初の主役を演じる。『若人の夢』に出演後はほとんどの小津作品に出演していた笠であるが、極度に感情を抑え、淡々とした語り口という日本人の「父親」としての役どころは、この作品が原点である。以後、小津の遺作となる『秋刀魚の味』まで主役・脇役を問わず、すべての作品で重要な役を演じている。国内・海外を問わず、小津映画を研究する者は小津作品における笠を、『小津映画の語り部』、『小津の分身』を称している。

小津亡き後は山田洋次監督作品の『男はつらいよ』シリーズに出演。御前様として知られるようになる。本シリーズでは亡くなる直前まで出演した『男はつらいよ 寅次郎の青春』が遺作になった。またテレビドラマにも出演し、山田太一が『笠さんに主役を演じてもらいたい』(NHK笠智衆の追悼番組より)として書き下ろした『ながらえば』、『冬構え』、『今朝の秋』に主演、高い評価を受けている。なお、『今朝の秋』放映時笠は83歳で、現時点でテレビドラマで主役を演じた最高齢の男優である。

2000年、『キネマ旬報』による「20世紀の映画スター・日本編」で男優部門の5位に選ばれた。


エピソード

「明治の男は泣かない」
笠は演技について演出家と対立するようなことはなかったが、自ら泣くシーンを演じることは拒否していた。「明治生まれの男が泣くことはめったにない」というのがその理由である。小津作品でも小津安二郎の「言われたとおりに演技をした」笠であるが、『晩春』のラストで笠が林檎の皮を剥いてから慟哭するというシーンがあったが、笠が『これはできません』と申し出、小津がそれを認めて、うなだれるシーンに変更した(後にこのシーンを「居眠りをしている」と批評した評論家に対して、大変憤りを感じたと語っている(『大船日記』より))。 「泣くシーンは」『ながらえば』で入院している妻に『寂しい』と言って、涙を拭うシーンとして登場するが、これは涙を拭う真似をしているだけで、本当に泣いていない。泣くシーンの最初は『冬構え』で、自殺を図り未遂に終わり、旅館で1人泣く場面である。そのシーンを脚本を担当した山田太一は『美しい』と感動したが(『あるがままに』より)、笠は違和感を感じていたという(『大船日記』より)。結局、これが笠にとって最初で最後の泣くシーンとなった。

「日本の父親」から「日本のおじいさん」へ 
1990年代に入ってからは「御前様」の印象から、特に若い女性層から「優しいおじいさん」として人気が高かった。NHKでは笠の亡くなった直後に追悼番組として主演ドラマ『今朝の秋』を放映したが、放映後笠を悼む感想が多数寄せられた。その中でも多かったものが、笠を自分の祖父のように思い、笠の死が自分の祖父が亡くなったように思えて悲しい、という内容であった。NHKではこれらの感想を中心に構成された番組を放映。笠との共演が多かった杉村春子がナレーションを担当した。杉村自身も手紙の多さに驚き、笠の人気の高さに感動したと述べている。


主な受賞歴
1948年(昭和23年) 『手をつなぐ子等』(稲垣浩監督)で毎日日本映画コンクール男優演技賞受賞
1951年(昭和26年) 『カルメン故郷に帰る』(木下恵介監督)、『麦秋』(小津安二郎監督)などに出演。ブルーリボン賞助演男優賞、毎日日本映画コンクール男優演技賞受賞
1967年(昭和42年) 紫綬褒章授章
1970年(昭和45年) 『家族』(山田洋次監督)で毎日日本映画コンクール男優助演賞受賞
1975年(昭和50年) 勲四等旭日小綬賞授章
1988年(昭和63年) 東京都文化賞受賞・天水町名誉町民
1990年(平成2年) 熊本県近代文化功労者

