球春、今年も野球シーズンが始まった。今年の優勝はどこだろうか。別当、藤村、土井垣の頃からのタイガースファンである私としてはどんな戦いをするか楽しみだ。
野球の話となると思い出す。所内では私もよくボール投げをして遊んだ。相手は企画部の陶山ちゃんとプロデューサ室事務の中本君だ。二人とは同年輩とあってウマが合い、よく話をした。そんなことから所内で対抗の野球の試合をしたことが何度かあった。企画チームと俳優部の試合である。
狛江小学校のグラウンドを借りて、或る日のこと試合が行われた。俳優と言ってもスターが出たわけではない。スタークラスは宍戸錠さんがピッチャーで投げたのを覚えている。あとは郷ちゃん、高品格さん、野呂ちゃんが出ていたと思う。企画チームはほとんど若手のプロデューサー助手で占めていた。さすが俳優部だけあって大部屋女優さんが5,6人応援に来て黄色い声を盛んに張り上げていた。賑やかなことこの上ない。
錠さんが投げると中々良い球がきた。うまいものである。三振を取ると、エースの錠らしい仕草でガッツポーズをして見せた。企画チームの投手は陶山ちゃんだ。捕手は中本君が勤めた。彼のスピードボールは一級品だった。錠さんが打席に立った。声援がひときわ高くなる。私はサードを守っていたが、前の打席で強襲ヒットを打たれていただけに慎重に構えていた。錠さんが打った。今度は高々と上がった三塁線のフライだ。私が懸命にバックして倒れながら捕球するのを見て、錠さんはバットを叩きつけて悔しがった。
試合は点数の取りっ子で一点差で俳優部の勝利となった。試合後、握手した錠さんの手は分厚くて温かかった。みんなが彼のピッチングをほめると「いやぁ、それほどでもねえやな」と照れていた。私は錠さんの一面を見た思いだった。その後、缶ビールが配られ、グラウンドで飲んだビールの旨かったこと、忘れられない味である。
所内対抗野球は何度かやったが、企画チームの成績は余り振るわなかったと思う。特に照明部や録音部相手では歯が立たなかったようだ。
錠さんの作品はほとんどアキラの敵役で、二人の決闘が見せ場になっていた。またそれがいい味を出している。私はいつも(うまいもんだな)と感心しながら見ていたものだ。
さ行
あ行
小柄な身体を鞭打って頑張り続けた華のある女優・・・浅丘ルリ子
浅丘 ルリ子(あさおか ルリこ、1940年7月2日 - )は、日本の女優。本名、浅井 信子。愛称はルリルリ。
身長156cm 体重35kg。サイズ B79/W53/H75 血液型はA型。前夫は石坂浩二。
満州国新京市(現・長春)に生まれる。終戦後、引き揚げ、東京神田に育つ。1954年(昭和29年)、中学在学中に井上梅次監督の『緑はるかに』のヒロイン役のオーディションに応募し、約3000人の中から選ばれてデビューする。
以後、日活の看板女優として多数の映画に出演し、人気を博する。現在までの映画出演本数は150本以上。
小林旭の『渡り鳥』『流れ者』『銀座旋風児』の三大アクション・シリーズや 石原裕次郎のムード・アクション・シリーズ(『赤いハンカチ』(1964年)、『夕陽の丘』(1964年)、『夜霧よ今夜も有難う』(1967年)等)など、日活アクション映画のヒロイン役が多い。
蔵原惟繕監督の『銀座の恋の物語』(1962年)や、『憎いあンちくしょう』(1962年)、『何か面白いことないか』(1963年)、『夜明けのうた』(1965年)の典子三部作により男性スターの彩り的存在から脱皮。
1964年、100本出演記念映画、蔵原惟繕監督の『執炎』で、愛する夫を戦争に奪われた女性の姿を哀感たっぷりに演じ、その演技力は誰もが認めるところとなり、『愛の渇き』(1967年)でも熱演を魅せた。
その他にも、『水で書かれた物語』、『私が棄てた女』、『栄光への5000キロ』、『戦争と人間・第一部〜第三部』、『告白的女優論』、『鹿鳴館』などの映画の話題作に出演した。特に、映画『男はつらいよ』シリーズで演じたクラブ歌手の「リリー」の役は大好評で、マドンナとしてシリーズ最多の4回の出演を数え、最後の作品となった『男はつらいよ 寅次郎紅の花』でもマドンナ役を務めた。
最終作の撮影現場で具合の悪そうな渥美清の姿を見て、「もしかしたらこれは最後の作品になるかもしれない」と思ったという。そのため山田監督に「最後の作品になるかもしれないから寅さんと結婚させてほしい」と頼んだと言うが山田洋次は50作まで製作したかったらしく、願いはかなえられなかった。
1980年代以降は活動の中心を舞台に移し、「泉鏡花」の作品などで高い評価を受けている。
「ファッショナブルな女優の代名詞」としても有名。
また、映画の主題歌などを中心に歌手としても多くの曲を発表し、1969年に発表した『愛の化石』は大ヒットとなる。
俳優石坂浩二は元夫。現在は大衆演劇俳優・松井誠との交際を公にしている。
受賞歴
第6回ゴールデン・アロー賞大賞(1968年)、第7回同・グラフ賞(1969年)
キネマ旬報主演女優賞 (1975年)
ブルーリボン賞主演女優賞 (1975年)
ギャラクシー賞テレビ大賞個人賞 (1984年)
東京都民栄誉賞 (1989年)
第50回毎日映画コンクール 田中絹代賞 (1995年)
第9回日刊スポーツ映画賞主演女優賞 (1996年)
第24回菊田一夫演劇賞 (1999年)
紫綬褒章(2002年)
出演映画
緑はるかに(1955年) - デビュー作にして、初のカラー映画出演。
銀座二十四帖(1955年) - ※DVD発売
愛情(1956年) - この映画が近年、テレビCMに起用され話題になり、浅丘と気づかない視聴者達から「あの昔の可愛い女の子はだれ?」と問い合わせが殺到した。
裏町のお転婆娘(1956年)
愉快な仲間 赤ちゃん特急(1956年)
むすめ巡礼 流れの花(1956年)
愛は降る星のかなたに(1956年)
踊る太陽 お転婆三人姉妹(1957年) - カラー映画だったが、今では白黒フィルムしか現存していない。
鷲と鷹(1957年)
17才の抵抗(1957年)
永遠に答えず(1957年)
今日のいのち(1957年)
運河(1958年)
絶唱(1958年)
禁じられた唇(1958年)
永遠に答えず 完結編(1958年)
夫婦百景(1958年)
続・夫婦百景(1958年)
南国土佐を後にして(1959年)
ギターを持った渡り鳥(1959年)
銀座旋風児(1959年)
世界を賭ける恋(1959年) - 当時としては破格のヨーロッパロケが行われた。