[編集] 映画
若人の夢(1928年、松竹)
一人息子(1936年、松竹)
父ありき(1942年、松竹)
晩春(1949年、松竹)
麦秋(1951年、松竹)
東京物語(1953年、松竹) - 平山周吉 役
二十四の瞳(1954年、松竹) - 男先生 役
無法松の一生 (1958年、東宝) - 結城重蔵 役
悪い奴ほどよく眠る(1960年、東宝)
世界大戦争(1961年、東宝) - 笠置丸司厨長・江原 役
秋刀魚の味(1962年、松竹) - 平山周平 役
赤ひげ (1965年、東宝) - 登の父 役
日本のいちばん長い日(1967年、東宝) - 鈴木貫太郎 役
肉弾(1968年、ATG) - 古本屋のじいさん 役
男はつらいよシリーズ(1969年 - 1992年、松竹)
日本海大海戦(1969年、東宝) - 乃木希典 役
家族(1970年、松竹) - 風見源蔵 役
男一匹ガキ大将(1971年、勝プロ) - 和尚 役
故郷 (1972年、松竹) - 精一の父 役
砂の器(1974年、松竹) - 桐原小十郎 役
聖職の碑(1978年、東宝)
お葬式(1984年、ATG) - 住職 役
東京画(1985年、西ドイツ製作のドキュメンタリー映画)
キネマの天地(1986年、松竹)
マルサの女2(1988年、伊丹プロ) - 元僧侶 役
夢(1990年、ワーナー・ブラザーズ) - 老人 役
夢の涯てまでも Until the End of the World (1992)( ヴィム・ヴェンダース 監督作品)

テレビドラマ
おれは男だ! (1971年 - 1972年、日本テレビ系) - 小林源之助 役
おこれ!男だ(1973年 - 1974年、日本テレビ)
冬の桃 (1977年、NHK)
浮浪雲 (1978年、テレビ朝日)
ながらえば(1982年、NHK)
波の盆 (1983年、日本テレビ)
北の国から'83冬 (1983年、フジテレビ)
冬構え(1985年、NHK)
今朝の秋(1987年、NHK)

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や行

日活では企画に恵まれなかった女優 山本陽子

日活ではこれという作品がなく残念な思いをしただろうが、後に大輪の花を見事に咲かせた。

山本陽子(やまもと ようこ、1942年3月17日 -)は、昭和中期(1960年代前半〜)から平成期の女優。血液型はA型。

東京都中野区出身。國學院高等学校卒業後、野村證券に勤務していたが、1963年、知人が日活ニューフェイスに応募書類を送ったところ合格し、第7期日活ニューフェイスとして芸能界入り。映画では同じ日活の吉永小百合、松原智恵子、和泉雅子の人気に押され、もう一つ作品に恵まれなかったが、テレビドラマに進出してからは、その日本的で清楚な美貌で人気を集め、「七人の孫」、「白い影」、「白い滑走路」、「となりの芝生」など話題作に立て続けに出演。清楚な役から悪女まで幅広い役柄をこなす高視聴率女優として揺るぎない地位を確立。1980年、「花埋み」で舞台初主演。以来、舞台女優としても精力的に活躍しており、1994年、舞台「おはん」の演技で第19回菊田一夫演劇賞を受賞した。 姪に、女優の山本亜希子がいる。

趣味・特技は日本舞踊、ゴルフ、麻雀。

上記にもある通り、デビュー前に勤めていた野村證券の当時の同僚達とは、40年以上経った現在でも仲が良く、会うことが多いという。


出演作品

映画
ドリフターズですよ!特訓特訓また特訓 (1969年)
華麗なる一族(1974年)
八つ墓村(1977年)
必殺!5 黄金の血(1991年)

テレビドラマ
しろばんば(1964年)
見合い恋愛(1969年・日本テレビ)
知らない同志(1972年・TBS)
水戸黄門第4部(1973年・TBS)
白い影(1973年・TBS)
国盗り物語(1973年・NHK大河ドラマ)
白い滑走路(1974年・TBS)
となりの芝生(1976年・NHK)
女の家庭(1978年・フジテレビ)
不毛地帯(1979年・毎日放送)
女たちの海峡(1981年・フジテレビ)
松本清張の黒革の手帖(1982年・テレビ朝日)
花ホテル(1983年・フジテレビ)
ザ・ハングマンX(1985年・朝日放送)
お入学(1987年・NHK)
京、ふたり(1990年 - 1991年・NHK)
付き馬屋おえん事件帳(1990年、1993年、1996年・テレビ東京)
凄絶!嫁姑戦争 羅刹の家(1998年・テレビ朝日)
徳川慶喜(1998年・NHK大河ドラマ)
怒る男・笑う女(1999年・NHK)
悪霊島(1999年・TBS)
一絃の琴(2000年・NHK)
恋する京都(2004年・NHK)
黒革の手帖(2004年・テレビ朝日)

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わ行

裕次郎亡き後の石原軍団を率いる総帥

渡 哲也(わたり てつや、1941年12月28日 - )は、日本の俳優、歌手。本名渡瀬 道彦(わたせ みちひこ)は芸能事務所石原プロモーション代表取締役社長。

島根県能義郡安来町(現:安来市)出身、兵庫県津名郡淡路町(現・淡路市)育ち。芸名は瀬戸内海を渡って一旗挙げようという意志の表現とされる。"哲也"は役名から。公称身長180cm・体重72s血液型はB型(日活デビュー時の公称身長は177cm)。

三田学園高等学校、青山学院大学経済学部卒業。石原プロモーション社長(石原軍団リーダー)。石原裕次郎と誕生日が同日(7歳差)。俳優の渡瀬恒彦は弟。

青山学院大学在学中、日活の撮影所の見学中にスカウトを受け、1964年、日活に入社。裕次郎、小林旭、高橋英樹に続く、「裕次郎二世」との呼び名が付くスター候補として期待される。無頼シリーズ等多くのヤクザ映画に主演したが客が入らず、興行不振で倒産寸前となった日活は1971年、ロマンポルノ路線へ転換を決めた。渡は東映など数社からの引きもあったが、借金で倒産寸前の石原プロに入社。石原と出会って背丈も同じで服や靴などの譲渡を受けており、公私共に付き合いが深かった。

もともと日活時代から親しかった小林正彦が石原プロへ参加しており、色々と世話になった石原の窮地を救うため当時180万円(現在の価値で1000万円に相当)の全財産を持って石原の元へ赴き、『社員の皆さんのお茶代にでも使って下さい。』と差し出したのは有名な話である(無論、石原は気持ちだけ受け取った)。

仁義なき戦いシリーズで大センセーションを巻き起こしていた深作欣二監督のもと1974年から75年にかけて仁義の墓場、やくざの墓場 くちなしの花に主演。興行的には惨敗したものの、この2作はヤクザ映画史に残る傑作として名高い。

石原プロの経営安定のため石原プロ制作の大都会シリーズ、西部警察シリーズに主演として出演し続け、経営に大いに貢献する。しかし、大河ドラマ勝海舟を自身の健康問題で降板し、その後も石原プロ制作ドラマ出演のため数多くの映画のオファー(仁義なき戦い、人間の証明、野生の証明、八甲田山、二百三高地等々)を断わざるを得なくなり、役者としての旬の時期を棒に振ったことを惜しむ声も多い。

1987年、裕次郎死後、石原プロ社長に就任する。

1992年に自ら直腸癌であると発表し、柏木純一の著書『渡哲也 俺』に壮絶な闘病記が記されている。これにより、オストメイト(人工肛門使用者)として知られることになり、主な公共施設に専用トイレや設備が普及する遠因となっている。

2005年、紫綬褒章受章。

エピソード
石原プロ社長であり、舘ひろしら石原軍団所属俳優からは、社長と呼ばれている。また、公の場で舘が「うちの渡が…」のように呼ぶ事があるが、これは舘自身も石原プロの取締役を務めていることによるもの。

石原プロに入る契機は、渡が石原と背丈も同じで、交友関係ができてから、石原から服や靴などの譲渡を受けるなど公私共に付き合いが深かったことに加え、日活時代から親しかった小林正彦が石原プロへ参加していたことだったと言う。色々と世話になった石原の窮地を救うため当時180万円(現在の価値で1000万円に相当)の全財産を持って石原の元へ赴き、「社員の皆さんのお茶代にでも使って下さい。」と差し出したのは有名な話である(無論、石原は気持ちだけ受け取った)。

『西部警察』で演じた大門圭介でサングラスをかけるきっかけになったのは、当時40歳で「40歳にもなってマシンガン持ってドンパチやる姿が恥ずかしいから」という理由であった。
青山学院大学時代は空手部に在籍し空手2段。柔道初段。
趣味は「焚火」。たなびく煙の行方を眺めているのが好きだとのこと。