拳銃無頼帖 抜き打ちの竜(1960年)
拳銃無頼帖 電光石火の男(1960年)
大草原の渡り鳥(1960年)
銀座旋風児 目撃者は彼奴だ(1960年)
十六歳(1960年)
銀座旋風児 嵐が俺を呼んでいる(1961年)
北帰行より 渡り鳥北へ帰る(1962年)
銀座の恋の物語(1962年)
憎いあンちくしょう(1962年)
危いことなら銭になる(1962年)
愛と死のかたみ(1962年)
若い人(1962年) - 原作:石坂洋次郎、橋本スミ子 役
何か面白いことないか(1963年)
夜霧のブルース(1963年)
太平洋ひとりぼっち(1963年)
霧に消えた人(1963年)
丘は花ざかり(1963年)
結婚の条件(1963年)
アカシアの雨がやむとき(1963年) - 西田佐知子の同名大ヒット曲の映画化。共演:高橋英樹。
執炎(1964年)
赤いハンカチ(1964年)
夕陽の丘(1964年)
若草物語(1964年)
夜明けのうた(1965年)
水で書かれた物語(1965年)
二人の世界(1966年)
源氏物語(1966年)
愛の渇き(1967年)
夜霧よ今夜も有難う(1967年)
紅の流れ星(1967年)
君は恋人(1967年)
私が棄てた女(1969年)
栄光への5000キロ(1969年)
女体(1969年)
華やかな女豹(1969年)
戦争と人間第一部 運命の序曲(1970年)
愛の化石(1970年) - 自身の大ヒット曲の映画化。共演:田宮二郎。
告白的女優論(1971年)
嫉妬(1971年) - 共演:岩下志麻。
戦争と人間第二部 愛と悲しみの大河(1971年)
愛ふたたび(1971年)
戦争と人間第三部 完結篇(1973年)
男はつらいよ 寅次郎忘れな草(1973年)
男はつらいよ 寅次郎相合い傘(1975年)
渚の白い家(1978年)
男はつらいよ 寅次郎ハイビスカスの花(1980年)
鹿鳴館(1986年)
四十七人の刺客(1994年)
男はつらいよ 寅次郎紅の花(1995年)
木曜組曲(2001年)
博士の愛した数式(2006年)
早咲きの花(2006年)
以上、フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より転載。
あの細い華奢な身体でよくぞまあ頑張り続けたものだと感心する。彼女の役者根性には敬服すら覚える。真に素晴らしい女優さんである。
私自身は彼女の作品には10本あまりしかタッチしていないが、「銀座の恋の物語」「執炎」「夜明けのうた」などが印象に残っている。
身長156cm 体重35kg。サイズ B79/W53/H75 血液型はA型。前夫は石坂浩二。
満州国新京市(現・長春)に生まれる。終戦後、引き揚げ、東京神田に育つ。1954年(昭和29年)、中学在学中に井上梅次監督の『緑はるかに』のヒロイン役のオーディションに応募し、約3000人の中から選ばれてデビューする。
以後、日活の看板女優として多数の映画に出演し、人気を博する。現在までの映画出演本数は150本以上。
小林旭の『渡り鳥』『流れ者』『銀座旋風児』の三大アクション・シリーズや 石原裕次郎のムード・アクション・シリーズ(『赤いハンカチ』(1964年)、『夕陽の丘』(1964年)、『夜霧よ今夜も有難う』(1967年)等)など、日活アクション映画のヒロイン役が多い。
蔵原惟繕監督の『銀座の恋の物語』(1962年)や、『憎いあンちくしょう』(1962年)、『何か面白いことないか』(1963年)、『夜明けのうた』(1965年)の典子三部作により男性スターの彩り的存在から脱皮。
1964年、100本出演記念映画、蔵原惟繕監督の『執炎』で、愛する夫を戦争に奪われた女性の姿を哀感たっぷりに演じ、その演技力は誰もが認めるところとなり、『愛の渇き』(1967年)でも熱演を魅せた。
その他にも、『水で書かれた物語』、『私が棄てた女』、『栄光への5000キロ』、『戦争と人間・第一部〜第三部』、『告白的女優論』、『鹿鳴館』などの映画の話題作に出演した。特に、映画『男はつらいよ』シリーズで演じたクラブ歌手の「リリー」の役は大好評で、マドンナとしてシリーズ最多の4回の出演を数え、最後の作品となった『男はつらいよ 寅次郎紅の花』でもマドンナ役を務めた。
最終作の撮影現場で具合の悪そうな渥美清の姿を見て、「もしかしたらこれは最後の作品になるかもしれない」と思ったという。そのため山田監督に「最後の作品になるかもしれないから寅さんと結婚させてほしい」と頼んだと言うが山田洋次は50作まで製作したかったらしく、願いはかなえられなかった。
1980年代以降は活動の中心を舞台に移し、「泉鏡花」の作品などで高い評価を受けている。
「ファッショナブルな女優の代名詞」としても有名。
また、映画の主題歌などを中心に歌手としても多くの曲を発表し、1969年に発表した『愛の化石』は大ヒットとなる。
俳優石坂浩二は元夫。現在は大衆演劇俳優・松井誠との交際を公にしている。
受賞歴
第6回ゴールデン・アロー賞大賞(1968年)、第7回同・グラフ賞(1969年)
キネマ旬報主演女優賞 (1975年)
ブルーリボン賞主演女優賞 (1975年)
ギャラクシー賞テレビ大賞個人賞 (1984年)
東京都民栄誉賞 (1989年)
第50回毎日映画コンクール 田中絹代賞 (1995年)
第9回日刊スポーツ映画賞主演女優賞 (1996年)
第24回菊田一夫演劇賞 (1999年)
紫綬褒章(2002年)
出演映画
緑はるかに(1955年) - デビュー作にして、初のカラー映画出演。
銀座二十四帖(1955年) - ※DVD発売
愛情(1956年) - この映画が近年、テレビCMに起用され話題になり、浅丘と気づかない視聴者達から「あの昔の可愛い女の子はだれ?」と問い合わせが殺到した。
裏町のお転婆娘(1956年)
愉快な仲間 赤ちゃん特急(1956年)
むすめ巡礼 流れの花(1956年)
愛は降る星のかなたに(1956年)
踊る太陽 お転婆三人姉妹(1957年) - カラー映画だったが、今では白黒フィルムしか現存していない。
鷲と鷹(1957年)
17才の抵抗(1957年)
永遠に答えず(1957年)
今日のいのち(1957年)
運河(1958年)
絶唱(1958年)
禁じられた唇(1958年)
永遠に答えず 完結編(1958年)
夫婦百景(1958年)
続・夫婦百景(1958年)
南国土佐を後にして(1959年)
ギターを持った渡り鳥(1959年)
銀座旋風児(1959年)
世界を賭ける恋(1959年) - 当時としては破格のヨーロッパロケが行われた。
拳銃無頼帖 抜き打ちの竜(1960年)
拳銃無頼帖 電光石火の男(1960年)
大草原の渡り鳥(1960年)
銀座旋風児 目撃者は彼奴だ(1960年)
十六歳(1960年)
銀座旋風児 嵐が俺を呼んでいる(1961年)
北帰行より 渡り鳥北へ帰る(1962年)
銀座の恋の物語(1962年)
憎いあンちくしょう(1962年)
危いことなら銭になる(1962年)
愛と死のかたみ(1962年)
若い人(1962年) - 原作:石坂洋次郎、橋本スミ子 役
何か面白いことないか(1963年)
夜霧のブルース(1963年)
太平洋ひとりぼっち(1963年)
霧に消えた人(1963年)
丘は花ざかり(1963年)
結婚の条件(1963年)
アカシアの雨がやむとき(1963年) - 西田佐知子の同名大ヒット曲の映画化。共演:高橋英樹。
執炎(1964年)
赤いハンカチ(1964年)
夕陽の丘(1964年)
若草物語(1964年)
夜明けのうた(1965年)
水で書かれた物語(1965年)
二人の世界(1966年)
源氏物語(1966年)
愛の渇き(1967年)
夜霧よ今夜も有難う(1967年)
紅の流れ星(1967年)
君は恋人(1967年)
私が棄てた女(1969年)
栄光への5000キロ(1969年)
女体(1969年)
華やかな女豹(1969年)
戦争と人間第一部 運命の序曲(1970年)
愛の化石(1970年) - 自身の大ヒット曲の映画化。共演:田宮二郎。
告白的女優論(1971年)
嫉妬(1971年) - 共演:岩下志麻。
戦争と人間第二部 愛と悲しみの大河(1971年)
愛ふたたび(1971年)
戦争と人間第三部 完結篇(1973年)
男はつらいよ 寅次郎忘れな草(1973年)
男はつらいよ 寅次郎相合い傘(1975年)
渚の白い家(1978年)
男はつらいよ 寅次郎ハイビスカスの花(1980年)
鹿鳴館(1986年)
四十七人の刺客(1994年)
男はつらいよ 寅次郎紅の花(1995年)
木曜組曲(2001年)
博士の愛した数式(2006年)
早咲きの花(2006年)
以上、フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より転載。
あの細い華奢な身体でよくぞまあ頑張り続けたものだと感心する。彼女の役者根性には敬服すら覚える。真に素晴らしい女優さんである。
私自身は彼女の作品には10本あまりしかタッチしていないが、「銀座の恋の物語」「執炎」「夜明けのうた」などが印象に残っている。
あ行
裕次郎・アキラのコンビと言えばこの人 浅丘ルリ子
裕ちゃんやアキラのコンビと言えばルリちゃんの名前が出るほど、まさに八面六臂の活躍をしたものである。細い体でよく持つものだと感心した位だ。
通路で会っても挨拶をする程度で話をしたことはない。今となっては残念なことをしたものだと思っている。
記憶に残っているのは、「執炎」のセット撮影のとき裕ちゃんが歌いルリちゃんがモノローグを語る部分がある。確か音楽とモノローグは先取りしてセットでプレイバックしたような気がするのだが、セット撮影に付き合ったのを覚えている。
流れる音楽とモノローグに合わせて口ぱくで演技をしたように思うが、流石に見事に合わせていた。これは中々出来ないことである。
「
通路で会っても挨拶をする程度で話をしたことはない。今となっては残念なことをしたものだと思っている。
記憶に残っているのは、「執炎」のセット撮影のとき裕ちゃんが歌いルリちゃんがモノローグを語る部分がある。確か音楽とモノローグは先取りしてセットでプレイバックしたような気がするのだが、セット撮影に付き合ったのを覚えている。
流れる音楽とモノローグに合わせて口ぱくで演技をしたように思うが、流石に見事に合わせていた。これは中々出来ないことである。
「
か行
マイトガイ・アキラはいかにして生まれたか?
小林 旭(こばやし あきら、1938年11月3日 - )は、俳優、歌手である。ニックネームは、マイトガイ。
来歴
東京都出身。子役の仕事を経て第三期日活ニューフェイスに合格。明治大学中退。
1956年、「飢える魂」で本格デビュー。1959年公開の「南国土佐を後にして」で脚光を浴びる。
以降「渡り鳥」シリーズ、「旋風児」シリーズに主演。石原裕次郎らとともに日活の黄金時代を築く。
しかし、映画の興行収入が石原裕次郎主演作より上だった年もあったが、石原裕次郎よりギャラは低かった。これは、石原裕次郎が水の江滝子や石原慎太郎といったバックボーンがあり客人扱いだった事、いくら大スターの小林でも元々大部屋出身だった事で子飼い扱いされたためと言われている。
映画の『ギターを持った渡り鳥』『銀座旋風児(ぎんざまいとがい)』など主題歌、挿入歌を歌いヒットさせる。また、『自動車ショー歌』(※2005年に放送されたアサヒビールの《カクテルパートナー》のCMソングはこの【自動車ショー歌】をアレンジした『カクパーショー歌』)、『恋の山手線』などのコミックソング、『昔の名前で出ています』などの演歌も歌う。
歌手の美空ひばりと1962年に結婚、1964年に離婚。(小林旭の著書によれば、結婚の際も離婚の際もひばりの父親代わりの山口組三代目組長田岡一雄から頼まれ、逆らうことは出来なかったとのこと。実際には2人は入籍しておらず、戸籍上、ひばりは生涯独身であった。)離婚記者会見には、ひばりと共に田岡組長が並んで会見し、世間を驚かせた。会見で協議離婚かと聞かれた小林は(協議も何もなかったので)理解離婚だと答えたため、理解離婚と言う言葉が流行語となった
1967年に女優の青山京子と結婚。
客が入らず日活が倒産寸前になったこと等により1970年前後には一時低迷。事業で作った借金に苦しむ。
1972年、東映入り。1973年より大ヒットした仁義なき戦いシリーズでの武田明役で脚光を浴びる。1976年にはヤンマーの農業用トラクター「ヤンマーディーゼルトラクタ・YMシリーズ」のTVCMに出演して話題となり、『昔の名前で出ています』というヒット曲も生まれて、歌手としても再び脚光を浴びるようになる。
1985年には、彼の大ファンでもあった大瀧詠一が小林のために書き下ろした(作詞は阿久悠)『熱き心に』がAGFのCMソングとして大ヒットし、2002年には大瀧の企画・監修による4枚組CDが発売された。