歌手の長渕剛の熱烈なファンとして知られる。「プロ野球の清原選手以上の長渕ファン」とは本人の弁である。渡の入院中に長渕が見舞ったり、長渕のコンサートに渡が出向くなど、非常に親しい関係である。

気が短いように誤解されるが、実際は温厚な人柄。石橋貴明が『とんねるずの生でダラダラいかせて!!』のドッキリ企画で、渡の車を洗って「綺麗になっただろ?テツ」と言った際、舘の仕掛けにより渡が怒るシーンがあるが、本人は「そんな事で、怒る事はできない」と困惑していたものの、蓋を開ければ「石橋ー!」と怒鳴って石橋が見事にビビる結果になった(実際渡に言った言葉は「いいジャケット着てるな、テツ」)。

『西部警察』のファンからは、今なお団長と呼ばれている。時には「団長、生きていたんですね?」とまで言われている。2004年放送の『西部警察スペシャル』では、殉職したはずの大門が課長として復活しているが、これを受けてのもの。

出身地ともいえる淡路島が阪神淡路大震災で大きな被害を受けた時に、弟の恒彦と共に淡路や神戸を訪れ炊き出しを行い、被災者を勇気づけた。

近年松坂慶子と夫婦役で共演することが多い。(『義経』、『熟年離婚』、『マグロ』)
また、徳重聡と親子役で共演することも多い。(『弟』、『熟年離婚』、『夫婦(2006年2月)テレビ朝日系』、『マグロ』)
西川きよしの歌『子供が三人おりますねん』で息子が渡に似ているという歌詞があるが、それを受けてかきよしの息子の忠志・弘志が二人そろって1996年の大河ドラマ『秀吉』で渡演じる織田信長の息子を演じている。

意外な様だが甘党で、ケーキやソフトクリームが大好物。
大方の甘党がそうであるように下戸で、飲めない酒を無理して飲んでいたのは有名。石原裕次郎の晩年にヤケ酒のような飲み方をしていたが、次第に人並みに飲めるようになったとの本人談もある。

60を過ぎた最近はガン闘病以降、心境の変化もあってか酒量が減ったと語っている。しかし同年代で付き合いのあるみのもんたは逆に酒量を上げているため、渡は「少しは酒を控えろよ」と窘めたというエピソードも。しかし当のみのはまったく無視して酒量を上げ続けている。

2007年1月4日・1月5日放送のテレビ朝日系特別ドラマ『マグロ』で釣ったマグロは本人が釣り上げた物である。

日活デビュー当時、食堂で食事をしていた石原裕次郎に挨拶に行った際、裕次郎がわざわざ立ち上がって握手し「君が渡君ですか、頑張って下さいよ。」と声を掛けてくれたというエピソードがある。渡はこの事に非常に感激したため、自分が若手から挨拶を受ける立場となった現在も同じ態度で接しており、ドラマで共演したV6の岡田純一や滝沢秀明はかつての渡同様に感激している。