長女の真実(まなみ)は秋葉原にてメイドマッサージ店『みるきぃ☆えんじぇる』を経営していた。物真似好きで『ものまねバトル37』に出場した際は、父親の歌である『自動車ショー歌』を歌った。
2004年には、芸能生活50周年を記念し、石原裕次郎や美空ひばりとのことなど、これまでの人生について赤裸々に綴った本『熱き心に』を出版した。
2006年には、本人をモチーフにしたパチンコ機「CR渡り鳥AKIRA」(藤商事)が登場した。
芸能活動以外にもゴルフ場、自主制作映画などの事業を起こしているが、『失敗→借金→芸能活動で返済』を繰り返し、現在でも自宅は債権者に差し押さえられている。
片岡鶴太郎が物真似の十八番としているキャラクターの一人である。
2007年2月23日、日本プロゴルフ協会から、川上哲治、羽佐間正雄らとともに名誉会員(2006年に制定)に認定される。名誉と言う肩書きではあるが、実際にプロの試合に出て賞金を稼ぐことも可能である。
主な出演作
映画
飢える魂 正・続篇(1956年。※DVD発売)
南国土佐を後にして
渡り鳥シリーズ
ギターを持った渡り鳥
口笛が流れる港町
渡り鳥いつまた帰る
赤い夕日の渡り鳥
大草原の渡り鳥
波涛を越える渡り鳥
大海原を行く渡り鳥
渡り鳥北へ帰る
銀座旋風児シリーズ
銀座旋風児
銀座旋風児 黒幕は誰だ
銀座旋風児 嵐が俺を呼んでいる
二階堂卓也銀座無頼帖 帰ってきた旋風児
風が呼んでる旋風児 銀座無頼帖
仁義なき戦いシリーズ
仁義なき戦い 代理戦争
仁義なき戦い 頂上作戦
仁義なき戦い 完結篇
修羅の伝説
民暴の帝王
修羅の群れ
以上、フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より転載。
「爆薬(ダイナマイト)に火をつけろ」(59年・蔵原作品)に出演して以来、題名をもじって”マイトガイ”という二ックネームを頂戴した。アキラの呼称”マイトガイ”をそのまま題名に据えた作品に「ギンザマイトガイ・銀座旋風児」がある。
吉永小百合と共演した作品は日活では僅かに1本だけ。「黒い傷あとのブルース」がそれだ。私が担当した作品だからいうわけではないが、佳作のムード・アクションだった。「青春の門」(75年・浦山作品)でも共演しているが、これは東宝作品である。
ともかく小林旭ほどシリーズ物を持っていた俳優はいない。代名詞ともなった渡り鳥シリーズ、旋風児シリーズ、流れ者シリーズ、暴れん坊シリーズ、次郎長シリーズ、賭博師シリーズ、ざっとこれだけのものがあったのだから恐れ入る。
来歴
東京都出身。子役の仕事を経て第三期日活ニューフェイスに合格。明治大学中退。
1956年、「飢える魂」で本格デビュー。1959年公開の「南国土佐を後にして」で脚光を浴びる。
以降「渡り鳥」シリーズ、「旋風児」シリーズに主演。石原裕次郎らとともに日活の黄金時代を築く。
しかし、映画の興行収入が石原裕次郎主演作より上だった年もあったが、石原裕次郎よりギャラは低かった。これは、石原裕次郎が水の江滝子や石原慎太郎といったバックボーンがあり客人扱いだった事、いくら大スターの小林でも元々大部屋出身だった事で子飼い扱いされたためと言われている。
映画の『ギターを持った渡り鳥』『銀座旋風児(ぎんざまいとがい)』など主題歌、挿入歌を歌いヒットさせる。また、『自動車ショー歌』(※2005年に放送されたアサヒビールの《カクテルパートナー》のCMソングはこの【自動車ショー歌】をアレンジした『カクパーショー歌』)、『恋の山手線』などのコミックソング、『昔の名前で出ています』などの演歌も歌う。
歌手の美空ひばりと1962年に結婚、1964年に離婚。(小林旭の著書によれば、結婚の際も離婚の際もひばりの父親代わりの山口組三代目組長田岡一雄から頼まれ、逆らうことは出来なかったとのこと。実際には2人は入籍しておらず、戸籍上、ひばりは生涯独身であった。)離婚記者会見には、ひばりと共に田岡組長が並んで会見し、世間を驚かせた。会見で協議離婚かと聞かれた小林は(協議も何もなかったので)理解離婚だと答えたため、理解離婚と言う言葉が流行語となった
1967年に女優の青山京子と結婚。
客が入らず日活が倒産寸前になったこと等により1970年前後には一時低迷。事業で作った借金に苦しむ。
1972年、東映入り。1973年より大ヒットした仁義なき戦いシリーズでの武田明役で脚光を浴びる。1976年にはヤンマーの農業用トラクター「ヤンマーディーゼルトラクタ・YMシリーズ」のTVCMに出演して話題となり、『昔の名前で出ています』というヒット曲も生まれて、歌手としても再び脚光を浴びるようになる。
1985年には、彼の大ファンでもあった大瀧詠一が小林のために書き下ろした(作詞は阿久悠)『熱き心に』がAGFのCMソングとして大ヒットし、2002年には大瀧の企画・監修による4枚組CDが発売された。
長女の真実(まなみ)は秋葉原にてメイドマッサージ店『みるきぃ☆えんじぇる』を経営していた。物真似好きで『ものまねバトル37』に出場した際は、父親の歌である『自動車ショー歌』を歌った。
2004年には、芸能生活50周年を記念し、石原裕次郎や美空ひばりとのことなど、これまでの人生について赤裸々に綴った本『熱き心に』を出版した。
2006年には、本人をモチーフにしたパチンコ機「CR渡り鳥AKIRA」(藤商事)が登場した。
芸能活動以外にもゴルフ場、自主制作映画などの事業を起こしているが、『失敗→借金→芸能活動で返済』を繰り返し、現在でも自宅は債権者に差し押さえられている。
片岡鶴太郎が物真似の十八番としているキャラクターの一人である。
2007年2月23日、日本プロゴルフ協会から、川上哲治、羽佐間正雄らとともに名誉会員(2006年に制定)に認定される。名誉と言う肩書きではあるが、実際にプロの試合に出て賞金を稼ぐことも可能である。
主な出演作
映画
飢える魂 正・続篇(1956年。※DVD発売)
南国土佐を後にして
渡り鳥シリーズ
ギターを持った渡り鳥
口笛が流れる港町
渡り鳥いつまた帰る
赤い夕日の渡り鳥
大草原の渡り鳥
波涛を越える渡り鳥
大海原を行く渡り鳥
渡り鳥北へ帰る
銀座旋風児シリーズ
銀座旋風児
銀座旋風児 黒幕は誰だ
銀座旋風児 嵐が俺を呼んでいる
二階堂卓也銀座無頼帖 帰ってきた旋風児
風が呼んでる旋風児 銀座無頼帖
仁義なき戦いシリーズ
仁義なき戦い 代理戦争
仁義なき戦い 頂上作戦
仁義なき戦い 完結篇
修羅の伝説
民暴の帝王
修羅の群れ
以上、フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より転載。
「爆薬(ダイナマイト)に火をつけろ」(59年・蔵原作品)に出演して以来、題名をもじって”マイトガイ”という二ックネームを頂戴した。アキラの呼称”マイトガイ”をそのまま題名に据えた作品に「ギンザマイトガイ・銀座旋風児」がある。
吉永小百合と共演した作品は日活では僅かに1本だけ。「黒い傷あとのブルース」がそれだ。私が担当した作品だからいうわけではないが、佳作のムード・アクションだった。「青春の門」(75年・浦山作品)でも共演しているが、これは東宝作品である。
ともかく小林旭ほどシリーズ物を持っていた俳優はいない。代名詞ともなった渡り鳥シリーズ、旋風児シリーズ、流れ者シリーズ、暴れん坊シリーズ、次郎長シリーズ、賭博師シリーズ、ざっとこれだけのものがあったのだから恐れ入る。
か行
渡り鳥のイメージが強いが 「南国土佐・・」の大ヒットで一躍スターに 小林旭」
最初、日活撮影所に入った頃のこと。今でも印象に残っていることがある。それは宣伝部に張られていた一枚のポスターだ。なんと「女を忘れろ」のポスターである。
当時、女友達もなかった私だが、働く以上は「女を忘れ」てがんばれとポスターが云っているように思えた。不思議に題名を目にするとそのことを思い出してしまうのだから妙なものだ。
小林旭は今でこそ風格を備え、人品も立派に見えるが、若い頃のアキラは少々やんちゃなところも多分にあった。それでも極めて気さくなスターらしくないスターだったと私は思う。
「お早うっす」と挨拶しても「オ〜スッ」と応えてくれたのが、アキラだったと思う。
危ない場面でもスタントマン(吹き替え)を使わず、全部自分でこなすのがアキラ流で、常にヒヤヒヤと同居していた。
一度、所内で本館と向かいの食堂の建物まで張ってあるロープの上を渡る旭を見たことがある。地上まで10m位はあっただろうか。
確かサーカス物だったような記憶がある。所内の野次馬が大勢見物する中をポールを持ちゆっくりと歩く旭をヒヤヒヤしながらみまも
った。20m近い距離をわたりと大拍手が起きた。
なんと本番一発でOKには驚いたものである。
当時、女友達もなかった私だが、働く以上は「女を忘れ」てがんばれとポスターが云っているように思えた。不思議に題名を目にするとそのことを思い出してしまうのだから妙なものだ。
小林旭は今でこそ風格を備え、人品も立派に見えるが、若い頃のアキラは少々やんちゃなところも多分にあった。それでも極めて気さくなスターらしくないスターだったと私は思う。
「お早うっす」と挨拶しても「オ〜スッ」と応えてくれたのが、アキラだったと思う。
危ない場面でもスタントマン(吹き替え)を使わず、全部自分でこなすのがアキラ流で、常にヒヤヒヤと同居していた。
一度、所内で本館と向かいの食堂の建物まで張ってあるロープの上を渡る旭を見たことがある。地上まで10m位はあっただろうか。
確かサーカス物だったような記憶がある。所内の野次馬が大勢見物する中をポールを持ちゆっくりと歩く旭をヒヤヒヤしながらみまも
った。20m近い距離をわたりと大拍手が起きた。
なんと本番一発でOKには驚いたものである。
あ行
黄金期の日活になくてはならなかった女優さん 芦川いづみ
芦川 いづみ(あしかわ いづみ、1935年10月6日 - )は、日活の黄金期を代表する日本の女優。
東京市滝野川区田端町(現・北区田端に生まれる。1952年法政大学潤光女子高校(現・法政大学女子高等学校を中退し、「松竹歌劇団付属音楽舞踊学校」に入学する。同期に野添ひとみ、山鳩くるみらがいた。このとき、芸名を芦川いづみとする。1953年、ファッション・ショーに出演中、偶然いあわせた松竹の川島雄三監督に認められ、川島監督の『東京マダムと大阪夫人』に、月丘夢路の妹役でデビューする。その後、1955年、日活に移った川島監督の推薦で松竹歌劇団を退団し日活に入社する。
その後、幕末太陽傳などの川島監督の作品をはじめ、様々な役に挑戦し、松竹から移ってきた北原三枝とともに日活の中心的な存在となった。
また、1956年には、田坂具隆監督の『乳母車』で石原裕次郎と初共演する。裕次郎はこの作品の演技で、新しい魅力を遺憾なく発揮し代表作の一つとしたが、芦川もさわやかな演技で人気を不動のものとした。以降、北原三枝とともに裕次郎の相手役として欠かせない存在となる。若い浅丘ルリ子にその座を譲ってからも日活を代表する女優として活躍した。
一時、葉山良二とのロマンスが噂されたが、1968年に藤竜也と結婚し、引退した。
いつもにこやかな笑顔をみせてくれていた彼女。その引退を惜しむのは私だけではないだろう。
映画
東京マダムと大阪夫人(1953年)
青春怪談(1954年)
風船(1956年)
東京の人(1956年)
洲崎パラダイス赤信号(1956年、日活、監督:川島雄三)玉子役
乳母車(1956年)
幕末太陽傳(1957年)
嵐を呼ぶ男(1957年)
佳人(1958年)
陽のあたる坂道(1958年)
紅の翼(1958年)
青年の樹(1960年)
あいつと私(1961年)
堂堂たる人生(1961年)
硝子のジョニー野獣のように見えて(1962年)
しろばんば(1962年)
青い山脈(1963年)
鉄火場破り(1964年)
夜のバラを消せ(1966年)
嵐を呼ぶ男(1966年)
大幹部無頼(1968年)
孤島の太陽(1968年)
テレビドラマ
信子(1964年)
陽のあたる坂道(1965年)
あした来る人(1965年)
東京物語(1967年)
若草物語(1968年)
以上、フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より転載。
東京市滝野川区田端町(現・北区田端に生まれる。1952年法政大学潤光女子高校(現・法政大学女子高等学校を中退し、「松竹歌劇団付属音楽舞踊学校」に入学する。同期に野添ひとみ、山鳩くるみらがいた。このとき、芸名を芦川いづみとする。1953年、ファッション・ショーに出演中、偶然いあわせた松竹の川島雄三監督に認められ、川島監督の『東京マダムと大阪夫人』に、月丘夢路の妹役でデビューする。その後、1955年、日活に移った川島監督の推薦で松竹歌劇団を退団し日活に入社する。