映画
あばれ騎士道(1965年、日活)- 渡哲也 デビュー作
泣かせるぜ(1965年、日活)
※石原裕次郎との初共演作品
東京流れ者(1966年、日活、監督・鈴木清順)
愛と死の記録(1966年、日活、監督・蔵原惟繕)
※「ブルーリボン新人賞」を受賞。 吉永小百合との初共演作品
紅の流れ星(1967年、日活、監督・舛田利雄)
無頼より 大幹部(1968年、日活、監督・舛田利雄)
ゴギブリ刑事(1973年、東宝・石原プロモーション) - 鳴神刑事 役
ザ・ゴキブリ(1973年、東宝・石原プロモーション) - 鳴神刑事 役
野良犬(1973年、東宝、原作:黒沢明、菊島隆三) - 村上刑事 役
人間革命(1973年、東宝・シナノ企画、監督・舛田利雄)-島谷組長 役
仁義の墓場(1975年、東映、監督・深作欣二) - 石川力夫 役
やくざの墓場 くちなしの花(1976年、東映、監督・深作欣二) - 黒岩刑事 役
※「毎日映画コンクール男優演技賞」と「ブルーリボン主演男優賞」を受賞
時計-Adieu l'Hiver-(1986年、フジテレビジョン、脚本・監督・倉本聰)
欽ちゃんのシネマジャック「港」(1993年、東宝、監督・萩本欽一、脚本・君塚良一)
わが心の銀河鉄道 宮沢賢治物語(1996年、東映、監督・大森一樹) - 宮沢賢治の父・政次郎 役
※以下の各賞を総なめ
「キネマ旬報・助演男優賞」「日刊スポーツ映画大賞・助演男優賞」
「報知映画賞・助演男優賞」「ブルーリボン賞・助演男優賞」「日本アカデミー賞・優秀助演男優賞」
誘拐(1997年、東宝) - 津波警部 役
※「日刊スポーツ映画大賞・主演男優賞」「日本アカデミー賞・優秀主演男優賞」を受賞
時雨の記(1998年、東映、監督・澤井信一郎)
長崎ぶらぶら節(2000年、東映、監督・深町幸男)
BROTHER(2001年、オフィス北野=松竹、監督・北野武) - 仁政会組長 役
修羅の群れ(2002年) - 稲原会三代目会長 稲原裕之 役
レディ・ジョーカー(2004年) - 物井清三 役
男たちの大和/YAMATO(2005年) - 伊藤整一 司令長官 役

テレビドラマ
あいつの季節(1969年、TBS) ※テレビドラマ初出演作
あまくちからくち(1971年、NHK) - 実弟の渡瀬恒彦と役上も兄弟役として共演
荒野の用心棒(1973年、NET(現・テレビ朝日))
大河ドラマ 勝海舟(NHK) - 勝海舟 役(途中降板)
大都会シリーズ - 巡査部長 黒岩頼介 役
浮浪雲(テレビ朝日版) - 浮浪雲 役
西部警察シリーズ - 部長刑事 大門圭介 役
※2004年の西部警察スペシャルでは警部・課長
私鉄沿線97分署 - 検視官 榊俊作 役
ただいま絶好調!(1985年、テレビ朝日) - 鳴海貴司 役
太陽にほえろ! - 一係係長代理 警部 橘兵庫 役
東芝日曜劇場 待っていたんだ〜ボランティアより〜(1987年、TBS)
東芝日曜劇場 蒸発(1987年、TBS)
年末時代劇スペシャル 五稜郭(1988年、日本テレビ) - 新撰組 土方歳三 役
ゴリラ・警視庁捜査第8班(1989年 - 1990年、テレビ朝日) - 倉本班長 役
月曜ドラマスペシャル・春の特別企画 第1弾 総合商社(1990年、TBS)
渡哲也主演 春の大型時代劇スペシャル 四匹の用心棒(1990年、テレビ朝日)
高視聴率によりシリーズ化され、1993年『四匹の用心棒V・かかし半兵衛無頼旅』まで全5作品が放映された。
代表取締役刑事 - 辰巳署刑事防犯課課長 橘謙司 役
素浪人無頼旅(1991年、テレビ朝日)
渡哲也本格復帰記念スペシャルドラマ 生命燃ゆ(1992年、テレビ朝日)
愛しの刑事(1992年、テレビ朝日) - 城西署刑事防犯課 高倉課長 役
麻酔(1994年、よみうりテレビ)
夏の一族(1995年、NHK) - 脚本・山田太一 全3話
大河ドラマ 秀吉(1996年、NHK) - 織田信長 役
土曜ワイド劇場二十周年特別企画 捜査検事・千草泰輔(1997年、テレビ朝日)
風になれ鳥になれ 全3話(1998年、NHK) - 脚本・山田太一
新選組血風録 全10話(1998年、テレビ朝日) - 近藤勇 役
怒る男 わらう女 全12話(1999年、NHK)
特別企画 橋田寿賀子2000年ドラマスペシャル 想いでかくれんぼ(2000年3月、テレビ朝日系)
平均視聴率は関東20.9%
明治生命120周年スペシャルドラマ 夏休みのサンタさん(2001年9月、日本テレビ)
平均視聴率は関東21.4%
二夜連続スペシャルドラマ 反乱のボヤージュ(2001年10月、テレビ朝日)
渡哲也サスペンス 絆(2002年3月、BSジャパン)
テレビ東京系「水曜女と愛とミステリー」でも放送。
月曜ミステリー劇場 スクープ(2002年10月、TBS)
マルサ!!(2003年4月 - 6月、フジテレビ系) - 国領主税 役
平均視聴率は関東12.8%
西部警察スペシャル(2004年10月、テレビ朝日系) - 大門圭介課長・警部 役
平均視聴率は関東16.5% 関西18.5%
弟(2004年11月、テレビ朝日系) - 石原潔、石原慎太郎 役
5夜連続放送の平均視聴率は関東24.2% 関西24.6% 最高視聴率は最終夜の28.0%
大河ドラマ 義経(2005年、NHK) - 平清盛 役
これまで悪役のようなイメージが定着していた清盛を、異国との貿易によって国を繁栄させようとする、スケールの大きい人物として演じ、近年の当たり役としての評価も高い。
妻・時子の役は松坂慶子で、後述の『熟年離婚』と合わせ、1年に2度夫婦を共演した事も話題となった。
倉本聰ドラマスペシャル 祇園囃子(2005年9月、テレビ朝日系) 北山秀彦 / ジョージ白州 役
※平均視聴率は関東20.3%、関西19.2%
熟年離婚(2005年10月 - 12月、テレビ朝日系) - 豊原幸太郎 役
※全9回の平均視聴率は関東19.2%、関西23.2%(最高視聴率は共に最終回の関東21.4%、関西30.0%)
夫婦(2006年2月)テレビ朝日系 - 高村勝利 役
※平均視聴率は関東20.3%、関西24.5%
家族〜妻の不在・夫の存在〜(2006年10月 - 12月、朝日放送) - 佐伯晋一郎 役
「熟年離婚」以来、1年ぶりの連ドラ出演。共演者に竹野内豊、石田ゆり子、木村多江など
マグロ(2007年1月4日、5日)
二夜連続で放映されたスペシャルドラマ。制作費10億円。

以上、フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より転載。





わ行

日活最後のアクションスター 渡哲也

渡哲也は日活最後のスターと云ってもいだろう。日活に入るまでの経歴をみても、高校時代、喧嘩に強くなりたくて空手を習って喧嘩に明け暮れていたそうだから、それだけでも日活アクションスターになる資格は充分すぎる位だ。

日活の新人募集に、面白半分に写真と書類を送ったところ、面接の通知があり、これも興味半分に撮影所に行ったところ、偶然スカウトに目をつけられて入社してしまったそうである。

デビュー作は「あばれ騎士道」65年、小杉勇作品である。その後、やくざ世界のアウトローを演じ次第に人気を得たのである。

ま行

女優として大成した松原智恵子

松原 智恵子(まつばら ちえこ、1945年1月6日 - )は日本の女優。愛知県名古屋市南区出身。実家は南区の銭湯(現存)。名古屋市立桜台高等学校卒。明治大学第二文学部英文科中退。特技:日本舞踊、乗馬。夫・黒木純一郎(ルポライター)。同期・高橋英樹(俳優)、中尾彬(俳優)

戦時中は母の実家があった岐阜県揖斐郡池田町に疎開していた。戦後、名古屋市に移る。

高校生のとき日活が行った「ミス16歳コンテスト」に入賞し、副賞としての撮影所見学がデビューのきっかけ。

一時期、バラエティにも進出し、テレビ局側は中村玉緒を目標としていたが、至らなかった。


 ドラマ
山のかなたに(1966年、NTV)主演
雨の中に消えて (1966年、NTV)主演
あいつと私 (1967年、NTV)主演
いらっしゃいませ (1967年、NET)主演
ある日わたしは (1967年、NTV)主演
レモンの涙 (1968年、NET)主演
はじめまして (1968年、NTV)主演
若い川の流れ (1968年、NTV)主演
きんらんどんす (1969年、フジテレビ)主演
颱風とざくろ (1969年、NTV)主演
すばらしき代役 (1970年、NHK)主演
時間ですよ(1970年〜1973年、TBS)
国盗り物語(1973年、NHK大河ドラマ)
元禄太平記(1975年、NHK大河ドラマ)
水戸黄門 第7部(1977年 TBS・ C.A.L.)お秋役
土曜ワイド劇場 江戸川乱歩「悪魔の紋章」より 死刑台の美女(1978年、テレビ朝日)
水戸黄門 第9部(1978年 TBS・C.A.L.)第19話「仇討ち笹りんどう・中津川」 塚本菊役
おんな太閤記(1981年、NHK大河ドラマ)
あぐり(1997年、NHK朝の連続テレビ小説)
すずらん(1999年、NHK朝の連続テレビ小説)
利家とまつ(2002年、NHK大河ドラマ)
天才柳沢教授の生活(2002年、フジテレビ)
気遣い純喫茶(2004年、フジテレビ)
汚れた舌(2005年、TBS)


映画
紅の銃帯(1961年)
大人と子供のあいの子だい(1961年)
追跡(1961年)
セールスマン物語 男にゃ男の夢がある(1961年)
天に代わりて不義を討つ(1961年)
北上夜曲(1961年)
波止場気質(1961年)
起動捜査班 秘密会員(1961年)
無情の夢(1961年)
野獣の門(1961年)
一石二鳥(1961年)
明日に向かって突っ走れ(1961年)
大当たり百発百中(1961年)
望郷の海(1962年)
地獄の夜は真紅だぜ(1962年)
燃える南十字星(1962年)
二階堂卓也銀座無頼帖 帰ってきた旋風児(1962年)
抜き射ち風来坊(1962年)
さすらい(1962年)
学園広場(1963年)
銀座の次郎長 天下の一大事(1963年)