その後、幕末太陽傳などの川島監督の作品をはじめ、様々な役に挑戦し、松竹から移ってきた北原三枝とともに日活の中心的な存在となった。
また、1956年には、田坂具隆監督の『乳母車』で石原裕次郎と初共演する。裕次郎はこの作品の演技で、新しい魅力を遺憾なく発揮し代表作の一つとしたが、芦川もさわやかな演技で人気を不動のものとした。以降、北原三枝とともに裕次郎の相手役として欠かせない存在となる。若い浅丘ルリ子にその座を譲ってからも日活を代表する女優として活躍した。
一時、葉山良二とのロマンスが噂されたが、1968年に藤竜也と結婚し、引退した。
いつもにこやかな笑顔をみせてくれていた彼女。その引退を惜しむのは私だけではないだろう。
映画
東京マダムと大阪夫人(1953年)
青春怪談(1954年)
風船(1956年)
東京の人(1956年)
洲崎パラダイス赤信号(1956年、日活、監督:川島雄三)玉子役
乳母車(1956年)
幕末太陽傳(1957年)
嵐を呼ぶ男(1957年)
佳人(1958年)
陽のあたる坂道(1958年)
紅の翼(1958年)
青年の樹(1960年)
あいつと私(1961年)
堂堂たる人生(1961年)
硝子のジョニー野獣のように見えて(1962年)
しろばんば(1962年)
青い山脈(1963年)
鉄火場破り(1964年)
夜のバラを消せ(1966年)
嵐を呼ぶ男(1966年)
大幹部無頼(1968年)
孤島の太陽(1968年)
テレビドラマ
信子(1964年)
陽のあたる坂道(1965年)
あした来る人(1965年)
東京物語(1967年)
若草物語(1968年)
以上、フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より転載。
あ行
芦川いづみちゃんが車の窓を開けて・・・
この日の出来事は、忘れられない貴重な思い出として、私の脳裏に刻みこまれている。
その日、お昼前のこと、私は京王線の布田駅に降り立った。駅から日活撮影所までは約2キロあり、徒歩で行くと20分はかかる。歩き出して5分も経ってなかったと思う。その日は他に誰も歩いてなく、私一人だった。
不意に私の横に真っ赤な外車が停まった。左ハンドルの外車、カルマン・ギアの運転席から芦川いづみちゃんの顔が覗いている。いづみちゃんは私に向かって微笑みながら言葉をかけてくれた。
「お乗りになりません?」
私は流石に驚いた。既に顔なじみとは言え、大スターのいづみちゃんが、まさか声をかけてくれようとは思いもしなかった。私はドギマギして言った。
「いいんですか?」
「どうぞ」
と言う声に、私は反対側の助手席にまわり、いづみちゃんの横に坐った。僅かな時間のドライブだ。
車は発進した、快適な乗り心地だ。
「今日は何ですか?」
と私は尋ねた。
「××組の衣装合わせなの。あなたは?」
「午後から音楽ラッシュなんです。××組だと大変でしょう?」
「そうよ。恐い監督さんだから、今からドキドキものよ。それに今度のは大作だし、余計に神経使うわ」
車中で僅かな会話を交わしている間に早くも車は撮影所の門をくぐっていた。
このままずっと乗って居たかったと思ったのは車から降りてからだ。
「どうも有り難うございました」
いづみちゃんに一礼すると、彼女はにっこり笑って
「いいのよ、これ位」
「次の作品、頑張って下さい。期待してますから」
「あなたもね、じゃあ」
手を振りながら俳優部の方へ消えて行った。
時間にして7、8分、10分足らずの短いお付き合いだったが、このことがあって以来、益々いづみちゃんが好きになつた。これは私の撮影所時代の貴重な思い出である。
今はきっと優しいおばあちゃんになり、藤竜也夫人として夫に尽くしていることだろう。
その日、お昼前のこと、私は京王線の布田駅に降り立った。駅から日活撮影所までは約2キロあり、徒歩で行くと20分はかかる。歩き出して5分も経ってなかったと思う。その日は他に誰も歩いてなく、私一人だった。
不意に私の横に真っ赤な外車が停まった。左ハンドルの外車、カルマン・ギアの運転席から芦川いづみちゃんの顔が覗いている。いづみちゃんは私に向かって微笑みながら言葉をかけてくれた。
「お乗りになりません?」
私は流石に驚いた。既に顔なじみとは言え、大スターのいづみちゃんが、まさか声をかけてくれようとは思いもしなかった。私はドギマギして言った。
「いいんですか?」
「どうぞ」
と言う声に、私は反対側の助手席にまわり、いづみちゃんの横に坐った。僅かな時間のドライブだ。
車は発進した、快適な乗り心地だ。
「今日は何ですか?」
と私は尋ねた。
「××組の衣装合わせなの。あなたは?」
「午後から音楽ラッシュなんです。××組だと大変でしょう?」
「そうよ。恐い監督さんだから、今からドキドキものよ。それに今度のは大作だし、余計に神経使うわ」
車中で僅かな会話を交わしている間に早くも車は撮影所の門をくぐっていた。
このままずっと乗って居たかったと思ったのは車から降りてからだ。
「どうも有り難うございました」
いづみちゃんに一礼すると、彼女はにっこり笑って
「いいのよ、これ位」
「次の作品、頑張って下さい。期待してますから」
「あなたもね、じゃあ」
手を振りながら俳優部の方へ消えて行った。
時間にして7、8分、10分足らずの短いお付き合いだったが、このことがあって以来、益々いづみちゃんが好きになつた。これは私の撮影所時代の貴重な思い出である。
今はきっと優しいおばあちゃんになり、藤竜也夫人として夫に尽くしていることだろう。
あ行
裕ちゃんは自然児のままだった・・・
昼食時になると所内食堂のテーブルには必ずビール瓶とコップが一つ置かれていた。裕ちゃんの席でロケなどで不在の時以外は、そうしていたようだ。
所内は禁酒のお触れが所長から出されており、唯一認められているのは裕ちゃん一人だった。勿論、傾きかけていた日活を立て直した功績によるものであった。
裕ちゃんの周りはいつも取り巻きの人でいっぱいだった。後に石原プロで活躍する裕次郎の右腕となった俳優部の小林正彦もその一人で、通称(こまさ)と呼ばれていた。後の石原プロの専務で裕ちゃんの補佐役に徹し切り、今もまき子夫人と渡社長を守り続けている大番頭だ。いかつい顔で声も大きかったのを覚えている。
話は戻るが裕ちゃんが飲んでいても、誰も一緒に飲んでいるのを見たことがない。裕ちゃんが勧めても手を振って断っていた。昼間から飲んでいい特権は、裕ちゃんだけのものと心得ていたのだろう。