遊侠無頼(1963年)
霧子のタンゴ(1963年)
灼熱の椅子(1963年)
川っ風や朗たち(1963年)
関東無宿(1963年)
いつでも夢を(1963年)
風が呼んでる旋風児(マイトガイ) 銀座無頼帖(1963年)
関東遊侠伝(1963年)
現代っ子(1963年)
午前零時の出獄(1963年)
さすらいのトランペット(1963年)
東海遊侠伝(1964年)
ギター抱えたひとり旅(1964年)
大日本コソ泥伝(1964年)
俺たちの血が許さない(1964年)
海賊船 海の虎(1964年)
何処へ(1964年)
仲間たち(1964年)
人生劇場(1964年)
花と怒涛(1964年)
拳銃残酷物語(1964年)
マカオの竜(1965年)
拳銃無宿 脱獄のブルース(1965年)
怪盗X 首のない男(1965年)
秩父水滸伝 必殺剣(1965年)
星と俺とできめたんだ(1965年)
青春のお通り(1965年)
真赤な海が読んでるぜ(1965年)
夜明けのうた(1965年)
城取り(1965年)
あばれ騎士道(1965年)
投げたダイスが明日を呼ぶ(1965年)
河内ぞろ あばれ凧(1965年)
拳銃無頼帖 流れ者の群れ(1965年)
傷だらけの天使(1966年)
続・東京流れ者 海は真赤な恋の色(1966年)
遙かなる慕情 星のフラメンコ(1966年)
あなたの命(1966年)
骨まで愛して(1966年)
逢いたくて逢いたくて(1966年)
涙になりたい(1966年)
青春のお通り 愛して泣いて突っ走れ!(1966年)
東京流れ者(1966年)
俺にさわると危ないぜ(1966年)
この虹の消える時にも(1966年)
東京市街戦(1967年)
君は恋人(1967年)
夕笛(1967年)
ザ・スパイダースのゴーゴー向う見ず作戦(1967年)
喜劇東京の田舎ッぺ(1967年)
恋人をさがそう(1967年)
夕笛(1967年)
喜劇ニューヨーク帰りの田舎ッぺ(1967年)
七人の野獣(1967年)
無頼 黒匕首(くろドス)(1968年)
燃える大陸(1968年)
無頼 人斬り五郎(1968年)
無頼非情(1968年)
わが命の唄 艶歌(1968年)
大幹部 無頼(1968年)
残雪(1968年)
「無頼」より 大幹部(1968年)
ぼん太の結婚屋 いろいろあらアな田舎田舎ッぺ(1968年)
華やかな女豹(1969年)
刺客列伝(1969年)
涙でいいの(1969年)
侠花列伝 襲名賭博(1969年)
博徒無情(1969年)
前科 仮釈放(1969年)
無頼 殺せ(1969年)
恋のつむじ風(1969年)
青春の鐘(1969年)
愛するあした(1969年)
華やかな女豹(1969年)
女子学園 悪い遊び(1970年)
戦争と人間 第一部 運命の序曲(1970年)
非行少年 若者の砦(1970年)
栄光への反逆(1970年)
鉄火場慕情(1970年)
昭和残侠伝 吼えろ唐獅子(1970年)
女の意地(1976年)
三人の女 夜の蝶(1976年)
太陽はなかない(1976年)
新仁義なき戦い 組長最後の日(1976年)
俺の選んだ女(1976年)
トラック野郎 天下御免(1976年、東映)
バカヤロー!3 へんな奴ら(1990年)
十六歳のマリンブルー(1990年)
カッパの三平(1993年)
結婚(1993年)
愛する(1997年)
ピエタ(1997年)
ムルデカ17805(2001年)
旅の途中で(2002年)
Dolls(2002年)
おにぎり ARCADIA物語(2004年)
死に花(2004年)
釣りバカ日誌17 あとは能登なれ ハマとなれ!(2006年)
黄色い涙(2007年)