以下、フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より
主なヒット曲一覧
1961.01 銀座の恋の物語
1965.05 二人の世界
1962.10 赤いハンカチ
1967.02 夜霧よ今夜も有難う/粋な別れ
1957.02 俺は待ってるぜ/狂った果実
1957.08 錆びたナイフ
1966.03 夜霧の慕情
1964.05 俺はお前に弱いんだ
1977.04 ブランデーグラス
1963.09 夕陽の丘
1987.08 北の旅人
1987.04 わが人生に悔いなし
1956.06 狂った果実
1958.01 嵐を呼ぶ男
1973.12 別れの夜明け
1972.02 恋の町札幌
1968.06 サヨナラ横浜
1982.09 俺の小樽
1973.08 港町 涙町 別れ町
1979.07 みんな誰かを愛してる
主な出演映画
「太陽の季節」 - デビュー作
「狂った果実」 - 初主演作、また後に夫人となる北原三枝と共演
「嵐を呼ぶ男」
「銀座の恋の物語」
「憎いあンちくしょう」
「夜霧のブルース」
「太平洋ひとりぼっち」 - 日本人初太平洋単独横断の堀江謙一の実話をモデルとした作品
「赤いハンカチ」
「夜霧よ今夜も有難う」
「黒部の太陽」
「素晴らしきヒコーキ野郎」 Those Magnificent Men in Their Flying Machines or How I Flew from London to Paris in 25 hours 11 minutes (共演:スチュアート・ホイットマン(Stuart Whitman)、サラ・マイルズ(Sarah Miles)、アルベルト・ソルディ(Alberto Sordi)、ジャン=ピエール・カッセル(Jean-Pierre Cassel)、ジェームズ・フォックス(James Fox)、レッド・スケルトン(Red Skelton)、ゲルト・フレーベ(Gert Fröbe)、デイム・フローラ・ロブスン(Dame Flora Robson)) - イギリス映画
所内は禁酒のお触れが所長から出されており、唯一認められているのは裕ちゃん一人だった。勿論、傾きかけていた日活を立て直した功績によるものであった。
裕ちゃんの周りはいつも取り巻きの人でいっぱいだった。後に石原プロで活躍する裕次郎の右腕となった俳優部の小林正彦もその一人で、通称(こまさ)と呼ばれていた。後の石原プロの専務で裕ちゃんの補佐役に徹し切り、今もまき子夫人と渡社長を守り続けている大番頭だ。いかつい顔で声も大きかったのを覚えている。
話は戻るが裕ちゃんが飲んでいても、誰も一緒に飲んでいるのを見たことがない。裕ちゃんが勧めても手を振って断っていた。昼間から飲んでいい特権は、裕ちゃんだけのものと心得ていたのだろう。
以下、フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より
主なヒット曲一覧
1961.01 銀座の恋の物語
1965.05 二人の世界
1962.10 赤いハンカチ
1967.02 夜霧よ今夜も有難う/粋な別れ
1957.02 俺は待ってるぜ/狂った果実
1957.08 錆びたナイフ
1966.03 夜霧の慕情
1964.05 俺はお前に弱いんだ
1977.04 ブランデーグラス
1963.09 夕陽の丘
1987.08 北の旅人
1987.04 わが人生に悔いなし
1956.06 狂った果実
1958.01 嵐を呼ぶ男
1973.12 別れの夜明け
1972.02 恋の町札幌
1968.06 サヨナラ横浜
1982.09 俺の小樽
1973.08 港町 涙町 別れ町
1979.07 みんな誰かを愛してる
主な出演映画
「太陽の季節」 - デビュー作
「狂った果実」 - 初主演作、また後に夫人となる北原三枝と共演
「嵐を呼ぶ男」
「銀座の恋の物語」
「憎いあンちくしょう」
「夜霧のブルース」
「太平洋ひとりぼっち」 - 日本人初太平洋単独横断の堀江謙一の実話をモデルとした作品
「赤いハンカチ」
「夜霧よ今夜も有難う」
「黒部の太陽」
「素晴らしきヒコーキ野郎」 Those Magnificent Men in Their Flying Machines or How I Flew from London to Paris in 25 hours 11 minutes (共演:スチュアート・ホイットマン(Stuart Whitman)、サラ・マイルズ(Sarah Miles)、アルベルト・ソルディ(Alberto Sordi)、ジャン=ピエール・カッセル(Jean-Pierre Cassel)、ジェームズ・フォックス(James Fox)、レッド・スケルトン(Red Skelton)、ゲルト・フレーベ(Gert Fröbe)、デイム・フローラ・ロブスン(Dame Flora Robson)) - イギリス映画
タグ:石原裕次郎
あ行
スター気取りのない最高のスターだった
私が日活撮影所に入り、裕ちゃんと最初に接近遭遇したのは、ダビングルームの前であった。丁度、ダビングルームに入りかけたときだった。中から出てくる裕ちゃんに出会った私は「お早うございます!」と云って扉を開けて最敬礼した。
裕ちゃんは私の顔を見て「ウオッス!ありがとう」と答えて、トレードマークの長い足で歩いていく。私はその後姿を眺めながら(んなんと心の優しい人なんだ)と思っていた。大スターともなれば、下っ端のスタッフなど鼻もひっかけないだろうと思っていたからだ。
これが私の裕ちゃんと言葉を交わした最初であった。一寸した挨拶が言葉を交わしたことになるのか疑問だが・・・
以下、フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より転載。
石原 裕次郎(いしはら ゆうじろう、1934年(昭和9年)12月28日 - 1987年(昭和62年)7月17日)は、日本の俳優・歌手。昭和30年代を代表する映画スターである。昭和40年代後半以降はテレビドラマで活躍した。現東京都知事の石原慎太郎は兄。
石原軍団初代総帥(石原軍団の法被による)、石原プロモーション初代社長。所属レコード会社はテイチクだった。
愛称は裕ちゃん(ゆうちゃん)。
終生、酒とたばこを愛し、また大変な偏食で野菜はいっさい受け付けず、ビフテキを主食にしていたといわれるほどであった。比較的短い生涯は、この不摂生が一因であったとの声は多い。