バラエティ
明石家マンション物語(出演は1999年〜2000年、番組は1999年〜2001年)
テレビ探偵団

以上、フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より転載。





タグ:女優 大成

ま行

デビュー当時から根性のあった松原智恵子

松原智恵子、彼女は1961年1月頃のデビューだったと思う。作品の公開が確か1月、裕ちゃんの骨折の前だったような気がする。それはともかく監督は井田探さん、音楽監督は河辺公一さんだった。河辺さんはジャズ畑の人だ。

主人公は長門裕之、その相手役に松原智恵子、他に森川信、南寿美子。SPモノのセールスマン物語である。

チーコの役は品物が売れず、気分もどん底の長門を優しく励まし元気を取り戻させるという役だ。

彼女がアフレコで苦労した話は以前に書いたので、そのくだりは省くことにする。無事にクランクアップして、音楽ダビングも終了、残すはフィルムダビングだけになった日のことだ。

朝9時からのFDには私も参加していた。録音技師の橋本さんとチーフの紅谷さんが並んでいる横に坐って伝声マイクで2階の映写室に「映写部さん、ダビング1行きます、用意、スタート」と号令役をやっていたのだが・・・。

昼過ぎだったと思う。気がつくとチーコが私の横に坐っていた。
「どうしたの?」私が尋ねると彼女はこう答えた。
「ダビングって、どんなことをするのか知りたかったの」
「頑張って最後まで付き合うか?途中で逃げ出すか?」
紅谷さんが茶化すように言う。彼女は唇を尖らせて「私、最後まで頑張ります」と言ったものだ。

私は号令役をチーコちゃんにまかせた。彼女は元気のいい声で「用意、スタート」とやっている。気のせいか映写部さんのフィルムを架けるスピードが速くなったような気がした。

「私、一度、用意スタートって言いたかったの」と彼女は笑顔で云った。
「幾らでも云えばいいよ」と言って私も笑った。

夕食休みが過ぎ、ダビング再開となった。チーコちゃんはちゃんと元の場所に坐っている。さすがに私もビックリした。幾らデビュー作と言ってもダビングまで付き合う女優さんは滅多にいない。やってきても1時間も居ればいい方だ。紅谷さんも「無理しなくて、いつ帰ってもいいんだぜ」と言い出す始末。

だが、彼女は「お二階さん、テスト行きます」とやっている。号令の合間に何か一生懸命にノートに書いている。私が覗き込むと「ねえ、この方がいい?それともここをこうした方が良く見える?」と私に聞く。サインの練習をしているのだ。

私は思いがけず松原智恵子のサインの練習につき合わされてダビングの終わったのは夜10時すぎだった。私は「お疲れさん」と彼女の労をねぎらった。
「お疲れ様でした。サイン、やっぱりアレにするわ」
と笑顔で俳優部の方へ去って行くチーコ。おとなしいけどガッツのある女優さんだった。