(略歴)
山下汽船に勤める父親の転勤で兵庫県神戸市須磨区・北海道小樽市・神奈川県逗子市と港町に育つ。
かなり裕福な生活を送っていたようで、裕次郎16歳、兄・慎太郎18歳の時に父よりヨットを与えられるほどであった。これをきっかけに、裕次郎はヨットに情熱を傾けるようになり、芸能界入りした後も俳優業より力を入れていた。
しかし、父親の早世により性格がぐれ、慶應義塾農業高等学校時代は手のつけようのない不良だった。2年次から日吉の慶應義塾高等学校へ転籍する。
慶應義塾大学法学部政治学科に入学するも中退。後、しばらく無職であった。俳優になるため東宝、大映、日活のオーディションを受けるが全て失格。1956年、プロデューサーの水の江瀧子(芸能界の育ての親となる)と兄・石原慎太郎の推薦もあり、兄の芥川賞受賞作である日活作品『太陽の季節』の映画版でチョイ役としてデビュー(主演は長門裕之と南田洋子)。日活に原作使用を依頼された慎太郎は弟を主演の条件に出し、映画化された『狂った果実』(中平康監督)で主演しスターとなる。遅刻が目立つため世田谷の水の江瀧子宅に住むようになる。
1957年、テイチクと契約し鶴田浩二に続く歌う映画スターとなる。年末の映画『嵐を呼ぶ男』は歌と共に大ヒットし、その人気は決定的なものとなった。
1958年、文化放送『裕次郎アワー』放送開始。水の江瀧子と共に石原商事設立。
1959年、水の江瀧子宅の隣に豪邸が完成。
1960年、北原三枝と結婚。
1963年、株式会社石原プロモーション設立。
1965年、暴力団国粋会ピストル密輸事件に絡み家宅捜索を受け、銃砲取締法違反で起訴され有罪となる。
1967年、三船プロとの合作で『黒部の太陽』を制作し大ヒット。
1973年、日本テレビ『太陽にほえろ』を制作・出演。映画を離れTVに足場を移す。
1978年、舌癌により入院(本人には告知されず)。
1981年、解離性大動脈瘤で一時危篤状態と取りざたされたが、奇跡の復活を果たす(手術の成功率はわずか3%といわれた)。手術成功のあと、慶應義塾大学病院の屋上から、まき子夫人、渡哲也と共に手を振るシーンはワイドショーで中継され、お茶の間に感動を与えた。しかしその後原発性肝臓癌に侵される(本人には告知されず)。
1987年7月17日午後4時26分、入院先の慶應義塾大学病院にて死去。享年52。市川雷蔵と同じ命日であり、父と同じ年で亡くなった。
伝記としては、兄・石原慎太郎によって書かれベストセラーとなった伝記的小説『弟』がある。これは2004年にテレビ朝日によって同名のタイトル『弟』としてドラマ化された。
裕ちゃんは私の顔を見て「ウオッス!ありがとう」と答えて、トレードマークの長い足で歩いていく。私はその後姿を眺めながら(んなんと心の優しい人なんだ)と思っていた。大スターともなれば、下っ端のスタッフなど鼻もひっかけないだろうと思っていたからだ。
これが私の裕ちゃんと言葉を交わした最初であった。一寸した挨拶が言葉を交わしたことになるのか疑問だが・・・
以下、フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より転載。
石原 裕次郎(いしはら ゆうじろう、1934年(昭和9年)12月28日 - 1987年(昭和62年)7月17日)は、日本の俳優・歌手。昭和30年代を代表する映画スターである。昭和40年代後半以降はテレビドラマで活躍した。現東京都知事の石原慎太郎は兄。
石原軍団初代総帥(石原軍団の法被による)、石原プロモーション初代社長。所属レコード会社はテイチクだった。
愛称は裕ちゃん(ゆうちゃん)。
終生、酒とたばこを愛し、また大変な偏食で野菜はいっさい受け付けず、ビフテキを主食にしていたといわれるほどであった。比較的短い生涯は、この不摂生が一因であったとの声は多い。
(略歴)
山下汽船に勤める父親の転勤で兵庫県神戸市須磨区・北海道小樽市・神奈川県逗子市と港町に育つ。
かなり裕福な生活を送っていたようで、裕次郎16歳、兄・慎太郎18歳の時に父よりヨットを与えられるほどであった。これをきっかけに、裕次郎はヨットに情熱を傾けるようになり、芸能界入りした後も俳優業より力を入れていた。
しかし、父親の早世により性格がぐれ、慶應義塾農業高等学校時代は手のつけようのない不良だった。2年次から日吉の慶應義塾高等学校へ転籍する。
慶應義塾大学法学部政治学科に入学するも中退。後、しばらく無職であった。俳優になるため東宝、大映、日活のオーディションを受けるが全て失格。1956年、プロデューサーの水の江瀧子(芸能界の育ての親となる)と兄・石原慎太郎の推薦もあり、兄の芥川賞受賞作である日活作品『太陽の季節』の映画版でチョイ役としてデビュー(主演は長門裕之と南田洋子)。日活に原作使用を依頼された慎太郎は弟を主演の条件に出し、映画化された『狂った果実』(中平康監督)で主演しスターとなる。遅刻が目立つため世田谷の水の江瀧子宅に住むようになる。
1957年、テイチクと契約し鶴田浩二に続く歌う映画スターとなる。年末の映画『嵐を呼ぶ男』は歌と共に大ヒットし、その人気は決定的なものとなった。
1958年、文化放送『裕次郎アワー』放送開始。水の江瀧子と共に石原商事設立。
1959年、水の江瀧子宅の隣に豪邸が完成。
1960年、北原三枝と結婚。
1963年、株式会社石原プロモーション設立。
1965年、暴力団国粋会ピストル密輸事件に絡み家宅捜索を受け、銃砲取締法違反で起訴され有罪となる。
1967年、三船プロとの合作で『黒部の太陽』を制作し大ヒット。
1973年、日本テレビ『太陽にほえろ』を制作・出演。映画を離れTVに足場を移す。
1978年、舌癌により入院(本人には告知されず)。
1981年、解離性大動脈瘤で一時危篤状態と取りざたされたが、奇跡の復活を果たす(手術の成功率はわずか3%といわれた)。手術成功のあと、慶應義塾大学病院の屋上から、まき子夫人、渡哲也と共に手を振るシーンはワイドショーで中継され、お茶の間に感動を与えた。しかしその後原発性肝臓癌に侵される(本人には告知されず)。
1987年7月17日午後4時26分、入院先の慶應義塾大学病院にて死去。享年52。市川雷蔵と同じ命日であり、父と同じ年で亡くなった。
伝記としては、兄・石原慎太郎によって書かれベストセラーとなった伝記的小説『弟』がある。これは2004年にテレビ朝日によって同名のタイトル『弟』としてドラマ化された。
タグ:映画スター
